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なぜ女性VTuberが人気なのか?ガチ恋弱者男性ウケを狙うインターネットおもしろ女の仕組みを解説【後編】(文字起こし)

この記事は、「なぜ女性VTuberが人気なのか?ガチ恋弱者男性ウケを狙うインターネットおもしろ女の仕組みを解説【後編】」というYouTube動画の文字起こしになります。


「前編」である「なぜVTuberが流行るのか?日本のコンテンツビジネスの特徴と現状を解説【前編】」へのリンクは以下になります。



導入・注意点

今回は、「なぜ女性VTuberが人気なのか?」を解説します。

当然ですが、VTuberという現象のすべてを「ガチ恋」で説明できるわけではなく、コンテンツ産業としてのVTuberの強さについては「前編」の動画で解説しました。

今回の動画は「後編」であり、あえて「恋愛感情」などのような下世話な部分に着目した話をします。

この動画の内容は、「前編」の動画を見なければまったく理解できないわけではないにしても、「前編」の内容を踏まえたものであることはご了承ください。

「前編」の動画へのリンクは概要欄に貼っています。

この動画では、「弱者男性」という言葉を何度も使うことになりますが、「女性関係に恵まれずVTuberにガチ恋してしまうような男性」のことを、雑に「弱者男性」と括っています。

近年よく使われる「弱者男性」という言葉にもそれなりに文脈があり、適切な言葉の使い方ではないことは理解しています。

過去動画で説明してきた当チャンネルの枠組みにおいては、「プラスの競争」に勝てない一方で「マイナスの競争」にも勝ちにくいのが「弱者男性」ということになるのですが、この動画ではそれについては説明するつもりはありません。

ただ、当チャンネルでは今後「弱者男性」をテーマにする予定があり、今回の動画は、後に出す動画との接続性などを意識して、あえて「VTuberにガチ恋してしまう男性」を「弱者男性」と雑に括っています。これに関してもご了承いただきたいと思います。

なお、この動画で解説するのは「なぜ女性VTuberが人気なのか?」であり、もちろん男性VTuberも人気のある人は多いのですが、前編と後編を合わせて非常に長い内容になってしまっているので、男性VTuberの話については割愛させてください。

この動画を視聴するにあたっての注意ですが、VTuberのような多くの人が熱量を注ぎ込んでいるものの仕組みを言語化しようとすること自体に、露悪的な側面があることは否定できないと思います。

サムネやタイトルなどの時点でミスマッチが起こりにくいようにはしているつもりですが、この動画は、VTuberを楽しく視聴しているファンとか、あるいはVTuberをやっている人にとって、見ていてそれほど気分の良いものにならない可能性があるので、その点に注意した上で視聴していただけたらと思います。

では本題に入ります。


VTuberの人気は単純な足し算では説明できない

まず「ガチ恋」というワードについてですが、これはVTuber発祥ではなく、AKBといったアイドルにおいて使われだした言葉で、「ガチンコで恋をしてしまう(アイドルに対して本気の恋愛感情を抱いてしまう)」という意味です。

2000年代のアイドル産業から「ガチ恋」はあったのですが、ただ、現代の「女性VTuber」においては、それがより極端なものになっているというか、より弱者男性向けにチューニングされているように思います。

その典型的な例が「ホロライブ」というVTuber事務所で、ホロライブの人気タレントの多くは、男性との一切の共演を避ける傾向があります。

つまり「ガチ恋」自体は昔からあったのだけど、ホロライブのようなレベルで男性との接触が忌避されるのはあまり前例がないということです。

例えば、VTuberと似たように弱者男性ウケしやすいタレントとして「女性声優」が挙げられると思いますが、女性声優は、もちろん男性声優との共演があります。

あるいはAKBや乃木坂などのアイドルも、男性の芸能人と同じ番組に出演したりすることが普通に行われます。

その一方でホロライブの人気メンバーの多くは、少なくとも配信上では男性とは一切関わらない、といったかなり極端なやり方をしています。

これは「配信で男性が出てくるのを見たくない」という視聴者を多く抱えているからなのですが、ただ、そういう極端なやり方をしているホロライブが、VTuber事業として顕著に成功しています。

そして、ホロライブのような極端に弱者男性ウケを狙うVTuberの人気の出方は、単純な足し算では説明できないところがあると思います。

例えば、現在の人気アイドル声優みたいな人たちは、「スペックの足し算」では最強です。

声の魅力や演技力はもちろん、マンガやアニメなどにも精通していて、トーク力も高く、歌も歌えて、何ならその都度の人気アニメキャラクターの中の人でもあり、しかも容姿すら整っているという、単純な加点要素の合計ではカンストしているような人もいるわけです。

しかし、そのような超ハイスペックなアイドル声優よりも、ホロライブの女性VTuberのほうが、少なくとも「YouTubeのチャンネル登録者・スーパーチャットやメンバーシップ・関連グッズなどの売上」といった点においては、より多くの人気や収益を得ています。

もちろん同じ売り方をしているわけではないので単純比較はできないのですが、現状においてはVTuberの影響力が非常に強まっていて、昔だったら声優を目指していた人でも、今ではVTuberになろうとする場合が多いだろうと思います。

ここで言いたいのは、スペック勝負なら声優が圧倒的だったとしても、VTuberのほうが人気が出やすくなっているということで、つまり、「単純な魅力の足し算では説明できない何らかの作用が働いている」と考えるべきなのではないか、ということです。

ではそれが何なのか、結論を先に言うと、VTuberにおいては「マイナスがプラスに反転する作用」が働いていると考えられます。

あるタレントが、一般的に人気になりやすい「プラス要素」と、人気になりにくい「マイナス要素」を持っているとして、VTuberにおいては、「マイナスよりもプラスが大きく上回っている」からではなく、「マイナスが反転してプラスに変換されている」からこそ、これほどまでに人気が出ていると考えます。

これについて、以降で説明していきます。


マイナスがプラスに反転する作用

まず、相手の欠点を受け入れる心の働きは、男女問わず人間なら誰もが持っているものです。

相対的に上位のスペックの人間しか好きになれないのであれば人類はとっくに滅んでいるわけで、好きになった相手を欠点も含めて好ましく感じるのは、「惚れた欲目」とか「痘痕もエクボ」と言われるように、正常な人間が持っている必要な機能です。

