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(3)チェーホフの女性観、結婚観

 前にも書いたが、コロナ禍の日常(非日常?)のなか、チェーホフの中期以降の小説作品を少しずつ読んでいる。一話読んでは、その作品に込められたチェーホフの思いを考えている。

 今回は、あまり注目されることのない短編『アリアドナ』(1895)をとりあげたい。チェーホフの女性観、結婚観がうかがえる作品であり、そのような意味で、例えば『三年』(1895)や『文学教師』(1889)などに通じるものだ。

 チェーホフの作品では、幸福な結婚生活といったものは、ほとんど描かれない。特に、男の視点から語られる結婚生活は、しばしば不幸であり、不毛である。甘い新婚生活が描かれることがあっても、たいていの場合、つかの間の熱中が過ぎ去ると、砂をかむような幻滅の日々が待ち受ける。

 『アリアドナ』の場合はこんな風だ。

 地主階級の主人公シャモーヒンは、若い頃から近隣の地主の娘アリアドナに熱烈な恋をしていた。アリアドナもそれを承知しているが、自分の魅力を十分わきまえている彼女にとって、シャモーヒンは、いまひとつ飽き足らない。シャモーヒンの方も、彼女のそんな気持ちに気づいているので決然とした態度をとれず、煮え切らない。
 そんなある日、アリアドナは、田舎の日常に退屈し、兄の友人で妻子持ちで遊び人のルブコフにそそのかされて、一緒に外国に旅立ってしまう。
 外国で金に困ったアリアドナから呼び寄せられたシャモーヒンは、オーストリアのリゾート地に彼女を迎えに行くが、そこで、アリアドナがルブコフと関係を持ったことを知り、幻滅して彼女のもとを去る。
 しかし、アリアドナを思いきれないシャモーヒンは、再びアリアドナから呼ばれてローマへ赴き、そこでついに彼女と結ばれることとなる。
 ひと月ほどは「恍惚境に陶酔」したシャモーヒンであるが、やがて、アリアドナがやはり自分を愛していないことを知り、しだいに彼の恋も冷めていく。

 以下は、シャモーヒンの独白からの抜粋である。

彼女(アリアドナ)には毎日男を魅惑し、俘(とりこ)にし、気狂いにすることが必要でした。私が彼女の手のうちにあり、彼女の魔法にかかって全くの痴人になり果てることが、彼女には馬上試合に勝を得た中世の武士みたいな慰めだったのです。私を征服しただけでは足りないと見えて、夜になるとまるで牡鹿みたいに寝そべって、しょっちゅう暑がっていましたから毛布も掛けずに、ルブコフから来た手紙を読むのでした。(中略)また自分の魅力については彼女はひどく変わった考えを持っていました。もしも何か大勢人の集まる場所で、自分の素晴らしい身体つきや薔薇色の皮膚を見せてやれたなら、全イタリーを、いや全世界を征服出来るのに、と言うのです。(神西清訳。以下同じ)

 魅惑的なアリアドナにとって、男は自分の「女性としての力」を測る器に過ぎない。彼女は、ひとりの男との関係を成就させたとしても、それに満足せず、社会的・経済的により「大物」の男を征服しようと躍起になる。彼女にとって、男は、たかが<器>、されど<器>なのである。

 シャモーヒンは、また、こうも考える。

神があれほどの美しさと優雅さと叡智を彼女に授けたのはいったいなんのためだろう? まさか、寝床の中でごろごろしたり、食べたり、際限もなく嘘を吐いたりするためではあるまい。

 神々しく、永遠とも感じられる女性の「美」が、卑俗さにまみれているのは、いったいどういうことだ? というわけである。

 外国暮らしで浪費の限りをつくしたシャモーヒンとアリアドナは、結局、ロシアに帰らざるを得なくなる。作品の形式としては、シャモーヒンは、その帰りの船中で、作者自身を思わせる「語り手」に自分の身の上を語って聞かせる、という体裁がとられている。
 シャモーヒンは、ロシアに帰ったら、当然の「義務」として、アリアドナと結婚することを覚悟している。ところが、寄港地のヤルタで、アリアドナと彼女の兄が一計を案じて、さる公爵を誘惑しようとしていることを知ったシャモーヒンは、語り手に告げるのである。

ああ有り難い。これであの女が公爵と意気投合すれば、それこそ自由じゃありませんか。その時こそ私は田舎の父のところへ帰れるじゃありませんか。

 シャモーヒンの期待がどのような結末に至ったか、語り手は見届けていない。結末はどうあれ、「女性の美」や「結婚生活の希望」といったものに対するシャモーヒンの徹底的な失望は揺るぎようがない。

 言うまでもなく、シャモーヒンはチェーホフの考えを直接代弁しているわけではない。作家は、そのような疑いをかけられないように、わざわざ、シャモーヒンに反論する語り手を用意している。語り手は、シャモーヒンに「なぜ、問題を一般化するのか。なぜ、アリアドナ一人をもって総ての女性を律するのか」と問いかけるのである。

 しかし、いずれにせよ、シャモーヒンの経験は、チェーホフ自身が抱いていた相当に辛らつな女性観や結婚観を、少なくとも、その一側面を物語るものと言えるのではないだろうか? もちろん、それがすべてではないとしても。



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