見出し画像

差別とわたし

中学生の時に震災が起きて、ニュースで「原発いじめ」というものが起きていると聞いた時、その不条理さにショックを受けたことをとてもよく覚えている。
どうしたら、そんな差別が起きるのだろう、と。
なぜ、自分の変えられない属性によって、こんなにも2次的、3次的に苦しむ人が増えるのだろう、
そして、「嫌なら故郷に戻ればいい」みたいな、自己責任論で片されたり、忘れられたりするんだろう、と。


今回活発化しているBlacklivesmatterのムーブメント。
「黒人差別の問題」というと、どうしても傍観者になってしまうかもしれない。
かく言う私も、どれだけ「私たちはあなたたちをサポートしている。全ての人の尊厳を大切にするべきだ。」
そう思っても、表明しても、「傍観者」の思いが0だとは、言い切れない。

そればかりか、私は、自分自身が、偏見と固定概念の持ち主であることをわかっている。
コペンハーゲンで財布を盗まれた時、咄嗟に黒人の方を見てしまった自分の無意識の行動、
ヨーロッパの観光地で黒人の方に話しかけてもらった時に、物を売りつけられると咄嗟に構えた自分の思考。
23年間生きてきた自分の中には、悲しいことにもう既に沢山の偏見があり、固定概念があり、それらは除こうと思っても、ちょっとやそっとで居なくなってくれない。

黒人差別に限らないことだ。
パワハラをしてしまう人は、自分の行動がパワハラであると気付いたからといって、すぐに行動が変わるかというと、そんなことがないのと似ていて、
自分の偏見や固定概念をほぐしていくには、まず自らの偏見であったり暴力性を自覚することは勿論、
自分の過去の行動や思考を多かれ少なかれ否定しながらも、ちょっとの痛みを伴って前進していくエネルギーが必要だと思う。
(もちろん、知識を得るだけでなくなる偏見とかもあると思うけど!)

自分と向き合うことは、慣れていないと、本当にエネルギーを要することだと思う。(抑圧下から命をかけて声を上げるエネルギーと比較したら”そんな小さいもん”、と、思われるとは思うけど。)
でも、私は、自分の固定概念と偏見が少しでも小さい状態で、沢山の人とフラットに話して、つながる楽しさを得つづけていたいから、
自分のためにも、自分の中にある固定概念と偏見と差別に立ち向かいたいと思うし、
そのためにも、たくさんの人と出会い、話し、色んなことを協働していく人生が送りたいなと思う。
そして、周りの人もそうであったら嬉しいと思う。


この1年、特に、自分の固定概念や偏見に気が付いては、既に内在化してしまっている価値観を変えていく難しさを知り、
何が差別で差異で区別なのか、その複雑性に頭を抱え、答えを出せないことばっかだった。今もそう。

ジェンダー平等とか、色んな点が「おかしい」と思い、なんでこんなことが起こるんだろうか、と月並みに「問題意識」を持って、インプットしてきても(まだまだだけど)、
就活で、自分がやりたい仕事の給与があまりよくないとわかった時に、「将来夫となる人が稼いでくれるのであればよいか。それで子ども養えるか。」と、無意識に男性を家庭の経済支柱と捉えた自分がいたり、
逆に、ヘアスプレーという映画が日本で劇になる時に、黒人役の人が肌の色を茶色く塗ることが差別的でありタブーであるからやらない、と聞いた時、黒塗りすることがなぜ差別にあたるのかがわからなかったり。
(ヘアスプレーの内容と、黒塗りが差別的であるという文化・歴史があることを当時私は知らなかった。違いは違いとして描くことでよいのではないか。と思った。)


私は、決して、人の尊厳を明らかに踏みにじる人の擁護をしたい訳ではない。
人が誰か他の命の価値づけをし、奪うことなんて、正しいはずがない。
だけど、いま差別されている人が、差別する人を弾圧して抑圧下に追いやる未来も見たくない。
そして、自分の中にある差別や暴力性に気付かずに、目をそらし、平和を謳う人にも自分はなりたくない。

悪意のある差別をしてしまう人は、どんな気持ちでやっているのか。何がそうさせるのか。その人なりの正義なのか?それとも、孤独がそうさせるのか?
はじめに戻ると、いじめをしてしまう子どもを取り巻く環境は何なのか。社会の中で強者とされたり、マジョリティとされる人の中で、何がそうさせるのか。
いま書いている卒論でも、その点にしっかりと向き合って、
就職先でも、逃げずに立ち向かう。

今日はその決意表明をこめて書いてみた。

(instagram/facebookより)