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(7)『すぐり』―「負の典型」としての人物像②―

前回の『箱に入った男』に引き続き、連作短編2作目の『すぐり』(1898)について書く。

『すぐり』の語り手は獣医のイワン・イワーヌィチ(彼の姓は長たらしく珍妙なので、もっぱら名前と父称で呼ばれている)、聞き手は中学校教師で狩猟仲間のブールキンと彼らをもてなす地主のアリョーヒンである。
獣医は実の弟ニコライ・イワーヌィチについて物語る。

イワンとニコライの兄弟は世襲貴族の身分であり、少年時代は領地で田舎暮らしをしていたのだが、父の死後、領地は借金のかたに取られてしまう。弟のニコライは19歳で役人となり、税務監督局に勤務する。

ニコライは、しだいに役所勤めにうんざりし、田舎暮らしが恋しくてならなくなる。そして、いつか、自分自身のささやかな領地と地主屋敷を手に入れることが悲願となる。その領地にはぜひとも「すぐり」の木が植わってなくてはならない。

未来の田園生活を夢見て、ニコライは生活費を切りつめ、せっせと金を貯める。その上、「年とったみにくい後家」(ひどい表現ですね)と金銭目当てで結婚し、その貯金を自分名義にしてしまう。結婚後も、相変わらずひどい貧乏暮らしで妻にひもじい思いをさせ、妻は見る見るやせおとろえ、3年ほどで亡くなってしまう。

そして、ついにニコライは「地主屋敷と召使の部屋と庭のある百十二ヘクタールの領地」を手に入れて、地主暮らしを始める。彼は悲願を達成したのだ。
兄のイワンが久しぶりに弟の領地を訪ねると、ニコライは「老け込んでぶくぶくに太り、皮膚がぶよぶよ」と面変わりしていた。

「弟は、もう以前の臆病な貧乏官吏ではなく、立派なひとりの地主、旦那でした。彼は自分の領地に住み慣れて味をしめ、腹いっぱい食べて風呂に入り、ぶくぶく太ったばかりか、農民組合や例の二つの工場[領地内の川の水を汚している工場。引用者注]と訴訟を起こしたり、百姓たちが≪閣下≫と呼ばないとひどく腹を立てたりしました。自分の魂のことを心配するのも勿体ぶって旦那らしくやるかと思えば、善行を行うのもさりげなくやるのではなく、実に勿体ぶってやる。しかもその善行というのがどんなことだと思います? 百姓たちのあらゆる病気をソーダとヒマシ油で直す、自分の名の日には村のまんなかで感謝の祈祷をあげさせ、そのあとでウォッカを半樽もちだす。そうすることが必要だと思っているわけです。(中略)むかしは税務監督局にいて、保身のために自分の意見ひとつ持つのを恐れていたニコライ・イワーヌィチが、今は口を開けば真理真理と言って、それもまるで大臣そこのけの口調なのです。――やれ、『教育は必要かくべからざるものだが、民衆には時機尚早である』だの、やれ、『体刑はがいして有害だが、ある場合には有益であり、やむをえない』だのというわけです。」(池田健太郎訳。以下同じ)

夕方、兄弟がお茶を飲んでいると、料理女が「すぐり」の実を山盛りにした皿を運んでくる。ニコライの領地でとれたものである。
すると、ニコライは「眼に涙まで浮かべて」すぐりの実を見つめ、ひとつ口に入れて「実にうまい!」と言う。そして、むさぼるようにすぐりの実を食べながら、絶えず繰り返す。「ああ、うまい! 兄さん、食べてごらんなさい!」
(実のところ、兄が食べてみると「すぐりは固くて酸っぱかった」。)

ニコライは、生涯かけて自分の念願をかなえたのであり、その意味で彼は成功者であり、勝利者である。実際に、彼は幸福を感じている。
しかし、チェーホフは、まぎれもなく、ニコライをある種の「負の典型」として描いている。
ささやかな領地を手に入れて、地主として領民たちに君臨し、素人考えで彼らを治療したり、ウォッカをふるまったりすることを善行と考えている、自分に満足した独りよがりの俗物である。

そのような否定的な人物の描写で終われば、分かりやすい話であった……のだが、この作品は少し複雑である。
ニコライの領地で、「自分の運命にも自分じしんにも満足しきっている幸福な」弟を見たイワンは、なぜか物悲しい、重苦しい感情に捕えられ、眠れぬ夜を過ごす。

