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キリル総主教の下院での演説

ロシア正教会のキリル総主教と言えば、しばしばプーチン政権との関係の近さが取りざたされてきた。
キリル総主教は、ウクライナやベラルーシを包含する「ルースキー・ミール」(ロシアの世界)という価値観をプーチン氏と共有するとされ、今回のウクライナ侵攻に際しても、いちはやく支持を表明し、祝福を与えたことが注目されている。
そのような意味で、プーチン政権にとって、キリル総主教が率いるロシア正教会は、大国ロシアの一体性の象徴であり、国内を統治する上での精神的支柱の役割を果たしていると考えられる。

今回ご紹介する記事は、そのキリル総主教が一月下旬に連邦議会下院で行った演説について、『ニェザヴィーシマヤ・ガゼータ(独立新聞)』が報じたものである。

『ニェザヴィーシマヤ・ガゼータ』はソ連末期の1990年に創刊され、ポスト・ソヴィエト期に有力紙として成長した、代表的な独立系メディアのひとつである。英語版Wikipediaによれば、同紙の現在の論調は、プーチン政権に対して「mildly critical」であるとされ、昨年発行許可を取り消された『ノーヴァヤ・ガゼータ』などに比べると穏健ではあるが、現政権とは一定の距離を置いているようだ。

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総主教の言葉下院に届かず
―政治家と信者の間における精神的・道徳的な価値に対する理解の差異について―

キリル総主教は、木曜(1月26日)、毎年のクリスマス集会に因む恒例行事として、連邦議会下院の総会で演壇に立った。ロシア正教会トップに続いて、議会各党派のリーダーや代表も演説を行った。総主教も、議員たちも、あたかも一様に、愛国心について、そしてロシアのアイデンティティの堅持について語ったように見えたが、それでも、結果としては、情緒の面で本質的な不調和の感じが残された。

下院での総主教の演説は、要点としては、そのほとんどが直近に語られた自身の見解を繰り返すものであり、その中で最も新しいものは水曜のクリスマス集会の開会に際してのスピーチであった。しかしながら、議場の演壇から響いた言葉の中には、いくぶんか、なにやら見解とすら言えないものではあるが、下院議員たちが、おそらく、受け入れることのできない、あるいは、望まないような、情緒的な衝動の現われがあった。

特徴的なこととして、ロシア正教会のトップは、自分の演説を、市民としての義務ではなく、人間の個人としての自覚に関するモチーフから始めた。彼は、すべてに先立つものは、人間の幸福であり、幸福になることが可能であるのは平和という条件のもとのみであると表明した。「最も重要なテーマは、すべての軍事行動の終結、和平、この衝突に引き込まれた民族間の関係修復に関わることです。」そのように総主教は強調した。

キリル総主教の演説には、愛国心の重要性についての多くの伝統的な議論が含まれていた。総主教は、また、議員たちの前で、教会がその主要な社会的基盤とみなすもの、すなわち聖職者とその家族たちの社会的擁護の必要性を一貫して訴えるために、下院の演壇を利用することを忘れなかった。こういったことはすべてこれまでどおりだが、その修辞的表現やロビー活動としての組織的な介入といった内容から漏れ出るように、十分にヒューマニスティックなトーンを聞き取ることができた。

ニュース記者たちが即座に反応したのは、部分動員令に際し国外に退去した若者たちに対して、すべて一律の措置で対処するべきではないという総主教の発言だった。総主教は、出国者たちそれぞれに様々な理由があり得たことを指摘した。さらに、総主教は、兵役義務や軍事行動について論じながら、クリスチャンの兵士は人道的立場を遵守すべきであり、冷酷であってはならないという点に注意を促した。「敵軍との戦闘が、個々の人間に対する憎しみと化すことがあってはなりません。」戦線の向こう側で、ロシア人捕虜たちがどれほど残忍な扱いを受けているかに思いを馳せつつ、ロシア正教会のトップはそう述べた。

