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COCOON PRODUCTION 2023『ガラスの動物園』『消えなさいローラ』を観て

今月の18日に、紀伊國屋ホールでBunkamura企画・製作の舞台『ガラスの動物園』『消えなさいローラ』を観てきたので、その感想を記したい。

この公演はアメリカの劇作家テネシー・ウィリアムズの出世作『ガラスの動物園』と、その後日譚として作られた別役実の『消えなさいローラ』を同時に上演するという意欲的な試みである。演出は渡辺えりさんで、前者にはアマンダ役として、後者にも《女》役にトリプルキャストの一人として出演している。

『ガラスの動物園』

出演者

私がこの企画を知ったのは、YouTubeでローラ役の吉岡里帆さんのインタビュー動画がおすすめに表示されたのがきっかけで、里帆さんがローラを演じるなら、どうしても観たいとすぐさま思った。そして演出が渡辺えりさんだというのも、私にとって重要だった。
えりさんが『ガラスの動物園』を観て役者を志したということは、かなり前に何かの雑誌だかパンフレットだかのコラムを読んで知って、勝手に親近感を抱いていた。だからそのえりさんがついに念願かなって上演を企画したとなれば、是非とも観ておかなければと思ったのだ。
えりさんは元々里帆さんとの面識はなく、手紙で出演をオファーしたそうで、過去に共演した伝手とかではなく、あらゆる可能性の中から最も相応しい人を考え抜いて選んだのだろう。今が旬の女優さんたちの中から適役を選ぶとしたら、私でもやはり里帆さんを第一に考えるだろうと思う。

ローラは極度に内気で繊細な娘という設定だが、里帆さんの演技からは、儚くこわれやすいばかりでなく、快活で親しみやすい面も表れていたように思う。特にトムと話す時などは、素顔の里帆さんが顔を覗かせているような気がした。一方で家族以外の外界と相対する時には極端なまでにぎこちなくなるのだが、初めはその挙動不審な感じが少し過剰な演技ではないかとも感じられた。しかしふと、あれは現代のヲタクの生態を模しているのではないかと思いつくと、何やらとても腑に落ちるような思いがした。人とまともに話せないコミュ障なのに、好きなこととなると途端に生き生きと語りだす、ガラス工芸蒐集ヲタクとしてのローラ。それが、80年前のアメリカの作品を現代の日本の観客に訴求するものとして再現するという課題に対して、里帆さんなりえりさんなりが導き出した答えだったのかも知れない。
ともかく、今この劇を上演するならローラ役はこの人でなければ、というえりさんや私(だけでなくそう考えた観客は多かったろう)の期待に応え、健気で可憐な、少し風変りだけどそれでも愛おしくてならないようなローラを、里帆さんは果敢に演じてみせてくれた。グラビアで活躍されていた頃からその美しさに魅了されていたのだが、これからはテレビなどでお見かけする度に、ローラの面影が脳裡をよぎることになるのだろう。

アマンダ役のえりさんは愛深く、活力に満ち、それゆえにこそのしかかる重圧でもあるような母親像を、生き生きと演じてみせた。はまり役とはまさにこのことで、まるでえりさんに宛て書きされたキャラクターででもあるかのようだった。
特におもしろかったのは、トムの合図とともにアマンダのおしゃべりが早送りになるところで、トムが語り手であるとともに登場人物でもあるという設定を巧みに生かした趣向だった。ああいうアイディアの源流はおそらくコロッケさんのものまねだと思うのだが、あの半ば悪ふざけじみた芸にこんな生かし方があるというのは新鮮な驚きだった。
こういうちょっとした小技から、夕食会のために着飾った姿を披露する際の浮かれ具合まで、自身の効果的な見せ方を知り抜いた熟練の芸を見せてもらったという感が深い。トムをバックハグする時の無邪気な様子など、全体にチャーミングな印象の強いアマンダだった。

トム役を演じたのは尾上松也さん。いわずと知れた歌舞伎界のプリンスだが、現代劇での活躍もめざましいものがある、ということは今回の上演で思い知った。朗々たるセリフ回しはさすがだったし、トムが荒ぶって荒唐無稽な話を繰り広げるところなどは、歌舞伎の見得を思わせるものがあった。しかしそれ以上に印象的だったのは、母親の鬱陶しさに泣き入りそうになるところなど、型にはまらない表現の部分だった。
私の中でのトムは詩人らしい繊細さとある種の兇暴さが同居しているイメージなのだが、松也丈の演じるトムは少しなよっとしていて、ひ弱な現代っ子を思わせるものがあった。里帆さん扮するヲタク風味のローラと合わせて、いくらか同時代性を意識した役作りだったのかな、という気がした。