「わたしはふと、どんなに多くの満足した幸福な人がこの世にいるかを考えてみました。実際それは何という圧倒的な力でしょう! まあ、現実の生活を見つめてごらんなさい、――強者の厚かましさと怠け癖、弱者の無知と家畜並みの暮らし、いたるところに見られる信じられないほどの貧乏、狭苦しさ、堕落、泥酔、偽善、虚偽……。それでいながら、どの家にも往来にも静けさと安らかさがただよっている。町に住む五万の民衆のなかで、叫びをあげたり大声で抗議したりする者はひとりもいない。(中略)苦しんでいる連中は、姿も見せなければ声も聞かせない。人生の恐ろしい事柄は、どこか舞台うらで起こっている。いっさいが静かで穏やかであり、抗議しているのはただ物言わぬ統計だけです。何人の人間が発狂し、いく樽のウォッカが飲まれ、何人の子供が栄養失調のために死んだか、という統計だけなのです。……そりゃまあ、こういった秩序も必要には違いない。確かに幸福な人が気持ちよく感じるのは、不幸な連中が自分の重荷を黙って我慢しているからに他ならないわけだし、事実この沈黙がなければ、幸福なんかあり得るものではない。世間全体が催眠術にかかっているのです。」

そして、イワンは、自分もまた満足した幸福な人間であったことに気づく。
社会の不公正や矛盾を十分知りながら、理想が実現するには時間がかかるものであり、辛抱強く待たねばならないと言って、自分を欺いていたことに気づく。
だが、そのような不公正や矛盾に立ち向かって何かを為すには、彼にはもう若さがない。

「わたしはもう年を取って戦いには向かない、もう憎悪することさえできない。わたしは心の中で悲しみ、いら立ち、腹立たしく思うのが精一杯です。毎夜つぎつぎと浮かぶ考えに頭が燃えて、眠ることもできない。……ああ、もう少しわたしが若かったら!」

物語の最後で、イワンは、まだ若い地主のアリョーヒンに対して、祈るように訴えるのである。

「安心をきめこんでいてはいけない、居眠りをむさぼっていてはいけない! 若くって、元気で、力のあるうちに、せいぜい良いことをなさい! 幸福なんかありはしない、あるはずもない。もし人生に意義や目的があるとしたら、その意義や目的は、決してわれわれの幸福のなかにはなくて、何かもっと賢明な、偉大なもののなかにあるのです。よい事をなさい!」

このように、獣医の物語は弟のエピソードから大きく逸脱してしまう。
そのため、この作品は、なにかまとまりに欠けた、ちぐはぐなものに感じられる。
作品を貫くテーマが、地主に典型的なあるタイプの人物像をくっきりと描き出すという明確な中心から、語り手自身も含めた知識階級全体の幸福な生活に隠れた無意識の欺瞞へと拡散されてしまうのだ。
しかも、獣医の議論は感傷的で焦点が定まらず、なにか漠然とした感慨のようで、読者に訴えかける力強さがあまり感じられない。

チェーホフが、作品全体の構成を損なってまで、このような感慨を獣医に吐露させたのはなぜなのか?
おそらく、チェーホフは書かずにいられなかったのではないか?

以前も書いたが、チェーホフは、作品の中に自分の分身を描かなかったとされる。しかし、作品中の登場人物に自分自身の真実の声をそれとなく託すことは、しばしば行っているように思う。
『すぐり』における獣医の議論にしても、かなりの程度、遠くない死期を予感した作家自身の肉声を反映しているように思えてならない。

ただし、チェーホフは、登場人物の声が自分の思いを代弁していることを読者からは悟られまいとする。
『すぐり』においても、獣医の物語が終わった後に続く文章は、次のようなそっけないものだ。

それなり三人は、客間のそれぞれの隅にある肘掛け椅子に腰を下ろしたまま黙っていた。イワン・イワーヌィチの話は、ブールキンにもアリョーヒンにも不満だった。夕暮れの薄明りにかすんで生きているように見える将軍や貴婦人[の肖像画]が、金色の額縁から見下ろしているときに、すぐりの実を食べる小役人の話を聞くのはひどくわびしかった。……

ここでは、獣医の議論が相対化され、突きはなされてしまうのだ。

チェーホフは、作中人物に作家自身の声を仮託する場合でも、それをあくまでも登場人物のひとりに属する意見や考えであるように見せかけ、特別扱いされないようにする。
なんだか、作品の中でかくれんぼをして、読者をからかう「いたずらっ子」のようだ。

【補足】連作短編3作目の『恋について』では、地主のアリョーヒンが、自分自身の報われぬ恋について物語る。これは「負の典型」としての人物像を描くものではないが、恋をする場合には「こうあってはならない」という教訓となっている。あえて、3作品の共通項をまとめるとすれば、いずれも「反面教師」を描いたものと言えるかもしれない。

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