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(5)『百姓たち』とトルストイ主義

『百姓たち』(1897)を読んだ。
寒村の貧しい農民たちの過酷な生活を描いた作品である。
そこで描かれる「百姓たち」は、作品中で端的に要約されているように「粗野で、不正直で、不潔で、飲んだくれで、睦まじく暮らすことを知らず、常に争っている」。一言でいえば、「家畜よりひどい生活をしている」人々だ。

チェーホフは、なぜ、このような作品を書いたのだろうか?

アンリ・トロワイヤの『チェーホフ伝』によれば、この作品の発表はひとつの「文学的事件」と受け止められ、「激しい論戦が火花を散らした」が、概して「称賛が多かった」。作品を称賛する声として、「ひとつの時代を再現してくれる」、「随所に事実の悲劇、抗いがたい力強さがみられる」といった評価が紹介されている。
一方で、トロワイヤの伝記には、以下のような気になる記述もある。

民主主義の一派やトルストイ主義者は、チェーホフがロシアの農民のイメージを悪くして喜んでいる、といって非難していた。著者は、そういった連中に、自分は五年間も医者として農民の没落振りに接してきたのだし、だれよりも自分の証言は真実に近い、と反撃してもよかったのだが、それでも例の調子で自分の短編をめぐって論争が始まっても、我関せず、といった態度を崩さなかった。(アンリ・トロワイヤ、村上香住子訳『チェーホフ伝』中央公論社、1987)

チェーホフ研究者の故・池田健太郎氏の著書は、民主主義の一派やトルストイ主義者が『百姓たち』に抱いた反発について、さらに分かりやすく解説してくれる。

ここ[というのは、冒頭で引用した語句を含む『百姓たち』の一節である。筆者注]で、チェーホフは農民の生活を少しも理想化しておりません。当時の農村小説には、虐げるものと虐げられるものという図式があって、農民を理想化して描くのがパターンとなっていました。それで人民主義者(ナロードニキ)たちはこの一節を読んで大いに憤慨したと伝えられております。ソビエト初期の農村詩人エセーニンもチェーホフをとても嫌いましたが、チェーホフの「百姓」の描写を気味悪い不愉快なものと感じたのでしょう。(池田健太郎『チェーホフの仕事部屋』新潮選書、1980)

興味深いのは、この作品に反発した同時代の人々について、池田氏が「人民主義者(ナロードニキ)たち」と書き、アンリ・トロワイヤは「民主主義の一派やトルストイ主義者」と書いていることである。ここでは、人民主義とトルストイ主義という二つの「主義」が具体的に名指しされている。

世界史の教科書でもなじみ深い「ナロードニキ」は、19世紀後半のロシアにおいて農村共同体を基盤に革命思想を広めようとした社会主義者の一派を指す。さて、トルストイ主義とは、いかなる「主義」であろうか?

手っ取り早く、参考図書に頼ってしまうが、平凡社の『ロシア・ソ連を知る事典』(初版1989)の「トルストイ(レフ・ニコラエヴィッチ)」の項に、「トルストイ主義」について、以下のような簡潔で的確な記述がある。

文明の悪に抗して、オプロシチェーニエoproshchenie(簡素な農民的生活を送ること)を理想とした合理的でピューリタン的でアナキズム的性格の濃いキリスト教――いわゆるトルストイ主義――の教義(川端香男里氏執筆)

真実の探求者、伝道者としてのトルストイは、文明に対する自然の優位を説いたとされる。

「文明と自然(あるいは簡素な農民の生活)との対比」、そして「トルストイ主義」といったキーワードから思い出されるチェーホフの有名な手紙がある。1894年にチェーホフの庇護者であった新聞社主スヴォーリンに宛てた手紙である。
その中で、チェーホフは、長い間トルストイの思想に呪縛されていたこと、そして、やがてその呪縛から解放されたことを告白している。
以下、長くなるが、その手紙の一部を抜粋する。

・・・僕はトルストイの道徳律(モラル)に感動することがなくなり、心の奥底では彼のモラルに反発しています。もちろん、これは正しくないことでしょうが。僕のなかには百姓の血が流れていますから、僕は百姓の徳行なんぞに驚きゃしません。少年時代から、僕は進歩を信じてきた、信じないではいられなかった。なぜかと言うと、僕が鞭打たれた時代と、鞭打たれなかった時代との相違が、あんまり大きかったからです。<中略> ところが、トルストイの哲学が強く僕の心を打ち、六、七年のあいだ僕の心を占めた。しかもその時僕に影響を与えたのは、前から僕の知っていた基礎的な論旨ではなく、トルストイの表現法、判断、おそらくは彼一流の催眠術だったのです。今では、僕のなかで何かが抗議しています。慎重さと正義が僕に向かって、純潔や肉の節制におけるよりも電気や蒸気のなかにこそより多くの人間への愛があると語っています。戦争は悪である、裁判は悪である、しかしだからといって、僕がボロを着て歩いたり、小作人やその女房と一緒に暖炉の上に寝なければならぬ理由はない。しかし、問題はそのことに、《賛否》にあるのではありません。そうではなくて、いずれにせよ僕にとってトルストイがもう過ぎ去ってしまったこと、今や僕の心の中には彼がおらず、彼が僕のなかから、われ汝の家を空のままにせんと言い残して出て行ったことにあるのです。僕は客を出して自由になったのです。・・・(1894年11月27日付け、池田健太郎訳。強調は筆者による。)

この手紙には、農村生活の「清貧」を信奉し、農民の簡素な生活を理想化するトルストイの思想から脱却し、「進歩」や「文明」をより重視しようとしたチェーホフの率直な心情が現れているように思われる。

ここで最初の疑問に戻る。
チェーホフは、なぜ、この作品を書いたのか?

『百姓たち』を書いたチェーホフの意図は、貧しい農民たちの実情をありのままに記録することと合わせて、トルストイ主義への決別を宣言する意味もあったと考えられないだろうか?
そうであれば、トルストイ主義者からの「非難」は、作家にとって目論見どおりだったことになる。

もちろん、チェーホフは、悪徳にまみれた百姓たちを糾弾したかったわけではない。そのことは、冒頭で紹介した『百姓たち』の一節に続く以下の記述にも表れている。

しかし、彼らとてやはり人間なのだ、人なみに悩みもするし、泣きもする、彼らの生活にも弁解の見いだせぬようなものは何一つないのだ。毎夜身体のふしぶしが痛むような辛い労働、きびしい冬、とぼしい収穫、狭苦しさ、それなのに救いはなく、それを期待すべきところもない。・・・(池田健太郎訳)

未来のいつか、これらの不幸な人びとの身の上にも、進歩や文明の恩恵があまねく行き渡る穏やかな日々が訪れてほしい、そんな切なる願いを、きっとチェーホフは抱いていたのだろう。

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