ただ、男性から女性に好意が発生する場合においては特に、「欠点を抱えている女性だからこそモテる」といったことが起こりやすくなります。

例えば、「ナンパされやすい女性はどんな女性か」を考えると、美人であるほどナンパされやすくなるわけではなく、むしろ「服装がダサい」とか「靴やカバンが汚れている」みたいな、隙の多い女性ほど「チャンスがありそう」と思われてアプローチを受けやすくなります。

つまり、女性の弱者性という「マイナスの要素」は、男性側から、「自分でもイケるかもしれない」などの形で「肯定的に評価される(マイナスがプラスに反転する)」ことがある、ということです。

これは男性側からすれば進化的には合理的なもので、男性は生殖において負うリスク(失うリソース)が少ないので、たとえ相手が相対的に優れた個体ではなかったとしても、たくさんの相手と行為をするほど子孫を残しやすくなります。

同時に、男性もアプローチのために使えるリソースは有限であり、期待値が低そうな相手にばかりアプローチをしていると子孫を残しにくくなります。そのため、「弱者性」が目立つゆえにイケそうな(ライバルが少なくて自分でも相手にされそうな)女性を好ましく思う作用を進化的に獲得してきたのが男性と言えます。

このようにして男性はストライクゾーンが広く、そして特に、満足な異性関係を獲得できていない「モテない男性(弱者男性)」ほど、女性のマイナス要素を好ましく思ってしまう働きが起こりやすいと考えられます。

つまり、「弱者男性」×「女性の弱者性」は「肯定的な評価」になるということです。

もっとも、男女を入れ換えると成り立たなくなるので可換性はありません。

女性の場合は、例えば「医者」のようなハイステータスが認められた職業の相手だと欠点も好意的に解釈されるなど、社会的なコンテクストに応じて許容度が高くなる傾向があるかもしれません。

もちろんこれは男女ともに個人差はあり、あくまで進化的な傾向の話です。

冒頭で述べましたが、この動画では「弱者男性」についての議論には立ち入るつもりはありません。

あくまでここでは、「女性の弱者性」を「肯定的な評価」に繋げてしまいやすいような男性を、便宜的に「弱者男性」と呼ぶことにしています。

そのため、この動画内での言葉の使い方においては、挨拶をされただけで相手のことを好きになってしまう東工大生や、恋人ができずにVTuberに赤スパを投げている高所得者も、「弱者男性」に含まれることがあります。

このような図式によって言いたかったのは、一般的に「マイナスの評価」になりやすい特徴を女性が持っていたとき、それが一般的にはマイナスであるがゆえに、「自分でもイケるかもしれない」と「マイナスがプラスに反転する」作用が男性にはあり、そして、ここで言う「弱者男性」であるほどその作用が起こりやすくなると考えられる、ということです。

もっとも、「自分でもイケるかもしれない」と思ってしまうような見かけ上の競争率の低さは、まやかしであることが多いです。

例えば、「一般的には美人ではないから競争率は高くないだろうけど、話しやすいし、自分だけはこの子の魅力がわかる!」と思われやすい女性は、他の多くの男性からも同じように思われているので実はめちゃくちゃモテる、みたいな現象があり、それのワールドワイドなバーションがホロライブのVTuberと言えるかもしれませんが、ここで言いたいのは、単純なスペックの上位から順に多くの恋愛感情が発生するわけでは必ずしもなく、むしろ男性からの女性に対する好意は、「自分でもイケそうだと思えるから(マイナス要素があるから)」という理由で起こりやすくなるということです。

そして「女性VTuber」は、そのような「一般的にはマイナスと評価される要素を持っているゆえに恋に発展する(マイナスがプラスに反転する)」といった作用を、うまく活用できる形式であると考えます。


「女性VTuberである」という弱者性

ここまでで何が言いたかったかというと、女性VTuberは、男性から女性に対して起こる「マイナスがプラスに反転する作用」を利用しやすい形式であるということです。

「女性VTuberであること」それ自体が、弱者男性に好まれやすい形の「女性の弱者性」であり、ゆえに、「女性VTuberという存在を受け入れることが、女性の弱者性を肯定的に評価することになる」と考えています。

「前編」の動画では、「二次元(キャラクター)」と「実存」とのミックスにVTuberの強みがあることを説明してきました。

しかしながら、VTuberが「二次元」と「実存」のミックスであることは共通見解ではなく、むしろ初期のVTuberは、「バーチャルなキャラクターを演じるもの」や「自分ではない何かになれるもの」といった考え方をされやすいものでした。

ただ実態としては、現代のVTuberにおいてスタンダードになっているのは、「キャラを演じているという体」で、中の人(演者の人)の「実存」を提示するやり方だと思います。

そしてそのような「実存」を前面に出すやり方は、初期のVTuber観からすれば、邪道というか、良く思われにくいやり方でした。

もっとも、「始まりがどうだったか」とか「VTuberのあるべき姿とは何か」みたいな論点を持ち出すまでもなく、人間が抱きやすい素朴な感覚・お気持ちとして、「キャラ」という体で「実存」を提示する女性VTuberのやり方は忌避されやすい性質のものだったと思います。

人気女性VTuberの見た目はほぼ全員が若く美しい女性ですが、それを「キャラクター」として演じるならともかく、まるでそれが「自分自身」であるかのようにふるまうのは、「いやあなた自身は若くも美しくもないでしょ」と蔑まれやすいものでした。

「キャラを演じている」という体で美少女のアバターを動かし、配信活動を通して「キャラ」と「実存」を近接させていくVTuberのやり方において、「美少女のキャラクター=自分自身」であるかのような、どさくさに紛れた性的魅力の詐称(性的魅力ロンダリング)が行われていくことになります。

さらにその上で、「あくまでもキャラクターのロールプレイである」という体が「盾」として機能しているので、「実存」を提示しながらも比較的そのリスクを負わずに金を支払わせるような搾取ムーブをしやすくなり、そういうやり方は「ズルい」とか「汚い」と思われやすいものでした。

ではそういうやり方の詐称性やチートっぽさが見過ごされてきたのかというと、全然そんなことはなく、「実存」を前面に出すVTuberへの風当たりはかなり強かったと思います。

例えば、「絵」に「畜生」をつけて「絵畜生」といった、およそ真っ当な人間としての思いやりの心あれば浮かばないような罵り言葉が、VTuberを軽視する文脈で使われていました。

VTuberシーンがニコニコ動画的な掃き溜めの延長だったという側面が初期のほうほどあって、「絵畜生」のような人の心がない言葉だからこそ面白がって使おうとする人もいたような過酷な環境だったゆえに、現在活躍しているVTuberの中でもニコ動を経験してきた人は「面構えが違う」と言われています。

