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episode13 ミクロとマクロを等化する

「ヌーソロジーが面白い」というマガジンでは、ヌーソロジーという思想体系を創り上げた半田広宣さんの「2013:人類が神を見る日」と「2013:シリウス革命」という2冊の本を読み解きながら、私たちの意識(魂)の出自や私たちがこの世界に存在している理由を紐解いています。

今回はミクロとマクロを等化する、ということを書いていきます。

ちなみに等化とは、ヌーソロジー用語で次にような意味になります。

読んで字のごとく、「等しく化する」といった意味。オコツトからの更新においては、よく「対化の等化」という言い方で使用される。対化の等化とは、二元化したしたものを再び一元へ統合するというような意味である。

「2013:シリウス革命」29p

ちなみに、対化とは「二元性」を意味するため、「等化」とは二元化したものを一元化するということになります。

このことから、ミクロとマクロの等化するということは、最小と最大を一元的に見るということになります。

このミクロとマクロを等化するということを、今回なぜ取り上げたかというと、ミクロとマクロの等化とは、以前、お伝えした次元観察子ψ1とΨ2を等化(一元化)することであり、次元観察子ψ1とΨ2の次の観察子である次元観察子ψ3とΨ4を理解するために必要な知識だからです。

「あなたがたの物理学は20世紀に入ってプレアデス領域における極小と極大の壁を発見しました。これは言い換えれば、プレアデス領域に投影されたタカヒマラの流動のすべてにあなたがた人間の意識が交差を起こしたことを意味します。このことによって、シリウスの調整が開始されたということです。すでに、物質的知識は別のものへと変わり始めています」
「つまり、人間の知性自体があるひとつの成熟を迎えたということですね」

「2013:人類が神を見る日」アドバンスト・エディション146p

この引用をわかりやすく翻訳すると、人類は20世紀に素粒子というミクロの世界と、私たちが存在する宇宙のマクロの世界を描像することができるようになったということであり、このミクロとマクロの発見が、人間の知性の熟成させることになったということです。

そして、このマクロの姿をヌーソロジーでは、次元観察子ψ1で表し、ミクロの姿を次元観察子ψ2で描像しています。

次元観察子ψ1
次元観察子ψ2

次元観察子ψ1とΨ2は「精神の方向が二つに分かれている」という意味で「方向の対化」と呼ばれることもある。これは現在、人間が空間に対して持っている「無限大」方向と「無限小」の方向の概念に対応している、僕らが「宇宙」という場合、その大方がこの二つの方向性の領域に挟まれた世界にいることを指している。

「2013:人類が神を見る日」アドバンスト・エディション351p

私たちは、宇宙を考える場合に無限大の姿をイメージするのに対し、ミクロ宇宙というように、最小のものを想像する場合においても宇宙を実感するものです。そういった意味でも、私たちは無限大と無限小の世界の間に存在しており、この無限大と無限小の宇宙を20世紀に発見したことで、人間の知性の成熟を迎えたといっていいでしょう。

そして、この「無限大」の世界と「無限小」の世界を私たちは「見る」ということで「等化」することができています。「見る」とは「観察」を意味することであり、私たちは「観察」することで、「無限大」の世界と「無限小」の世界を発見することができたといっていいでしょう。

では、どのようにして「無限大」の世界と「無限小」の世界を「等化」していくかというと、「観察者」の位置を変えることで、「無限大」の世界と「無限小」の世界を等しく見ることができるのです。

「見る」という行為は「直視」するということであるため、視線の向かう先は、必ず観察者の前にあるといっていいでしょう。

視線の方向

この図のように、何かの対象を「見る」ということは、観察者の眼差しは前方に向けられることになるため、ベクトルの方向と捉えることができます。

そして、この「見る」という行為は、観測者の位置を変えるだけで、大きなものも小さなもの「等化」することができるようになっていきます。

観測者がある対象に近づいていくと、その対象が小さなものであったとしても、その対象は次第に大きくなっていきます。その一方で大きいと感じるようなものであっても遠ざかっていくと、その対象はいつしか小さな点のようになってしまいます。