ジムを演じた和田琢磨さんは、失礼ながらこれまで存じ上げなかったのだが、2.5次元の舞台を中心に活躍されている方のようだ。配役の決め手になったのはえりさんと同郷の山形出身であることだったらしく、えりさんの郷土愛の深さが感じられる。トム役の松也さんとはかねてからの友人だという。
和田さんの演じるジムは、ぎらついた野心家としての側面はやや希薄で、コミュ力の高い陽キャのお兄さんといった印象が強い。トムやローラと同じく、やはり現代の日本の若者像に寄せた役作りという印象を受ける。何より良かったのは、2.5次元俳優らしい端正な顔立ちが、ローラが高校時代に思いを寄せていたという設定に大きな説得力を与えていたことだった。

演出

今回の上演では、音楽を生演奏で用意していたことも魅力となっていた。それに関連して演出のポイントとして気になったのは、ジムとローラが踊っていて、音楽がワルツからタンゴに切り替わったところだった。戯曲にはワルツとしか指定がないので、タンゴをはさんだのは今回の上演独自の趣向である。そしてダンスなんて踊ったことがないはずのローラが慣れた仕草で上体を反ってみたり、無意味にトムとジムが組んで踊ってみせたりするので、劇の流れからすると前後との脈絡がない、ちょっと浮いているシーンになっていた。
一つには演奏にバンドネオン奏者が参加しているのでどうしてもタンゴを挿入したかったというのもあるだろうし、演者さんたちのちょっとした遊び心の発露でもあるのだろう。とその時は思ったのだが、後日譚の方で作者の性的指向に言及する場面があるので、トムとジムとのダンスはそれに絡めて差し挟んでおきたかったのかも、と後から思い至った。この劇の中では休憩をはさまずに上演することとの兼ね合いもあって、そういうちょっとしたアクセントとしてこのタンゴのシーンが必要だったのかも知れない。

ちょっと下世話なことを考えてしまったのが、例の"かわいいうそつきさん"のくだりだった。アマンダがジムを迎えるに先立って、ローラの胸にハンカチに包んだパフを二つねじ込むシーンがある。しかしローラはともかく里帆さんにそんなものが必要ないことは、彼女のグラビアに魅了された経験のある人なら誰もが知っている。ローラはこの後せっかくの"うそつきさん"たちを母親の見ていない隙に取り出してしまうのだが、これも作者の指示にはない独自の趣向である。彼女にそのようにさせたのは果たしてローラの恥じらいだったのか、それとも里帆さんのプライドだったのか……。

そういえば今これを書いていてふと思い出したのだが、トムがアマンダにジムのことを説明するくだりで、ジムの容貌に関するやりとりが省略されていた。「そんなにハンサムじゃないといいけど」「そんなにハンサムじゃないな」「でもひどいぶおとこじゃないんでしょ」「ひどいぶおとこじゃないな。中ぐらいのぶおとこ、ってとこだ」。ジムが高校時代にローラのみならず女子生徒たちの憧れの的だったという設定を考慮すれば、このやりとりは単にトムが母親に話を合わせているだけと取るのが自然だが、私の記憶が確かなら、ここはカットされていた。今回の上演では、田島博訳を元にしつつえりさん自身が上演台本を用意したとのことで、ところどころに翻案されたらしい箇所が散見された。その中でこのやりとりをカットした意図を想像するに、"かわいいうそつきさん"のことも考え合わせれば、若い俳優たちのブランドイメージや本人の自尊感情を傷つけないよう、えりさんなりに気を遣ったのかな、という気がする。

作品

『ガラスの動物園」はすでに古典といってもいい作品であり、戯曲の詳細について立ち入ることはここでは控えたいが、あらためて思うのは、この名作に盛り込まれた、作者テネシー・ウィリアムズの詩情の豊かさである。彼自身の体験を元にした悲痛な物語ではあるし、最後に何かの救いが提示されるわけでもない。しかしそれでも、この劇にふれると、私たちの心身を通り過ぎていく一瞬々々を愛おしんだり、身近にいる人たちを大切に思ったりしながら生きていくことは、やはり貴いことであるに違いないと信じさせてくれる。えりさんのように役者を志すということはなかったけれど、私の人生にとってもこの作品との出会いは大きな出来事の一つだった。
園芸家が無粋にも(?)実際に作り出してしまったせいで、青い薔薇の比喩は今ではその鮮烈さをかなり失っている。それでも、今回の上演がそうであったように、新たな同時代性の衣も纏いつつ新鮮な感動を生み出している事実は、本物の芸術だけが持つ力の証でもあるだろう。