また「若さと美しさ」は、男性のみならず女性にとっても大きな関心事であり、仮想のビジュアルを使ってある種不当にそれを利用する女性VTuberは、同性からの評価も基本的には高くなりにくいです。

今でこそそれが主流なものになっていますが、「実存」を前面に出す女性VTuberは、「初期のVTuber観との相違」や「詐称的なやり方で性的魅力を利用していること」などに対する非難を受けやすく、決して無風ではありませんでした。

しかし、そのように女性VTuberであることが一般的には良く思われにくい性質を持っているからこそ、それが「弱者男性ウケ」につながった側面もあります。

つまり、「キャラクターのガワを被って美少女としてふるまうような痛々しくて残念な女性」という「弱者性」が、弱者男性にとってはむしろ「肯定的な評価」になりやすく、そのようにして「マイナスがプラスに反転する作用」をうまく味方にできるところに、女性VTuberの強さがあると考えています。

アイドルや声優などの「弱者男性ウケ」において、「人気が高いこと」と「自分にも手が届きそうなこと」は、対立する性質があります。

しかし、VTuberはその矛盾を乗り越えるような特徴を持っています。

VTuberの人気は、「VTuberという下に見られやすいやり方で獲得した人気」であり、であるからこそ、チャンネル登録者が何十・何百万を超える人気者でありながらもどこか「かわいそう」な存在で、それが「自分にも手が届きそう感(ガチ恋弱者男性ウケ)」につながります。

つまりVTuberは、弱者男性ウケするVTuberという評価されにくいやり方で人気を得たことが、そうであるがゆえに弱者男性ウケするという再帰的な関係にあるんです。

もっともこれは、リアルにおいてもAKB総選挙の1位は前田敦子とか指原なわけで、ある種「かわいそう」な女性であるからこそ、一般的な人気の上限を突破してトップスターになれるようなところがあります。

ただVTuberは、生身のアイドルや声優と比べて、「かわいそうな女性であること(自分にも手が届きそうなこと)」に説得力を持たせやすい形式であると言えます。

例えば、弱者男性ウケのために、いかに自分がモテない女性であるか(陰キャであるか)をアピールするというのは、生身のアイドルや配信者などにおいても、人気を得るための商業的な戦略としてVTuber以前から行われてきたことです。

しかしそれも、見た目の良さを売りにしているような人が言うと、「その見た目でモテなかったなんて嘘で、そういうPRでしょ」とか「そもそもアイドルや声優に応募できる時点で陽キャだよね」となり、弱者男性側からすれば、ガチ恋しやすい対象(自分でもイケそうな幻想を与えてくれる女性)にはなりにくいです。

一方で、VTuberをやっているような女性が「モテなかった」とか「人とうまく関われない」とか「社会になじめない」と言うと、そこには"本当"がある気がしてくるわけですよ。

ヴァーチャルなビジュアル(生身を晒せない女性)だからこそ"本物"なんです。

自由恋愛市場の過酷さに打ちひしがれた弱者男性たちにとっては、「本当の容姿を晒さずにガワを被ってあたかも自分自身が美少女かのようにふるまう残念で痛々しいかわいそうな女性」であるからこそ、リアルな美人よりもむしろガチ恋の対象になりやすくなるということです。

VTuberにおいては「中の人がそんなに可愛いわけないでしょ」と言われがちですが、ガチ恋男性もそれはわかっていて、むしろだからこそガチ恋が発生しやすい、という仕組みになっています。

恋愛の自由化がますます露骨になっていく現代において、世界の残酷さや心無い人たちの嘲笑に晒されがちなのが弱者男性という存在であり、そのような人たちが、「10代・20代の顔の良いアイドル」と「おそらくそれほど若くなく容姿も優れているわけではないインターネット女」とで、後者に対してガチ恋になりやすいというのは、それほど不自然なことではなく、というより、各々が自分なりに分別を持ってちゃんと生きようとした結果として、こういうことが起こってしまいます。

このように、VTuberに対するガチ恋は、むしろ想定される中の人のスペックが低いからこそ発生しやすくなり、そこにおいて、本来であれば「マイナス」のものが「プラス」に反転していることになります。

「中の人がどうであれ、キャラの見た目が可愛くて話が面白ければいいじゃん」みたいに、マイナスを打ち消すくらいプラスが大きく上回っているから人気になっているのではなく、「美少女を騙るかわいそうなインターネット女である」というマイナス要素が、弱者男性的な事情によって「プラスに反転」することによって、プラスの部分とマイナスの部分が合算されることで、女性VTuberの爆発的な人気が生まれていると考えます。

順転の出力と反転の出力が足し合わさることで「最強」になっているのが女性VTuberであるということです。

自由恋愛という呪術界に絶望して、自分も他人も尊ぶことのない生き方を選んだ人たちの恋愛感情を復活させたからこそ、ここまでVTuberの市場が勢いよく膨らんでいるのだと考えることができます。


女性VTuberの標準戦略

VTuberにおいて、マイナスがプラスに反転する(女性の弱者性が肯定的に評価される)のは、VTuberとメディアミックスされる周辺のコンテンツ文化の影響も大きいと考えます。

例えば「オタク産業」は、もともと彼女ができないような男性の財布を狙うようなビジネスであり、弱者男性フレンドリーな性質を持っています。

あるいは平成以降の「アイドル産業」も、オタク文化に接近して、弱者男性ウケを意識しやすいものでした。

また、日本の匿名的なインターネットも、ロスジェネの傷の舐め合いがひとつの文化的源流としてあり、そこから派生した「ニコニコ動画」なども、弱者救済的な雰囲気を湛えていました。

そのため、VTuber以前から、オタクっぽい女性、アイドル的にふるまう女性、ネットミームに詳しい女性というのは、その時点で弱者男性ウケするものでした。

そして、「キャラクターのガワを被ってアイドルっぽいふるまいをするネット配信者」である女性VTuberは、弱者性を肯定してきた「オタク」や「アイドル」や「インターネット」的なものをまとめ上げてより強いシナジーを生み出し、それらがもともと持っていた弱者救済的な力場をさらに味方につけやすい形式になっていると考えます。

このようにして強められた弱者救済的な力場においては、それがコンテンツを享受する側である弱者男性たちにとってやさしいものであると同時に、コンテンツを提供する側であるVTuberの中の人の弱者性も、肯定的なものに変換されやすくなります。