総主教の呼びかけに応じながらも、彼がはっきりと「教会による平和護持」と名づけるのものに議員たちは少しも注意を向けなかった。議員たちの関心はもっぱら、西側世界がロシア国民から奪おうと望んでいる国家的アイデンティティの問題に集中していた。人道主義的なテーマが代議士たちの琴線に触れることはまったくなかった。「公正ロシア」のセルゲイ・ミロノフ党首は、軍がキエフを奪取し、ウクライナ現政権を打倒するまでは、立ち止まってはならないと呼びかけた。「新しい人々」党の代表で俳優のドミートリー・ペフツォフ議員の声明は、現在進行中の諸事件を定義するための創造的アプローチと称して、それらを「神聖な軍事作戦」と呼ぶことを提案したが、キリル総主教が演説の冒頭で述べた「神聖な平和」という言葉はひと言も発しなかった。宗教界のリーダーが展開した「憐れみ」のテーマを引き継いだ発言は誰からもきかれなかった。

総主教も下院議員たちも、若い世代に対する精神的・道徳的教育に関して多くを語ったが、そのような教育の本質についての意見表明は、結局、勇敢な愛国心に帰着した。ペフツォフ議員は、彼の意見によれば、下院が信仰の篤い国家を代表するものであるということを、公式に示すために、院内に正教会の小礼拝堂を設置することを提案した。しかし、下院付きの司祭による日々の典礼や説教が、人間の生命の価値を謳いあげ、「汝の敵を愛せよ」(マタイによる福音書5章44節)と命ずる信仰というものの本質の理解へと、政治家たちを導くだろうという保証はない。多くの者が思い描く精神的・道徳的な教育は、「軍事・道徳的な」教育へとすり替えられつつある。もちろん、そのことによって、伝統的な諸宗教が何世紀にもわたって培ってきた遺産が無に帰してしまうようなことは、決してないのだが。

『ニェザヴィーシマヤ・ガゼータ』2023.1.26(全文訳)

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今回は、翻訳に非常に苦労した。ロシア語の実力の乏しさを痛感したが、実際に語彙も難しく、構文も解読しにくい記事だった。その分、訳文の方も、(申し訳ないが)誤訳を含め、不完全で読みにくいものとなっていると思う。

ただ、確かなことは、この記事の趣旨が、ロシア正教会のトップと現政権下の政治家たちとの間に、分断とまでは言えないとしても、意識の「ずれ」が生じている可能性を指摘するものである、ということだ。
記事の中では、「不調和」という言葉が使われているが、引用されたキリル総主教の言葉は、不調和や不協和音といったあいまいなものではなく、むしろ明確に反戦平和を、そして停戦を訴えているように受け取れる。
とすれば、今回の「特別軍事作戦」に対するキリル総主教の認識や、あるいはロシア正教会としてのスタンスに、今や若干の修正が加えられつつあるということなのだろうか?

記事の論調は穏健ではあるが、その筆者が、不調和を指摘する双方、すなわち総主教と下院議員たちとの間のどちら側についているかと言えば、どうやら総主教の側であるらしいことは読みとれる。そのことは、下院に小礼拝堂を設置することを提案したペフツォフ議員に対する揶揄のトーンにも表れている。

あるいは『ニェザヴィーシマヤ・ガゼータ』の編集部は、キリル総主教の演説から、いわば「希望的観測」によって自分たちが特に聞き取りたかったニュアンスを強調しただけなのかもしれない。

しかし、もし実際に、キリル総主教とロシア正教会が、停戦の実現を念頭にプーチン政権から徐々に距離を取ろうとしているのであって、下院での演説がその兆しであったのだとすれば、そのような路線変更は、間違いなく、今後のロシア国民全体の意識のありようにとって非常に重要な意味を持ってくるのではないか。

それも「希望的観測」に過ぎないかもしれないが……







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