家族の悲劇もしくは讃歌

今回の演出の重要なポイントとして、ここまで書き残してきたことが一つある。それは幕切れのトムの独白に関することだ。この長い独白の中で、トムは「ぼくは姉さんをきっぱり捨てようとした」と告白するのだが、この箇所を聞いた記憶がないのだ。田島博による訳本は手許にないし、上演台本はもちろん耳で聞いた記憶しかないので、テクストの異同を今確かめることはできないのだが、おそらくここがカットされたか、あるいは少しぼかした表現に改められていたのではないかと思う。トムは「その性質は冷酷ではない」というのが作者の設定だが、倉庫で働く鬱屈した日々から逃げ出すために大切なはずの家族を捨ててしまうというのはやはりある種の酷薄さには相違なく、だからこそその悔恨は悲痛なものになるのだが、今回の上演ではそういう描写がやや希薄になっていたように感じられる。初めて作品にふれた観客の方には、「そのろうそくを吹き消してくれ」というトムの呼びかけの切実さがやや理解しにくかったのではないだろうか。
この箇所に関しては私の勘違いもしくは記憶違いかも知れないが、今回の上演が全体として、悲劇性を強調するよりも寧ろ、家族の絆を称揚するような方向に傾斜していたのは間違いない。有無をいわせぬ現実の力によって一つの家族が崩壊していく悲劇という本質はもちろん変わりようがないが、その中でも彼らが互いを思いやりながら乗り越えようともがき、あがきながら奮闘する姿に焦点が当てられていたように思う。
そうなった理由は、おそらくパンフレットに記されたえりさんの言葉の中にある:「高校生の頃にはローラの気持ちで読んでいた戯曲が、今はアマンダの気持ちが痛いほど分かる」。これは私も同様で、最初に読んだ時は気にもとめなかったアマンダのセリフが、ある時期から痛切に胸に響くようになった。

こういうつらい時代に生きているんだもの、頼りになるのは―おたがい同士、家族だけ……だから大事なんだよ、あたしたちが

テネシー・ウィリアムズ『ガラスの動物園』第4場

こういう方向の演出がどの程度作者の意思に沿っているのか、私にはもちろん判断する資格も能力もない。しかしえりさんがそのように描きたかった心情は、私にも理解できる気がする。里帆さんもやはりパンフレットで「家族ってもっと寄り掛かっていい、支え合っていい存在なんですよね」と述べていて、こういう感覚をえりさんや里帆さんと共有できていることを、とてもうれしく感じた。

『消えなさいローラ』

作品

『消えなさいローラ』は『ガラスの動物園』の後日譚として作られた、別役実の作品である。私は不勉強なものでこういう作品があること自体を知らなかった……と思っていたのだが、観ているうちにそういえばトムの残していったワインが鍵を握るとかいう筋立てを、何かの機会に聞いたことがあったようななかったような、恰も劇中の《女》の輪郭が朧げであるのと同じように、曖昧な記憶のかけらが自分の中に眠っていることに思い当たった。それはともかく、どこか不可思議で面妖な、とらえどころのない幻想のようなこの作品を、現実から遊離したような浮遊感とともに楽しんだ。
登場するのは、自分たちを捨てて出て行ったトムの帰りを待ち侘びるうちにアマンダとローラが一つの人格に溶け込んでしまったかのような《女》と、その彼女が正視することから逃げ続けている現実世界からの使者としてやってくる《男》だけ。この二人が、物事の核心に近づこうとする度にあらぬ方向へと逸れていく不毛な会話を繰り広げるうちに、ローラが吹き消したろうそくの灯とともに暗闇に紛れ込んでしまったウィングフィールド家のその後が暗示される、という仕掛けになっている。本編の幕切れとともに宙に投げ出されてしまった観客の想念をどこかに着地させたい、という願いが作品の主要なモティーフになっていると思われるのに、結局《女》は現実と向き合うことから最後まで逃げおおせるので、宙づりにされた想念はどこにも着地せずに終わるというあたり、さすがは不条理劇の旗手として名高い別役の真骨頂といえるだろうか。
本作は1994年に作者の妻である楠侑子さんを《女》役に配して初演されたきり、20年以上も上演されずにいたようだ。本編の筋立てはもとより、作者の性的指向や最期の様子、さらには姉の手術のことなど、観客に要求されるリテラシーがかなり高いので、興行として成立させるのがかなり難しい作品だというのもあるだろうが、今ちょっと調べてみたところ、作者が生前は上演を許諾していなかったらしい。とすると、別役はこの作品を妻との個人的な記念碑のようなものと位置づけていたのだろうか。
その幻となっていた作品に息を吹き返らせたのが、渡辺えりさんと尾上松也さんだった。それが2020年のことで、同じ年に別役は他界していたので、上演への障害もなくなったということだろうか。つまり、今回の二本立て上演の企画は、その時の舞台から派生したプロジェクトということになる。

