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(2)『六号室』について

 『六号室』(1892)はチェーホフの代表作の一つとしてよく知られた作品だ。その内容は、田舎町の病院長である主人公のラーギンが、精神病の疑いをかけられ、自分の病院内に設置された精神病棟である「六号室」に収容され、虐待を受けたあげく失意のうちに死んでしまうという陰惨なものである。

 ラーギン医師は決して悪人というわけではない。むしろ、周囲の登場人物、例えば、自己中心的な俗物である郵便局長や、狡猾で出世欲の強い補佐役のドクトル・ホーボトフと比べれば、よほど善人と言えるだろう。では、いったい何が彼の不幸を招いたのか?

 チェーホフの多くの否定的な人物と同様に、ラーギンは、生きた現実との接点を失ってしまった人間である。
 彼は、本来、良心的で、同情心に厚い人間であったが、自分が赴任した病院の乱脈ぶりに圧倒され、無力感に囚われてしまう。「知性と誠実さを非常に愛し」ながら、「意志と自分の権利への確信が足り」ず、いかなる努力も結局は無に帰すのだということを言い訳にして、自らなすべきこと、できることから目をそらし、その結果、居心地の良いルーティンに埋没して日々を過ごす人間である。
 彼の楽しみは読書と思索である。ある日、ふとしたきっかけから訪れた精神病棟、すなわち「六号室」で、ラーギン医師は、入院患者である貴族出身のグローモフと会い、相手が高い教育を受け、優れた頭脳を備えた格好の論争相手であることを知る。そして、グローモフと対話するために、足しげく六号室に通うこととなる。この「奇行」によって、やがてラーギンは狂人とみなされるに至る。

 グローモフとの論争の中で、ラーギンはマルクス・アウレリウスを引き合いにして、次のような主張を行う。「苦痛とは苦痛についての観念に過ぎない。そのような観念を制御するよう訓練すれば、六号室であろうと暖かい書斎であろうと、なんら変わるものではない。」
 これに対して、グローモフは答える。「神は暖かい血と神経で人間を作った。人間の存在がさまざまな感覚から成り立っている以上、苦しみを軽蔑するということは生活を軽蔑することに他ならない。」
 このような論争にラーギンは熱中するようになり、それが彼の生きがいとなっていく。彼はついに真の話し相手を見つけたように感じるのである。
 ラーギンは、しかし、自説を曲げようとはしない。皮肉なことに、彼がグローモフの議論の正しさに気づくためには、彼自身が六号室に収容されねばならなかった。六号室から外に出ようとして、看守から力任せに殴り倒され、ラーギンはようやく悟る。

 とつぜん、混濁した彼(ラーギン)の頭に、恐ろしい、たえがたい一つの考えがあざやかに閃いた。これと全く同じ痛みを、いま月明かりを浴びて黒い影のような姿を見せているこれらの人びとは、何年ものあいだ、来る日も来る日も生身で感じなければならなかったのだという考えである。二十年以上ものあいだ自分がそれを知らなかった、いや、知ろうとさえしなかったなどということが、一体ありえようか?(池田健太郎訳)

 この翌日、ラーギン医師は卒中の発作で死ね。彼は、最後の最後に、自分が閉じ込めてきた患者たちの痛みを身をもって知った。そして、それまで、患者たちの痛みから目をそらし、病院長としてなすべきことを何もしなかったことに気づいたのだ。彼の不幸は、自らの職務を全うしなかった怠慢が招いたものであったのか?
 否である。彼が以前のとおり六号室から距離を置いて、自身のルーティンにとどまっていたら破局は訪れなかったであろう。彼は、少なくとも、死の間際に至って、自己欺瞞に陥っていたことに気づくことができた。たとえ、非業の死を遂げたとしても、彼の「気づき」は、ある意味で「勝利」と言えるのではないか。

 しかし、チェーホフの冷たい筆致は、そのような「勝利」も「救い」もいっさい感じさせない。ラーギンの死の顛末は、最後の一文に至るまで、どこまでも無機的な描写で貫かれる。チェーホフの、この「救いのなさ」をどのように考えればよいのだろうか? 

 ロシアの知識人たちは、同時代の他の文学作品に対してと同様に、この作品に対してもロシアの社会への批判・風刺を見ようとした、とされる。確かに、この小説は、支配階級に属し、ぬくぬくと居心地の良い日常の中で暮らす人びと、想像力を失った、多くの心優しい、無自覚な人びとに対する痛烈な批判と考えることができる。

 しかし、おそらく、チェーホフの主眼は社会風刺にあったわけではない。チェーホフは、常に、どのようなものであれ、政治的な党派性やイデオロギーからは自由であろうとした。
 むしろ、あらゆるイデオロギーとかかわりなく、人間の存在が「暖かい血と神経で作られ、さまざまな感覚から成り立っている」ことを前提としたうえで、作者のまなざしは、そうした人間の生活が、どのように「究極的な虚無」の意識を克服しうるのか、という極めて哲学的な問いに対して向けられていたのではないだろうか?

 チェーホフの多くの作品群は、その問いと真摯に対峙することによって生み出されたものであり、『六号室』も、まさにそのような作品ではないか、と考えられるのである。

 

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