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『ダンスの時間』サマーフェスティバル2008(19)生田朗子/佐藤玲緒奈/サイトウマコト「RESONATE」

 ブルトンの「ナジャ」をテキストに使った「RESONATE」は、2003年に「ダンスの時間」で初演、翌冬京都のアルティブヨウフェスティバルで再演された作品。特に原作の世界を知らなくても、生田朗子が抜粋し発するテキストの断片から、ナジャという女の横顔を窺い知ることができるし、ブルトンの美意識を中心とした世界観を」覗き込むことはできる。この作品にはいくつかの生命線があるが、その一つは、生田の抜粋したテキストが断片でありながら蝟集しようとするその中間性にある。
 初演時に比べて、何だか生田の声がずいぶん低くなったような気がして尋ねてみたら、初演時に比べてナジャの発言よりブルトンの地の文を多く選び採ったということだった。だから、ブルトンの声というわけではないだろうが、平叙の言葉が増え、おのずと高まりは抑えられたわけだ。そのことが、作品全体のトーンを大きく変えた。以前はナジャという女の一人称の物語であったのが、今回はナジャが生きる世界を語る何者か(とりあえず性別未詳)の語りとなった。初演では、佐藤やサイトウが声を出して笑ったりしていたのが、今回は一切封じられたのも、以前は複数のナジャの物語であるようにも思えたのが、より整理され尖鋭化したと言えるし、サイトウという男の存在がよりクールに際立つことになった。
 サイトウの舞台での姿については、単に表情がないというのではない。表情を消すことで、その内面を窺い知ることができなくなり、不気味に思えてしまう、という種類の無表情をつくる。もちろんそれによって観る者の意識が身体や作品の構造に集中できるということもあるのだが、その一人の踊り手が、舞台の中で不可触な闇として存在することになる。しばしばそれは物語の本質的な基点となる。それでいて動きは大きく速くダイナミックだから、残酷な破壊者のようにも見え、冷酷な影の支配者のようでもある。一方、佐藤もまた仮面のような無表情で踊ることが多いが、それは(ジェンダー的なステレオタイプに陥っているかもしれないが)、表情を奪われた悲劇を体現しているように見える。そういうキャラクターの構図が、作品の太くしっかりした構造線となり、細部は理解できなくても、作品の構図は把握できるという、不思議な享受体験を生むことになるだろう。
 振付の大部分は、佐藤とサイトウの関係の非日常性や異常性、破綻と表面上の修復、といったことをめぐって展開するように見えた。佐藤とサイトウのもつれるようなデュオ、無表情なサイトウ、思い詰めたように鋭く一点に集中する佐藤。そこで生田が、単なる語り手ではなく、解説者でもなく、言葉によって関係に切り入る存在であることが、生田という声と身体の持ち主を起用して成功している所以である。声の存在としてはナジャであり作者でもある生田は、その両義性において他の者の不定形で未生の関係の中に、時には横切り、時にはユニゾンで踊りさえして一体化し、自在に貫入することができる。美について定義しようとするテキストを舞台の上で語ることは、あるいは自家撞着的な言説となるのかもしれないが、それが作品の枠組に対するメタな言及とはならず、作品の中での語り手(とは誰だ?)の願いや祈りのようだったことが、この作品を洗練されたものとした。重複するかもしれないが、ブルトンのテキストを逐語的に踊っているのではないかと期待してそれを追いかけることに意味はなく、逆にテキストの断片が生む空気(アトモスフィア)とテキストの精神(スピリット)を、この作品の構成や動きから掴み取れればいい。

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