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(10)『犬を連れた奥さん』―美しい不倫の物語―

この短編小説を何度読み返したことだろう? この前読んだのはいつだっただろう?
あらためて読んでみると、その一場面一場面が、まるで映画のシーンのようによみがえってくる。
その作品とは「犬を連れた奥さん」(1899)のことである。
この不倫の物語は、チェーホフが書いた最も美しい恋愛小説であろう。

主人公のグーロフは、四十歳前の銀行員で、子供は三人いるが夫婦関係は冷え切っている。なぜか女性にモテ、もう長いこと何人もと浮気を重ねているプレイボーイだ。女性の話になると「低級な人種ですよ!」とけなしながら、「そのじつこの『低級な人種』なしには、二日と生きていけない始末」である。
彼は、夏の休暇を一人で過ごしに来た黒海沿岸の保養地ヤルタで、やはり一人でやって来た「犬を連れた奥さん」ことアンナ・セルゲーヴナと出会う。そして、この若くて美しい人妻に近づき、首尾よく思いを遂げる。

最初に読んだ時から強く印象に残り、忘れられない場面が二つある。

一つ目は、グーロフとアンナが初めて関係を持った直後の描写である。
アンナの部屋で、彼女は自ら犯した過ちに打ちひしがれる。その嘆きようが、グーロフには大げさな、奇異なものに思われる。

……アンナ・セルゲーヴナ、つまりこの『犬を連れた奥さん』は、もちあがった事に対して何かしら特別な、ひどく深刻な、――打ち見たところまるでわが身の堕落にでも対するような態度をとっていて、それがいかにも奇態で場違いだった。彼女はがっかりした気落ちのした凋(しお)れた顔つきになって、顔の両側には長い髪の毛が悲しげに垂れさがって、鬱々とした姿勢で思い沈んでいるところは、昔の画にある罪の女にそっくりだった。
「いけませんわ」と彼女は言った。「今じゃあなたが一番わたしを尊敬して下さらない方ですわ。」
 部屋のテーブルの上に西瓜があった。グーロフは一きれ切って、ゆっくり食べはじめた。……(神西清訳。以下同じ)

罪の意識に苛まれ、うなだれる女性の傍らで、その共犯者である男が、平然と西瓜を切り取って食べたというのである。初読の際に、この男の無神経さ、卑俗さに、私は驚き、あきれた記憶がある。この描写は、アンナと親密になった当時のグーロフの生き方や日常感覚を象徴している。

いずれにせよ、二人はそれ以来、この保養地で昼も夜も行動をともにするようになる。
グーロフはますます情熱的にアンナに惹かれていく。一方、アンナの方も、役人である夫にはとうに愛想をつかしており、グーロフを愛するようになるのだが、ともすれば物思いに沈みがちで、相手の自分に対する尊敬の念が足りないことをこぼすのである。
やがて、アンナの夫から早く帰ってくるようにと妻に促す手紙が届き、二人に別れが訪れる。
夫が待つS市へと帰るアンナを見送り、グーロフもモスクワでの日常に戻っていく。

グーロフは、モスクワに帰ってひと月もすればアンナとの思い出も次第に薄れ、彼の女性遍歴に加えられたただの一頁になるだろうと思っていた。
ところが、予想に反して、アンナの面影はいつまでも消えず、「追憶がますます強く燃え上がって行く」。町へ出ると、グーロフは、行きかう女たちにアンナの姿を求め、そのうちに、アンナとの思い出を誰かに話したくてたまらなくなってくる。

私にとって、強く印象に残る二つ目の場面は、そんな折、グーロフのいつものカルタ遊びからの帰途を描いた次の場面である。

 ある夜更けのこと、遊び仲間の役人と連れ立って医師クラブを出ながら、彼はとうとう我慢がならなくなって口を切った。――
「じつはねえ君、ヤールタで僕はうっとりするような美人と交際を結んだんですよ!」
 役人は橇に乗りこみ、暫く走らせていたが、急に振り返りざま彼の名を呼んだ。――
「ドミートリー・ドミートリチ!」
「ええ?」
「いや先刻あんたの言われたのは本当でしたな。いかにもあの鱘魚(ちょうざめ)には臭みがありましたわい!」
 こんな何の変哲もない言葉が、どうした加減かぐいとグーロフの癇に障って、いかにも浅ましい不潔な言い草に思われた。何という野蛮な風習、何という連中なのだろう! 何という愚かしい毎夜、何というつまらない下らない毎日だろう! 半狂乱のカルタ遊び、暴食に暴飲、だらだらと果てしのない何時も一つ題目の会話。役にも立たぬ手なぐさみや、一つ話題のくどくど話に、一日で一番いい時間と最上の精力をとられて、とどのつまり残るものといったら、何やらこう尻尾も翼(はね)も失せたような生活、何やらこう痴(たわ)けきった代物(しろもの)だが、さりとて出て行きも逃げ出しもできないところは、癲狂院か監獄へぶち込まれたのにそっくりだ!
(「癲狂院」とは精神科病院のことである。引用者注)

この場面では、グーロフが、彼を取り巻く日常生活の愚劣さ、俗悪さにはっきりと気づき、覚醒したことが示される。最初の引用で指摘したように、そのような愚劣さ、俗悪さは、実はグーロフ自身がどっぷり漬かっていたものである。