例えば、女性VTuberのよくある自己開示(自分語り)は、「いじめられていたので人間不信」とか、「友達がいなかったから家に引きこもってゲームばかりしていた」とか、あるいは「切り抜き動画」映えするような、普通だったらありえないトラブルに遭った話などが多いです。

このような自分語りは、VTuberという形式ではなく、「ザ・ノンフィクション」などのドキュメンタリー番組みたいなリアルな体裁で流されれば、「当人には自覚できていない問題をいくつも抱えているんだろうな」などと冷静に判断されて、SNSでは批判的なコメントが集まる感じになってしまうと思います。

一方で、まったく同じ内容の自分語りでも、VTuberのガワを被って舌足らずな声でそれが話されれば、キャラクター的に戯画化された弱者性の提示となり、「守ってあげたくなるような女性」や「おもしれー女」のような肯定的なイメージに変換されやすくなります。

このように、本来であればマイナスに評価されるような内容でもプラスの評価に変換されやすくなるのが、VTuberという形式の強さであると言えます

加えて、戯画化された弱者性の提示は、キャラクター大国である日本のコンテンツ文化とシナジーを持っています。

「弱さ(欠点)」を演出することで「キャラ立ち」させるというのは、キャラクターに親しみを持たせるための方法として、マンガやアニメなどの日本のコンテンツにおいて非常によく行われてきたことであり、VTuberにおいては、このような手法を「実存」がうまく取り入れています。

「キャラ」と「実存」のミックスであるVTuberにおいて、「キャラクター的な実存」であることは、攻守において強い効果を発揮しています。

まず、「キャラクターを演じている(あくまでもキャラクターのロールプレイである)」という体裁と匿名性は、「盾(防御)」として働きます。そして、このような「盾」があることで、生身ではできなかったようなよりあけすけな自己開示ができるようになります。

生身ではできなかったインパクトの強い女性の自己開示は、訴求力を持ちやすい(多くの人の注目を惹きやすい)コンテンツになりやすく、つまり「キャラクターという盾」があるからこそ、より攻撃的な「攻め」が可能になっています。

そして、そのような「攻め」によって発生する、「実存」のパーソナリティにおける本来であればマイナス評価されていたような部分も、先に説明してきた「マイナスがプラスに反転する作用」によって、好意的に解釈されやすくすることができます。

「キャラクター的な実存」であることによって防御力と攻撃力がアップした上で、さらに、「本来受けるダメージが回復に変化することがある」という特殊効果がつく、みたいな感じです。 

女性VTuberの隆盛によって改めてわかったのは、性欲に由来する男性の懐の深さだと思います。

VTuberとして弱者性が提示されると、「メンヘラ」や「社会不適合者」や「元ニコ生主」といった要素のみならず、例えば「部屋が汚い」とか「風呂に入らない」といった要素でさえ、「一般受けしないからこそ自分にもチャンスがあるかも」という形で肯定的に評価されることがあります。

現在のVTuberシーンにおいては、実に様々な「女性の弱者性」が、「キャラクター化」と相まって肯定的に評価されるようになっています。

「キャラと実存を混ぜて性的魅力を詐称するズルいやり方」であるVTuberという形式が「弱者男性」に肯定的に受け入れられる作用に乗っかって、演者自身のパーソナリティに付随するマイナス要素までもが反転してプラスに評価されやすくなる、ということが起こっていて、そしてそれは、まさにVTuberというやり方が弱者救済的な力場を強めるものだからこそ可能になっている、ということです。

もっとも、マイナスがプラスに反転するといっても、「彼氏がいる」とか「結婚している」というのはダメです。「年収と身長の高い男性が好き」みたいなのもダメな場合が多いと思います。

あらゆるものが好意的に解釈されるわけではなく、あくまでも「弱者男性ウケ」というコードを守る必要があるということです。


「女性VTuberという形式」の強さまとめ

「なぜ女性VTuberという形式が強いのか」をまとめます。

まず、プラスになる要素として、「前編」の動画で説明してきた「メディアミックス」があります。

マンガやアニメなどの日本型コンテンツ、アイドル文化、ネット配信文化などがミックスされることで、様々なシナジーが生まれるのがVTuberの強みです。

加えて、「実存」が混じることによって、「恋愛感情」というコンテンツを視聴しようとする上での強い動機になりやすい心の働きを「コンテンツの面白さ」に組み込むことができるようになりました。

また先に説明したように、「キャラクターのロールプレイであるという体裁(盾)」があることによって、生身ではできなかったような強力な自己開示(強い攻撃)が可能になることも、コンテンツの訴求力にプラスに働きやすいです。

もちろん、VTuberのビジュアルや、VTuberだからこそできる様々な表現なども強みになります。

このようにプラスに働く部分が大きいのですが、女性VTuberの強さは、その強さの反動として生じる「マイナス」の部分さえ、「ガチ恋弱者男性ウケ」という形で「プラス」に変換できることです。

「キャラに実存を近接させて性的魅力をロンダリングしている」などのマイナスに思われやすい部分を、「そのような女性だからこそガチ恋の対象になる」という形の「ガチ恋弱者男性ウケ」によって肯定的な評価に変換できることに、女性VTuberの真価があります。

「キャラと実存のミックスでプラス要素を強め、その反動として生じるマイナス要素をも弱者男性ウケによってプラスに変換する」というやり方は、非常に強力であり、何なら現在の女性VTuberの標準的な戦略・デファクトスタンダードになっていると思います。

そして、マイナスをプラスに反転させるためには「ガチ恋弱者男性ウケ」が必要であり、ゆえに、ホロライブのような業界を代表するトップVTuberでさえ、男性配信者とあまり絡まないようにするなど、極端な弱者男性への配慮が行われるようになっています。


コンテンツビジネスにおける「強い形式」

「女性VTuberの人気はガチ恋」と言うと、それに異を唱えたくなる人は多いと思います。

もちろん、この動画の冒頭で述べたようにすべてをガチ恋で説明しようとしているわけではなく、「前編」の動画では「メディアミックス」という側面からVTuberが流行る理由を説明してきました。

実際に今の人気VTuberでも、「にじさんじ」の人気の出方はそれが大きいと思います。

ただその上で、女性VTuberの人気において「ガチ恋弱者男性ウケ」は無視できないものと考えます。

「ガチ恋」と言っても、大半のファンは自分がVTuberと付き合えると思っているわけではないし、ただ提供されたコンテンツを大人しく楽しんでいると思います。

しかしだからといって、女性VTuberにおける「中の人の実存」が必要ないというわけでもないんです。

これは例えば、パチンコにおいて、それによってお金が儲かると考えている人は少ないけれど、だからといって、金を賭けないパチンコが面白いかというとそうではないと思います。