出演者

今回の上演で《男》役を務めたのも、2020年の時と同じく尾上松也さんである。今回は二本立てということで上演時間は休憩も含めると4時間近くになり、しかも《女》役はトリプルキャストだが《男》役の方は全ての回を一人で演じるので、体力的にも精神的にもかなりきつい仕事だろう。そもそも今回の企画は2020年の千秋楽に松也さんが「こうなったら『ガラスの動物園』もやりましょう」と提言したことに端を発するそうで、このような困難な事業を自ら進んで買って出たというところに、演劇にかける並々ならぬ情熱を感じる。(まあその時は二本立てになるとは想定していなかったのかも知れないが。)
この劇において《男》は、《女》が正対することを拒んでいる現実世界からの使者として、その有無をいわせぬ力を見せつける……はずなのだが、《女》の老獪な話術に翻弄され、なかなか目的を果たすことができない。松也さんの演じてみせる謹直さと、狼狽ぶりとの対比が、おかしみを誘う。
そして本編でのトム役が後日譚の《男》であることによって、トムがトムの死を告げるという構図になり、この込み入った劇に一層の捻れがもたらされている。これは二本立てであることによって効果的になっている趣向だが、えりさんの演出では、2020年に単独で上演した際にも《男》はトムであり作家自身でもあるという設定だったという。
本編の方に話が戻るが、本来この劇におけるトムは、4人の登場人物の中で最も破天荒なキャラクターのはずなのだが(それこそ実際に月にまで行ってしまいそうなくらいに)、今回の上演では、奔放な周囲の人物たちに振り回されて戸惑う常識人のように見えることが度々あった。それは、この企画が2020年の後日譚の上演から派生したものであることに、あるいは起因しているのかも知れない。トムが《男》であり《男》がトムであるということが、この二つの劇の性格に相互に影響を及ぼしているような気がする。

《女》役は松也さん以外の3人の役者さんたちがトリプルキャストで務めているが、私が観たのは和田琢磨さんが演じた回だった。この《女》はローラとアマンダが渾然一体となった人物で(いくらかローラの成分が多いようではある)、あの夕食会以来電気が通じなくなったままのアパートの部屋で、トムの帰りをひたすら待ち続けている。そこに現実からの使者として《男》がやってくるのだが、それを彼女は、爛熟し過ぎて何か全く別のものとなり果てた"南部ふうのおもてなし"で、巧みにあしらってみせる。存在も振る舞いも胡乱なこの人物が、男性俳優が演じることで"慎吾ママ"的な要素も加わって、怪しさがさらに塗り重ねられていく。このいかにも難しそうな、とても一筋縄ではいかない役に、和田さんは体当たりの熱演を見せてくれた。その迫力に、単なる"イケメン俳優"ではない役者としての矜持を見た思いがする。
実をいうと、チケットを手配する際に、どうせなら里帆さんが出演する回がいいと思ったのだが、みなさん同じことを考えるようで、私がチェックした時点ですでに里帆さんの出演回は完売してしまっていた。それで仕方なく(これまた失礼!)和田さんの出演するこの日を選んだのだが、結果的にはこれで正解だったという気がする。というのも、怪しさの極に振り切れた和田さんの《女》のお蔭で、本編でのローラのイメージをこわすことなく、別箇の作品として楽しむことができたからだ。もちろん、えりさんが演じたものがおそらく作者の想定に最も近いのだろうし、この難役に挑む里帆さんの姿を見届けるのも貴重な体験になったことだろう。しかし、私にはこれがベストの選択だったと思う。えりさんも里帆さんも要所々々で舞台に登場してくれたので、寂しく感じることもなかった。

終わりに

古典的な名作とそのパロディめいた異色作を同時に上演するという意欲的なこの舞台、両タイトル合わせて4時間近くに及ぶ長丁場となったが、実に濃密な時間を過ごさせてもらった。長時間なのでやる方はもちろんだが観る方もなかなか大変そうだな、と事前には覚悟していたのだが、充実した内容ゆえにさほどの疲労感もなく、最後まで楽しむことができた。役者さんたちはもとより、生演奏の奏者さんほかスタッフさんたちに心からの拍手を贈りたい。

参照した資料

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