グーロフを目覚めさせたのはアンナ・セルゲーヴナである。彼女と過ごした日々の思い出が、グーロフを卑俗な日常から引き出し、より高い世界へ向かわせる契機となった。
グーロフへの愛に身を焦がしながら、同時に、夫に対する不義を心底から怖れ、自分を責め、苦しまずにいられなかった、真摯な、気高い魂が、中年男の人生を一変させたかのようである。

グーロフは、十二月の休暇を待って、アンナの住むS市へと出かける。そして、アンナと再会するチャンスを思いめぐらし、ようやく町の劇場でアンナの姿を見つけ、夫が離れたすきに彼女に歩み寄る。動転したアンナは劇場内を足早に歩き回り、人目のつかぬ薄暗い階段でグーロフと向き合うと、私の方からモスクワへ会いに行くので、今日は帰ってくれと告げる。
そして、アンナ・セルゲーヴナは、二、三か月おきにグーロフとの逢瀬のためにモスクワを訪れるようになるのである。

こうしてグーロフにとっての二重生活、すなわち家庭や銀行勤めを含む公然の生活とアンナと過ごす秘密の生活が始まる。

……彼には生活が二つあった。一つは公然の、いやしくもそれを見たい知りたいと思う人には見せも知らせもしてある生活で、条件付きの真実と条件付きの虚偽で一ぱいな、つまり彼の知合いや友達の生活と全く似たり寄ったりの代物だが、もう一つはすなわち内密に営まれる生活である。しかも、一種奇妙な廻り合せ、恐らくは偶然の廻り合せによって、彼にとって大切で興味があって是非とも必要なもの、彼があくまで誠実で自己をあざむかずにいられるもの、いわば彼の生活の核心をなしているものは、残らず人目を避けて行われる一方、彼が上辺(うわべ)を偽る方便、真実を隠そうがために引っ被る仮面――例えば、彼の銀行勤めだの、クラブの論争だの、例の『低級な人種』といった警句だの、細君同伴の祝宴めぐりだのといったものは、残らずみんな公然なのだった。……

先の展望がまったく見えない恋を生きる二人は、会うたびごとに自分たちの困難な状況を解決する方法を相談する。「どうしたら一体、人目を忍んだり、人に嘘をついたり、別々の町に住んだり、久しく会わずにいなければならないような境涯から、抜け出すことが出来るだろうか」「どうしたらこの堪えきれぬ枷(かせ)から逃れることが出来るだろうか」について語り合うのだ。

そして、小説の終わりで、二人は、そのような複雑で困難な道のりはまだ始まったばかりであり、旅の終わりははるか遠い先であることを感じている、と結ばれる。

作者はグーロフとアンナ・セルゲーヴナとの関係を「とても近しいもの同士のように、親身の者同士のように、夫婦同士のように、濃やかな親友同士のように、互いに愛し合っていた」と描写し、さらに次のように書いている。「二人はお互いに過去の恥ずかしい所業を宥(ゆる)しあい、現在のことも総て宥しあって、この二人の恋が彼らをともに生まれ変わらせてしまったように感じるのだった。」

グーロフとの出会いがアンナ・セルゲーヴナを偽りの生活から救い出し、そして、アンナ・セルゲーヴナとの火遊びがグーロフの覚醒をもたらした。そうであったとしたら、この頼りなげな若い女性との恋の果たして何が、グーロフのような世慣れた遊び人を改心へと導いたのだろうか?

この作品には、もう一つ、印象的な、美しい場面がある。

グーロフとアンナが初めてともに一夜を過ごした後、二人は、辻馬車を拾いヤルタ近郊の景勝地オレアンダを訪れる。そして二人は、海を見下ろす夜明けのベンチに腰掛け、遥か下の足元から響いてくる波の音にじっと耳を傾ける。

……遥か下のそのざわめきは、まだここにヤールタもオレアンダも無かった昔にも鳴り、今も鳴り、そしてわれわれの亡い後にも、やはり同じく無関心な鈍いざわめきを続けるのであろう。そしてこの今も昔も変わらぬ響き、われわれ誰彼の生き死には何の関心もないような響きの中に、ひょっとしたらわれわれの永遠の救いのしるし、地上の生活の絶え間ない推移のしるし、完成への不断の歩みのしるしが、ひそみ隠れているのかもしれない。明け方の光の中でとても美しく見える若い女性と並んで腰をかけ、海や山や雲やひろびろとした大空やの、夢幻のようなたたずまいを眺めているうちに、いつか気持ちも安らかに恍惚(うっとり)となったグーロフは、こんなことを心に思うのだった――よくよく考えてみれば、究極のところこの世の一切は何と美しいのだろう。人生の高尚な目的や、わが身の人間としての品位を忘れて、われわれが自分で考えたり為(し)たりすること、それを除いたほかのいっさいは。

グーロフにとって、おそらく、アンナと過ごしたこのような至福の時間に、やがて訪れる覚醒の萌芽が用意されていたのだろう。

チェーホフは『可愛い女』で美しい人物を造形した。
そして、『犬を連れた奥さん』では二人の男女の美しい関係を描いた。このような、不幸な恋ではあっても両想いの恋を、斜に構えることなく、正面から描いた作品は、チェーホフの作品としては稀有のものであろう。

チェーホフの最晩年に向かう時期に発表されたこれら二つの作品は、「人生から美しいものを見つけ出し、それを臆することなく掴みとりなさい。」という作者からのメッセージであるように思えるのだ。

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