このように、観察者が見る位置を変えるだけで、その対象の大きさの意味を消失させてしまうことができるのです。この大きさの意味の消失が「無限大」の世界と「無限小」の世界を「等化」するということになります。

この近づけば大きくなり、遠ざかると小さくなるということは、実に当たり前のことですが、20世紀の科学はこの原理を活かして「無限大」と「無限小」を発見したといっていいでしょう。

この観測者の位置を変えることを可能にしたのが、望遠鏡であり顕微鏡であるわけですが、「無限大」の世界と「無限小」の世界を観察して分かったことが、「無限大」とされる宇宙の構造と「無限小」とされるミクロの世界の構造が実に類似しているということだったのです。

つまり、私たち人類は観察者としての位置を変えることで、ミクロの世界とマクロの世界の類似性を発見することができたといっていいでしょう。

私たちは、現在、宇宙の中に存在しているため、宇宙の外に出ることはできません。しかし、もし私たちがこの宇宙の外に出ることができて、この宇宙を外から観察しながら遠ざかることができたなら、この大きな宇宙でさえ、ミクロの世界になってしまうことになります。

このように、観察者としての位置を変えるだけで、「無限大」の意味も「無限小」の意味も消失させしまうということが「等化」の意味であり「一元化」の意味でもあるのです。

話は少しそれますが、黄金比といわれるフィボナッチ数列を、私たちが暮らす自然界でよく見かけることができますが、このフィボナッチ数列の規則性をミクロの世界でもマクロの世界でも見て取ることができるようになっています。

フィボナッチ数列

このフィボナッチ数列の図は近づいても遠ざかってもその様子は変わりません。このように、私たちはミクロの世界もマクロの世界も同じような構造で出来ていると考えることもできるようになってきています。

こういった法則性をミクロの世界からマクロの世界に至るまで見て取ることができるようになってくるとミクロやマクロといった大きさの意味が消失され、そこに一元的なあり方を見出すことができるようになるといっていいでしょう。

こういった一元的なあり方を「精神」ということも可能でしょう。

ヌーソロジーでは「精神」の意味を「対化を等化する力そのもの」と定義しています。つまり、二元化されたものを一元化することが「精神」の意味でもあったりするのです。

「精」を辞書で引くと「純粋」という意味があったりします。

私たち一人ひとりは「見る」という行為を通じて観察している存在だといっていいでしょう。こういったことから、私たちには「見る」という行為を通じて二元化された物事を等化する力を持っているということになり、観察している対象の位置を変えることで、二元的な物事を一元的に見る力を有していることになります。

こういった観察する力を有しているということが、私たちの本質であるといえるのです。

コ では、オリオンとは何なのですか。
オ オリオンとは観察精神が作り出されている場のこと。あなたがたの概念でいえば神が存在する場所‥‥そのようなものでしょうか。
コ 神が存在する場所?‥‥その「神」というのは、この宇宙を創った創造主という意味ですか。
オ 似ていますが、違います。観察精神とは人間の礎のようなものです。
コ 人間の礎‥‥?
オ はい、人間の本質という意味で言っています。

「2013:シリウス革命」22p

こちらは、「シリウス革命」の半田さんとオコツトの会話になりますが、この会話から、私たちは人間の礎となる観察精神を生まれながらに持っているということがわかります。

したがって、今後、私たちが観察精神を目覚めさせていくことができたとき、半田さんの本のタイトルにあるように「人類が神を見る」ことになるでしょう。

いずれにせよ、私たちは物事をどのように「見る」かによって、自分の世界を形作ることになります。というのも、私たちは「見る」という行為を通じて様々な判断を下しているので、「見る」=「判断」となるため、物事をどう見るかで、自分の世界を創り出しているということがいえるのです。

この「見る」という行為の曖昧さを幾何学的理解を通じて明確化していくことができたとき、私たちの精神の次元を上げることが可能になることでしょう。



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