同じようにVTuberにおいても、恋愛感情が報われると考えている人は少ないけれど、だからといって、「実存」のないVTuberが面白いかというとそうはなりにくいということです。

パチンコを打つ人の多くは、「長期では運営側が必ず儲かるようになっていて、だからこそ従業員の給料などが支払われ、パチンコ店のような施設が成り立っている」というのは、頭ではわかっていると思います。

しかしながら、金を賭けずに(換金できない玉で)パチンコを遊んでも、たとえ同じ演出を見て同じようにボタンを押していたとしても、面白く感じにくいと思います。

同様に、VTuberのファンも「自分がVTuberと付き合えるわけではないこと」は頭ではわかっていると思います。

しかしながら、中の人が「前々からお付き合いしている人がいて本日入籍しました」とか、「実はオッサンでボイスチェンジャーを使って女声を出していました」などと公表したら、同じ内容のコンテンツを見ていたとしても、面白く感じにくくなると思います。

「実存に対する恋愛感情」といった心の働きが作用するからこそ、そのコンテンツが「気になる」し、また、平凡な内容であっても「楽しさ」や「面白さ」を感じやすくなるんです。

つまり、パチンコの面白さにおいて「金を賭けていること」が重要であるように、VTuberの面白さにおいても「アバターの向こうに実在する女性がいること(そして疑似恋愛のような感覚を抱いていること)」が重要であるということです。

パチンコで賭博破戒録カイジみたいになっている人が少数であるのと同様に、ぺこーらに告白しようと思っているような人も少数だと思います。しかしだからといって「中の人(実在する女性)」による「弱者男性ウケ」が必要ないわけではありません。

またそれゆえに、少なくとも現状のVTuberシーンの延長においては、VTuberがAI化すればより人気のコンテンツになるわけではないし、キャラはそのままで中の人を交代といったことも難しいわけです。

なおこれは、必ずしも顕在化している意識の話ではなく、内部的な処理の話をしています。

パチンコをしている人は、理性では「それで金が稼げるわけではない(少なくともバイトなどで金を稼ぐのと比べて期待値は低い)」ということはわかっていると思います。しかし、パチンコを打っているときの内部的な処理としては、報酬系が刺激されて、それによって「楽しい」とか「面白い」と感じます。

このような「報酬系ハック」は、コンテンツとしては非常に強力であり、「賭博」はそれが強すぎるゆえに、基本的には禁止されたり、国が管理していることが多いです。

なお、「ゲーム」というコンテンツは、金が賭けられているわけではないので賭博ほど強力ではないですが、同様に報酬系をハックする性質が強いものと言えます。

ソーシャルゲームなどにおいても、それが「単に運営側が管理しているデータにすぎない」と頭ではわかっていても、レベルアップをしたりレアキャラを手に入れたりすれば嬉しさを感じます。

何らかの成果を出したり、希少なものを獲得したときに報酬系が刺激されるような働きを我々は進化的に獲得してきたので、それを得たりそれに近づく過程に「楽しさ」や「面白さ」を感じやすいんです。

そして同じように、「恋愛感情(異性に対する欲望)」も、我々を内部的に強く規定している働きです。

もともとそれを扱っていたのはアイドル産業や夜職などかもしれませんが、ここまで説明してきたように、VTuberは「恋愛感情」の対象になる「実存」をうまくコンテンツに混ぜ込んでいます。

例えば、「VTuberの下ネタ系切り抜き動画」というのは、わかりやすく報酬系をハックして再生数を稼いでいます。

VTuberにおいては、大手の事務所がガイドラインを出して収益化も認めているので、「切り抜き動画」が乱造されているのですが、そういう切り抜き動画チャンネルの動画一覧をYouTube上で「人気の動画」順にソートしてみると、「女性VTuberが下ネタを言った」みたいな動画がめちゃくちゃ再生されていて、視聴回数が何十万とかいっているのも珍しくはありません。

女性VTuberが配信中に言う下ネタや性的な話題は、VTuberの切り抜き動画では「撮れ高」のように扱われていて、実際それを切り抜くと再生数を稼ぎやすい傾向があるのだと思います。

「意中の女性が性的な話題を出している(下ネタの切り抜き動画)」というのは、パチンコにおける「チャンスタイムの演出」や、ソシャゲにおける「レアキャラ排出量アップ」みたいなものと同様に、本能(報酬系)に訴えかける性質のものになります。

おそらく内部的には「その女性との性的な関係に近づくチャンス」と処理されて、そういう情報を取得することに「楽しさ」や「面白さ」を感じやすくなるのだと思います。

たとえ理性的な部分では「くだらない内容だろう」とわかっていたとしても、サムネを見て動画を再生するところまではいってしまいやすく、数字を出しやすいゆえに切り抜きを作る側もそういうのを量産するようになります。

ただそういった切り抜き動画においても、アバターの向こうで下ネタを言っているのが「実在する女性」であることが重要で、さらにそれが「弱者男性ウケしやすい(ガチ恋の対象になりやすい)」と、より訴求力が強まるということです。

なお、ここまでの主張は、パチンコの面白さが「金を賭けている」ことに頼っているのと同様に、女性VTuberの面白さは「中の人が恋愛対象である」ことに頼っている、ということになるのですが、しかし「だから女性VTuberの話は実はつまらない」みたいなことを言いたいわけではありません。

あくまでここで指摘したかったのは、「ガチ恋売りをする女性VTuberがコンテンツとして強い形式であること」です。

そして、ソシャゲなども同じように「強い形式」だと言えるのですが、そのような形式の強さだけで人気が出る時代はとっくに終わっていて、「強い形式」を前提とした上で競争が起こっているので、面白くて人気のソシャゲとそうではないソシャゲがあるわけです。

女性VTuberにおいても、その「強い形式」を前提とした上で過酷な競争が行われるようになっているのが現状であり、今も人気を維持しているVTuberは高い実力を持っていると思います。

「VTuberは中の人の実存ありきなので実は面白くない」と言うのは、極端に言うなら、サッカーがうまい人に対して「あくまでサッカーという競技のルール上で評価されているだけ」と指摘するようなものです。

ここでしてきたのはあくまで、「恋愛感情のような強い動機を組み込めるからこその女性VTuberという形式の強さ」の説明であり、人気になっている女性VTuberの能力を否定したいわけではありません。


