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日記#64 私の余命だとか転移だとかなんだとか

 私は今43歳で、今年の誕生日が来たら44歳になる。世間的には働き盛りとかそんな風に言われる年代だと思う。まあ私は働いたこととかいっこもないんだけど、それはとにかく若者ではなくてもまだまだ全然元気で、そんなほいほい死んじゃうような年齢ではないという意味合いが働き盛りという言辞に込められているのだと思う。子供がいたりしたら、その子らのために一生懸命子育てにかかる各種費用を稼いでいるだろう。仕事に関してもぼちぼち責任あるポジションを任されたりだとか、今後のさらなるスキルアップだとか、私のような万年無職病人が思いつくことすらできないようなあれこれで悩んだり頑張ったりしていたりするのかも知れない。なんにせよ、私と同世代の人の殆どは、今後の自分の人生がまだまだじゅうぶんに残っていて続いていくこと前提であれこれ考えて生きていると思われる。

だけど、私は早晩死ぬ。日本人女性の平均寿命を大きく下回っているけど、そんな数値的な事とは一切関係なく私は死んでゆく。私の体の中にある腫瘍が、遅かれ早かれ私を死なせるのだ。


 前の日記を書いたのが多分1月の終わりくらい。それから今、3月の半ばまで何をやらかしていたのかというと、おおむね入院していた。1月の終わりに抗がん剤ドキシルのための入院。3日間の短期入院だったけれど、その後すぐ夜間ひどい嘔吐があって病院の救急に行ったら、腎臓の機能があまりにもやばくてそのまま即入院。婦人科病棟が空いてなかったので最初産科病棟に入ったのだけれど、隣のベッドの人が何故かナースコールを使わずとてつもないダミ声で「看護婦さ〜ん、きて〜〜〜!」と何度も何度も叫びまくっていたのが地味にトラウマになった。ともかく主治医のキリスト先生が来てくれて、なんらかの機械を使って腎臓の検査を行った。(なぜかは知らんけど機械のスイッチがなかなか入らず、先生はこんなことある…?とかいいながらガニ股気味になりつつ機械と悪戦苦闘していた。そんな面白い姿も先生の魅力。)そして検査の結果、腎臓あたりの腫瘍が大きくなって尿管ステントを圧迫していて、ステント交換してもどうにもならないので腎ろうにしないといけなくなってしまった。

 手術室へ向かいレッツ腎ろう手術。尿を採取するバッグを背中側に取り付けるという、乙女としての自意識で生きている私にはあまりにも厳しい仕打ち。手術台でうつ伏せになりながらしくしくしていたら、担当の泌尿器科の医師はそんなに痛い手術ではないということを言ってきた。痛いのもたしかに不安だけど、そういうことだけじゃあないんだよ。自分の体に得体のしれない変化が恒久的に加えられる恐怖と悲しみに私ははらはらと涙したのだった。少し後で不要になったステントを抜去するという話だった。

ともかくその悍ましいSAN値(クトゥルフ神話TRPGというホラーゲームに登場する数値。正気度を表す。ショックなことや怖いことがあったりすると減っていく)がゴリっと削られそうな手術が終わったあと、主治医キリスト先生から私の病状について大事な話があるということだった。先生は私にその話を家族、つまり私の母と一緒に聞きたいかどうかを尋ねた。先生は私の家族関係が微妙にややこしいことを微妙にご存知だ。だからそんな風に尋ねてくださった。私はその話を母と聞くことを選んだ。そしてその日程の日が来た。


その話の場には先生と私、母の他に、その日の担当の看護師さん、緩和ケアの看護師Kさん、そしてFさんという訪問看護やホスピスに詳しい看護師さんがいらっしゃった。そして先生からの話が始まった。

私の腫瘍は大きくなって広がっていること、そして、肝臓や肺に転移していることが告げられた。ドキシルは結局効かなかったらしい。そして先生はまだ実はひとつだけ使える薬があるとおっしゃった。その名はキイトルーダ。効く人にはすごく効くけど、そうでない人にはそうではない。そして私の場合、聞いたとしても劇的に聞くということはなく、現状維持にとどまるだろうということだった。そして先生は、積極的治療をやめてしまって緩和医療を強化し、病気やら治療やらのことなんかも忘れて自分の好きなように過ごす、そういう選択も大事なことだと思う、とおっしゃった。

またしても悩ましい選択肢。がんになってから本当に沢山の難しい選択があった。キイトルーダにはレンビマという薬を併用するそうだ。そして、使うことのできる薬はそれらが最後らしい。今すぐにどうするか返事しなくてもいいけれど、腫瘍が広がりすぎて薬が使えなくなったらもうどうしようもない。そして、これまでの抗がん剤は婦人科の先生によって使われていたけれど、今回の薬は腫瘍内科の先生によって使われるということだった。そして、入院中1度その先生の診察を受けることになるとのこと。いずれにせよドキシルやったばかりですぐキイトルーダっていうのは無理みたいだから、腫瘍内科の先生にはひとまず薬についての説明を受けるようだ。
 とにかく薬についての話はそういうことで、あとはホスピスとか訪問看護の話になった。詳しいFさんがそれらの話をしてくれて、ホスピスについては居住市内にある2つの緩和ケア病棟のある病院の受診予約を手配してもらうことになった。訪問看護については、腎ろうのガーゼ交換を母に習得してもらうことになったんだけれど、もしのちのちそれが不安だった場合はその時改めてお願いする、という話となった。




この一連のお話は病棟のカンファレンス室で行われたわけだけれど、やはりハードなものとなった。この話し合いの時は2月初め頃だったから、今はまたそこから状況が動いているんだけど、この時の気持ちとしては本当に大変だったよ。転移とか普通に怖いし。まあともかく少し疲れてきたのでこの日記はこのあたりで一旦終了します。中途半端なところでごめんね。そしてここまで読んでくれたあなた、ありがとう。あなたの人生にも何かと大変なことがあるかも知れないけれど、無理とかしないであなたらしく生きていってほしいです。

それでは、願わくばまた別の日記で👋

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