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演技はこなすもの?

ほんとに連続して書ける気がします。嘘です。
皆さんお元気ですか。

さて、今回はどちらかというと.…いやまあいつものことかもしれないけど..…いつもより散文ぽくなりそうで、まとまるかなあとおもいつつ書いてみることにします。

「こなす」という感想は、私が観劇して初めて思った感想で、それはまた不愉快なものでした。
私はそんなに観劇しにいっているわけではありません。はっきり言って。
遠出嫌いですもの。人混みも好きじゃないし。大阪なんて人も多いし道分からないし得意じゃない。東京も。
こんな仕事を目指しているのに、観劇というものにはあまり向いていません。
私が観劇すると言ったら、知り合いが出ているか、好きな演出家が舞台を打っている、という理由で行くことが常です。

その日は久々の観劇でした。
人多いなあ。と思いながら大阪の街をトボトボ歩きました。
そしてその日の観劇の理由は知り合いが出ているから、でした。
なので結果的に知り合いの演技をひたすら眺めることになるのです。
嫌な客でしょう。自分でもそう思います。

私はそこで、その「知り合い」が演技を「こなしている」ことに気づいたのです。
難しい役柄ならなんなり一生懸命やろうとする。
その時ですら一時は「読むだけ」で「こなそう」とする。戯曲をただただ読むだけでは演技とは言いません。その戯曲や人物の背景背景、それまでの会話、何が起こって今そのセリフを喋り、どういう感情を乗せなければいけないのか、相手がどういうテンションで前のセリフを喋ってそれに合わせて自分のセリフを喋る。それを考えるのが、もしくは即興で感覚だけでやってしまうのが俳優という仕事.…の一つだと私は思っています。
まあみんな即興で感覚でできるんだったら一喜一憂しないし、いずれにせよ実力が伴うものでなければなりません。それが育てるものでも。

とにかく、その知り合いに関しては、その時舞台上ではどちらかというとセリフの少ない役柄で、演じる演技は、私にとって肩透かしで、残念だったのです。
別に実力がないわけではないのに、どこか甘んじている部分が見受けられた。

お前俳優やってないだろう、という意見は一応聞きましょう。
門前の小僧が習わぬ経を読むのだから、門前のさおりさんは習わぬ演技を語ります。そういくらでも。

もしこの知り合いが、「花色もめん」にきて、育成の方針を私が一部決めることが出来たら、私は何をするでしょうか。
稽古で何かしらの戯曲を読ませる時、絶対にその時点の実力ではできない戯曲を読ませると思います。それが面白くなかろうが、面白かろうが、戯曲自体に向き合う時間を強制的に与えます。
嫌な言い方ですね。
本人がその戯曲をいい意味でこなせるようになった時、実力につながり、「俳優」という仕事自体にも真摯に向き合うことができるのではないか、と思うのです。

ちなみに上述の戯曲で、私が「これやればいいんじゃね?」とピックアップしたのはエドワード・オールビーの『動物園物語』です。
花色もめんの主宰には苦笑いされましたが、案外私の思う所は受け入れてもらえそうです。

オールビー、私は好きなんですけどね。
ベケットよりは読みやすいと思うんだけどな・・・

そんな事を考えながら、仕事をしています。
事務仕事もちゃんとやらなきゃね。
ご興味ある方はぜひ、オールビー作品、読んでみてくださいね!

さおり。

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