だんだん「強い形式」であることが明らかになっていった

ここまで、「女性VTuberという形式の強さ」を説明してきたのですが、当然ながら、すべての女性VTuberがガチ恋売りをしているわけではありません。彼氏や配偶者がいることを公言しているVTuberも少なくないと思います。

そもそもVTuberは女性だけではなく男性や性別不詳もたくさんいます。

「VTuber」というワードから多くの人が顔や名前を思い浮かべやすいトップVTuberが、全VTuberに対する割合で見ればひと握りの少数派であるように、弱者男性ウケによって意欲的に数字を狙いに行こうとする女性VTuberも、比率としてはそれほど多くはないかもしれません。

ただ、「前編」の動画で話したことなのですが、ここでは意図的に「ビジネス」に着目していて、ゆえに、コンテンツ産業として盛り上がりを見せている部分(商業的に成功している人気VTuber)をメインに扱っています。

商業的に調子が良いことと、その文化を担っていることはイコールではありません。「パズドラ」や「モンスト」が日本のゲームを代表するものだと言うと異を唱えたくなる人は多いと思いますが、同じように、「にじさんじ」や「ホロライブ」がVTuberを代表しているという見方も、それほど同意されるものではないかもしれません。

「前編」の動画で、日本型コンテンツの特徴として「多様性」や「参加可能性」を挙げましたが、VTuberにおいても、その特徴は「様々な人が積極的に参加していること」であり、実際に、文化的により重要なのはその部分だと思います。

ただ、あくまでこの動画では「ビジネス」の部分に着目して、「ガチ恋弱者男性ウケ」を背景にした「女性VTuberという強い形式」について説明します。

女性VTuberの「ガチ恋弱者男性ウケ」は、最初からそれが意図されていたというよりは、常に数字が可視化されるYouTubeのような場で活動していくなかで、それが「強いやり方」であることがだんだんわかってきたので、大勢がその方向に寄せていった(寄せていかざるをえなかった)……という感じだと思います。

「弱者男性ウケ」によって顕著に成功しているグループがホロライブだと思いますが、ホロライブにしても、初期のほうは男性とも普通に共演したりしていて、最初から今のように極端に「弱者男性ウケ」を狙っていたわけではありませんでした。

というより、この動画でここまで説明してきた、「弱者男性ウケによって女性のマイナス要素がプラスに反転する」というのは、想定していないバグのような挙動であり、普通の感覚なら「そうはならんやろ」と感じてしまうものです。

ただ実際にそうなってしまうなら、「なっちゃったからにはもうネ…」ということで、それに対応したやり方をしていかざるをえなくなります。

例えばソシャゲの「ガチャ」も、それが当たり前になる前に「ゲーム内のガチャが流行るよ」と言っても、ピンとこなかった人が多かっただろうと思います。

ただ、一般的な感覚で想定される以上に「ガチャ」に課金する人が多いことがだんだんわかってきて、真似して「ガチャ」を実装するゲームがたくさん出始め、そのような「強い形式」に批判が集まりながらも、だんだんソシャゲに「ガチャ」があるのが当たり前になっていきました。

女性VTuberの「弱者男性ウケ」も似たようなところがあり、一般的な感覚で想定される以上にVTuberにガチ恋する人が多いとだんだんわかってきて、「弱者男性ウケ」を意識したホロライブが数字を伸ばし続け、それを真似して今では、「弱者男性ウケ」を狙うのが女性VTuberのスタンダードな戦略になってきている……みたいな感じだと思います。

ただ先に言ったように、「強い形式」を前提とした上で競争が起こるので、「弱者男性ウケ」を意識しさえすれば人気になるようなフェイズはとっくに終わっています。ここでは、ホロライブのようなグループの成功の主因が「弱者男性ウケ」にあると主張したいわけでは必ずしもなく、たしかに弱者男性によって数字や人気が底上げされているところはあるかもしれないけれど、基本的にはタレントの実力が大きいと考えています。

また、ホロライブがやっているような「ガチ恋ムーブ」も、弱者男性のバグみたいな挙動につられて結果的にそうなっていったのであって、もともとは弱者男性ウケを狙っていたというよりも、キャラクター文化の延長のものだったり、おもしろインターネット的なものだったと思います。

例えば、ホロライブの人気VTuberは、「子供部屋で異様な笑い声をあげながら配信していて家族も呆れている」とか、「女子高生くらいの年齢を自称しているけど知っているアニメやゲームがどう考えても若くない」などのような、「キャラ」と「実存」の合間にいるからこその諧謔性を、自身のパーソナリティに紐づけた上で、視聴者にとって面白く心安い形で戯画的に提示する、みたいなことをやっていて、もちろんこれはちゃんと意図があって行われているものだと思います。

このようなふるまいは、VTuberという形式におけるクリエイティビティの高いもので、単に強い形式に甘んじるのではなく、「キャラと実存のミックス」であるVTuberという形式を前提とした上で、自分なりのやり方を提示できているような人が人気を獲得しています。

また、そのようなホロライブがよくやっているインターネットおもしろ女ムーブは、普通に考えればそれがガチ恋ムーブということにはならないと思います。

残念さや痛々しさを強調するというのは、キャラクターの好感度を上げるための方法としてマンガやアニメなどのコンテンツで昔から行われてきたことで、配信者として過剰にバカなことや変なことをしようとするのも、ニコニコ動画的なおもしろインターネットの流れであることが多く、普通に考えてそれで「ガチ恋」が発生するとは思わないし、やっている当人からしてもそういう意図はなかったんじゃないかと思います。

ただ結果としては、例えば、30歳の女性が17歳を自称するとガチ恋ファンが大量に生まれるといったようなことが起こっていて、そしてそれは、現実にいる17歳の美少女に対するよりもずっと多くのガチ恋が、「17歳のガワを被った30歳」のほうに発生する、みたいなバグのような現象です。

この動画では、そのようなバグの説明として、「女性の弱者性」というマイナスが「ガチ恋弱者男性ウケ」によってプラスに反転している、と述べました。

「17歳(30歳)」というのは、そういう冗談として(面白いものとして)提示されているプラス要素なのですが、そこにおける「若くないけれど17歳を自称する残念な女性」といった、本来ならマイナス要素であるはずの「女性の弱者性」の部分が反転して、さらにプラスが積み増されるようなバグが発生しているというのが、VTuberにおいて起こっていることです。

