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宝塚歌劇月組『MAHOROBA』─遥か彼方YAMATO─、『マジシャンの憂鬱』(2007年8月)

 「MAHOROBA」は、郷土芸能研究会の厚い伝統を生かそうと、OGで外部でも大活躍の謝珠栄が工夫を凝らしたショーである。オウス(瀬奈じゅん)がヤマトタケルとして成長し、異族を征討していくが、ほのかに愛するオトタチバナ姫(彩乃かなみ)を荒ぶる海の神オオワタツミ(嘉月絵里)に人身御供として捧げる形で失い、ヤマトヒメ(花瀬みずか)から授かった草薙の剣も失い、鬼(エミシ)との戦いに敗れ命を失うが、白鷺に姿を変えて再生する、という悲しくも美しい物語仕立てのコンパクトなショーとなっている。
 衣裳(有村淳)も音楽もすばらしく、絢爛たる美しさが悲劇を深めた。特に上妻宏光の津軽三味線と、それに続く二胡は圧巻。謝は三味線の奏法についても、フラメンコのようにしてはどうかとアドバイスしたとのことだが(「歌劇」八月号の座談会による)、複数の奏者による演奏や多重録音を使ったというのにシンプルで、しかも叙情性は豊かで、上妻がめざしたという「凛とした美しさ」が実現されているように思えた。
 謝はその美しい悲劇に、春夏秋冬とそれに関わる農事の歳時記を重ね合わせ、琉球から東北に至る民俗舞踊を当てはめ、四季のめぐりと人々の営みを寿ぐという枠組みを作った。その意味で、実に的確にYAMATOはMAHOROBA(本当によい場所)であるとの賛歌であったわけだが、少々気になった点がある。
 一つは、郷土芸能研究会の伝統を引き継いだというわりには、民俗的、土着的な色合いが薄いように思えたこと。数え上げれば、インドネシア舞踊のような冒頭から、琉球、九州、鳥取、東北と各地の風俗と衣裳を取り入れていたのだが、物語の後景に引いてしまったのか、民俗舞踊を見せられる時に当然のように期待される身体が共鳴するような昂揚に欠けたように思われた。あるいは、物語の昂揚と同調していたために、舞踊それ自体の昂揚として意識することがなかったのかもしれない。そうだったとしても、舞踊の身体は、物語を逸脱してほしい。
 もう一つは、基本的に大多数の観客は、瀬奈が演じている支配者、征服者であるヤマト側のヤマトタケルに寄り添う視線で物語に没入して行くから、何ごともなくても、クマソやエミシは敵役であって、その限定の中で敵役にも見せ場を作らなければならない。しかしながら、エミシとの戦いでサルメ(霧矢大夢)とサダル(大空祐飛)が倒れ、傷ついたヤマトタケルが続くシーンで息絶えるに及んで、多くの観客は遼河はるひや桐生、嘉月らのエミシを憎き敵役としてしか位置づけられない。ダンスや歌の一つひとつのシーンを等価に観ていきたかったので、できれば準トップ格の霧矢と大空を揃って瀬奈に随わせるのではなく、どちらかは敵役に回すなどして、敵味方のバランスをとってほしかった。
 感心したのは、LEDカーテンを使った映像(奥秀太郎)が、おそらく初めて効果的に使われていたこと。ニライカナイの場面で、水泡が立ち昇っていったり、南の海の色鮮やかな魚たちが林立した帯状のLEDを移動する姿、大粒の雪、落ちる椿などからは、天上界の存在を意識させるような浮揚感さえ受けた。
 瀬奈は、序盤ではやや稚気のある幼さを出していたが、終盤では雄々しい戦士としての悲劇を体現、五〇分の中で一人の男の一生を存分に演じきったといえるだろう。他には、大空の声のコントロールの上手さ、風の神シナツヒコ(桐生)のダンスの表現力の高さ、越乃リュウの随所での表情の強さと動きの鋭さ、が目立った。
 一転して『マジシャンの憂鬱』は、軽快なテンポの、スタイリッシュなコメディ。侍女三人組(彩乃、憧花ゆりの、夢咲ねね)のドタバタした右往左往ぶりが特におかしい。彩乃が絶妙な間合いと声の高低で、コメディエンヌぶりを発見できたのは収穫。その延長上に、ラストの実にほほえましいハッピーエンドが待っていたというのは、味わいのある芝居だったわけだ。皇太子妃マレークの城咲あいの抑制した的確な演技もすばらしかった。皇太子ボルディジャールに今ひとつ皇太子らしさが見えなかったのは、「けど…」を連発するなどセリフの庶民らしさも一因か。司祭役の桐生は、ちょっと少年のようではあったが、コミカルな演技をよくこなした。シャンドール(瀬奈)の仲間たちは、出番が多い割には見せ場が少なく、残念だった。逆に墓守の未沙のえる、矢代鴻は、役柄もセリフも印象的で、下からセリフが出てくるような姿勢の取り方が絶妙だったといえるだろう。

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