たとえそれがバグのような挙動であっても、「VTuberのガチ恋売りは法律で禁止します」みたいな修正パッチが当てられるわけではないのなら、バグ技を前提とした戦略が組み立てられるようになっていき、多くの女性VTuberが「中の人の実存」をより強調するようになっていきます。

もっとも、VTuberが「リアル」と「実存」を近接させていくというのも、それほど意図的なものではなかった場合も多いと思います。長時間の配信活動をしていれば「キャラクターのロールプレイ」が難しくなって「自分自身」が出てきてしまうのは不可抗力かもしれません。

ただ、そうやって「実存」をあからさまに出したほうがむしろ数字に繋がりやすいことがわかってくると、多くの人が数字を取りやすいほうに流れていきやすいということです。


弱者男性を制する者はVTuberを制す

例えばソシャゲのガチャにおいて、「ネット上のアイテムに課金する人がこんなにもいる」ということがわかってきて、多くのメーカーがそれを前提にコンテンツを作るようになると、「ソシャゲはガチャで良い気分にさせてくれるもの」という通念が形成されていきます。

ソシャゲであれば、「スタート時にはガチャを引けるもので、アカウントを作って定期的にログインしていれば記念日にはチケットなどを配布してくれたりするだろう……」みたいな感覚は、言明されているわけではなくとも常識にはなっていて、もし、「ガチャがあるゲームなのに開始時にガチャを引かせてもらえない」みたいなことがあれば、不満を表明するユーザーが出てくると思います。

同じようにVTuberにおいても、「インターネット女にガチ恋する人がこんなにもいる」ということがわかってきて、女性VTuberたちが数字を取るために弱者男性ウケに寄せていくようになると、「女性VTuberならば弱者男性にやさしい」という通念が形成されていきます。

そして、「数字を持っている企業所属の女性VTuberであれば基本的には疑似恋愛っぽい形の売り方をしていて、弱者男性に対して心地よいコンテンツを提供してくれるだろう……」みたいなことが、何となくの常識のようなものになっていて、ゆえに、弱者男性に対する配慮が不十分なふるまいを女性VTuberがすると、不満を表明する一部の視聴者が出てきます。

例えば、ある女性VTuberが、「男性は眉毛を整えたほうがいい」みたいなことを言って、ちょっと炎上っぽいことになった事例があります。

もっとも炎上と言っても、おそらくファンとアンチ双方の反応がたくさん来て盛り上がりやすいなどの理由から、VTuber関連のトピックについては何でも過剰に騒ぎ立てて面白がる人たちが一定数いて、「視聴者に眉毛を整えろと言ったVTuberが炎上www」みたいな感じで少し話題になった程度の話です。

ただ、実際にそのVTuberの発言を良く思わなかった男性がいないわけではなく、つまり、「男性は眉毛を整えると垢抜ける」的なアドバイスをVTuberがするのは、「女性VTuberならば弱者男性にやさしい」という通念に反した発言ではあったということだと思います。

ちなみに、当チャンネルが過去に出した動画では、女性が男性にする恋愛アドバイスが、役に立たないどころかむしろ有害になりやすいことを解説しています。

もっとも「眉毛を整えろ」というのは、女性が男性にするアドバイスにしては特にマイナスになるようなものでもなく、比較的まとも寄りの内容ではあるのかもしれませんが、だからこそ視聴者にとっては嫌なものだったとも考えられます。

同じ「女性が行う恋愛アドバイス」であっても、「VTuberをやるような女はめちゃくちゃメンヘラだからちゃんと構ってくれる人じゃないと付き合えないよ」みたいな弱者男性にとって耳心地の良いものであれば何の問題もなかったわけで、「眉毛を整えろ」が微妙に有用で現実を突きつけてくるタイプのアドバイスだったからこそ、文句を言いたくなる男性が一部いたのだと思います。

怒っている人たちの気持ちを代弁するなら、「俺たちだって、ガワを被ってあたかも自分が美少女であるかのようにふるまうことのズルさや痛々しさについて言及することはないわけで、互いに互いの現実的なことには触れない"やさしい世界"でやっていくのがVTuberとその視聴者ってものなんじゃないんですか?」といったような感じだと思います。

つまり、「VTuberならば弱者男性に配慮した発言をするだろう」みたいな通念・常識に齟齬があったということで、それ自体の是非についてはともかくとして、こういう事例がある種話題になったことによって、「眉毛を整えろとかは地雷だから言わないほうがいいんだな……」といった感じで、VTuber側の意識も変わっていき、より弱者男性に配慮した発言が心がけられるようになっていきます。

もちろん、弱者男性ウケを狙わない人気女性VTuberもいないわけではないと思いますが、見かけよりもずっと「弱者男性ウケ」は女性VTuberにとって大事です。

「前編」の動画で、一時期のホロライブがスパチャランキングを独占していたことに触れましたが、「弱者男性ウケ」が重要なのは、登録者数や視聴者数のみならず、収益性においてもアドバンテージを得やすくなるからです。

いずれは大衆的な人気を狙っていくにしても、収益が出ているからこそ、人を雇って技術に投資したり、人気クリエイターにオリジナル曲やMVを作ってもらったり、広告を打ったりしやすくなります。

「儲かっているからこそさらに勝ちやすくなる」という性質が資本主義にある以上は、まずは「弱者男性」という太い収益源からの支持を得て初動を強くするのがセオリーです。

実質的に、「弱者男性を制する者はVTuberを制す」という状況になっているのが、今の女性VTuberビジネスの環境だと思います。


「pay to win(弱者男性ウケを強める)」or「play to win(チャンスを増やす)」

この動画では、VTuberにおける「弱者男性ウケ」を、ソシャゲにおける「ガチャ」と同じように、コンテンツビジネスにおける「強力な形式」であると見なしています。

ただ、じゃあ今から市場に参加する女性VTuberが、ホロライブの真似をして弱者男性が好みやすい内容を提供すれば数字が取れるのかというと、そんなことはありません。

ホロライブのような身内ばかりとコラボするスタンスが「強い」のは、ホロライブがすでにIP・ブランドなどを築き上げているからであって、新規参入者がホロライブっぽいことをしても、単に誰にも認知されないまま終わってしまうことになりやすいです。

認知される機会を増やすには、他グループのVTuberや男性配信者などと共演したり、イベントに参加したりなどして、積極的に活動の場を広げていくのがひとつの方法なのですが、しかし、弱者男性は基本的に交友関係の広い女性が苦手なので、活動の場を広げると「弱者男性ウケ」は弱まります。

つまり、「交流を狭めて弱者男性ウケを強めるか、弱者男性ウケを弱めてチャンスを増やすか」みたいな択が、女性VTuberの選択肢としてあることになります。

「弱者男性ウケ」を失いやすいゲームジャンルに「FPS(ファーストパーソンシューター)」があり、中でも男女混合でチームを組むFPSは、特に弱者男性ウケが悪いです。

同じチームになった男女が協力し合ったり応援し合ったりしているところを見るのは、VTuberにガチ恋している視聴者からすれば、『NARUTO』で喩えるなら「活躍するカカシを眺めるリンを眺めるオビト」みたいになってしまいやすく、もしホロライブの主要メンバーがそういうFPSの配信の仕方をしたら怒る人が出てくると思います。

しかしながら、「男女で協力し合うFPSを見たい」という視聴者がいないわけではありません。

まず、「FPS」に分類される人気のゲーム自体が強い訴求力を持っていて、そのタイトルの配信を見たがる層はたくさんいます。そういう層にリーチできるようになることは、女性VTuberがFPSに手を出す大きなメリットです。

また、女性VTuberの事情として「ゲームが上達するほど男性と絡まないとやりにくい」というのがあります。

女性と男性とでは男性の配信者のほうが平均的にはプレイスキルが高い傾向があり、ゲームが上手い女性VTuberは、同じくらいの実力の人とチームを組むなら男性とコラボしたほうがやりやすくなります。

もちろん、男性のトップストリーマーやプロゲーマーなどと絡めるのなら、そういう人たちは数字を持っているので、認知を広げる大きなチャンスになります。

FPSなどのジャンルにおいては、配信者のゲーム大会やイベントなどもよく開かれていて、そういう場に出るのもVTuberにとってチャンスですが、当然ながらそのためには男性と共演する必要が出てきます。

このように、「弱者男性ウケを弱めてチャンスを増やす」というやり方にもメリットは多く、「まだ知名度が低く太客のガチ恋勢がついていないVTuber」や「ゲームのプレイスキルに自信のあるVTuber」などの場合、有効なやり方になる可能性があります。

というよりそもそもの話として、「活動をしていくなかで男性と関わることもある」というのはごく普通のことであり、「男性との共演を拒否して弱者男性ウケを狙う」というやり方が異常です。

もっともそういう異常なやり方をしているホロライブが現状のトップVTuberで、ゆえに「弱者男性ウケ」は決して無視できない要素になります。

この動画ではしばしばソシャゲを出してVTuberの説明をしてきましたが、ソシャゲにおいて、「pay to win(金で勝つ)」と「play to win(実力で勝つ)」という概念があります。

課金すると露骨に有利になるのが「pay to win」で、実力やプレイ時間によって優位に立てる度合いが大きくなると「play to win」です。

この「pay to win」と「play to win」は、どちらかを強めればどちらかが弱まるので、対立関係にあると言えます。

どちらに寄せるかはゲームを運営する側の采配ですが、IPを重視したゲームは「pay to win」になりやすく、内容の面白さを重視したゲームは「play to win」になりやすい傾向はあると思います。

で、何でも比喩で説明すればいいというわけではないのですが、ここでは、ソシャゲにおける「ガチャ」がVTuberにおける「弱者男性ウケ」であり、ソシャゲの「pay to win」にあたるのが、先に言ったVTuberの「交流を狭めて弱者男性ウケを強める」で、「play to win」にあたるのが、「弱者男性ウケを弱めてチャンスを増やす」だと考えてみることにします。

このような見方で今のVTuber界隈を説明するなら、まず、「ガチャゲーではないやり方(男女混合という弱者男性ウケが起こりにくい形式)」で、最初に盛り上がっていたのが「にじさんじ」です。

そしてそのあとで、「ガチャ(弱者男性ウケ)」によって大躍進したのが「ホロライブ」です。

それを受けて「にじさんじ」のVTuberも「弱者男性ウケ」を意識しだすようになるのですが、もともとガチャゲーではなかった(男女混合だった)ゆえに、そこまではうまくいっていない印象があります。

そんななか、女性グループでありながらゲームスキルが高めで、男性ストリーマーと絡んだり積極的に大会に出場するなどして、つまりホロライブが「pay to win」だとするなら、それよりは「play to win」に寄せたやり方で伸びているのが「ぶいすぽっ!」……みたいな感じです。

まあこの喩えがそんなに妥当かは自分で言っていてあやしいところがあると思いますが、ここで言いたいのは、「pay to win」と「play to win」のどちらに寄せるにしても、「ガチャ」という仕組み自体は用意しなければならない(つまりある程度は「pay to win」でなければビジネスになりにくい)ということです。

ソシャゲを出す上で、クリエイターやプロデューサーにはやりたいことや目指しているものがあると思いますが、そのゲームを事業として採算の取れるものにして長期的に運営していくためには、気が進まなくても「ガチャ」という仕組みを実装せざるをえないことが多いです。

同じようにVTuberも、それぞれやりたいことや目指しているものがあると思いますが、社員数がそれなりにいる大手事務所のタレントとして数字が求められる立場で活動するならば、気が進まなくても「弱者男性ウケ」を重視せざるをえないことが多い、ということです。

実際に、「ホロライブ」はもちろん「にじさんじ」や「ぶいすぽっ!」にしても、後発でデビューした人ほど、「弱者男性ウケ」を意識して、例えば元カレの話題などを気軽に出すことが難しくなっていると思います。


「なぜ女性VTuberが人気なのか」のまとめ

黎明期・盛り上がり始めた時期のVTuberのイメージは、「アバターとボイチェンによっておじさんでも美少女になれる」とか「声がおじさんでも在り方が可愛いければ可愛い」みたいな、ハイコンテクストで多様性のある雰囲気で、あるいはメタバースなどの概念とも接続されて、新しいことをしたい人たちが界隈に集まってくるような感じだったと思います。

一方で、この動画で説明してきた、中の人の「実存」が強調されるVTuberは、「誰でも好きなキャラになれる」的な初期のVTuber観とは乖離があるように思います。

そのような現状に対して「当初のコンセプトが捻じ曲げられた」と見る人もいますが、「前編」の動画で述べてきた日本型コンテンツの発展の経緯までを含めて考えるなら、「Live2Dモデル」などの「省力化」により参入者が増え、「キャラ」と「実存」がミックスされるタイプのVTuberが流行りだしたのは、むしろ妥当な流れなのではないかと自分は考えています。

ここで改めて、「前編」の動画の内容も含めて、「なぜVTuberが流行るのか・なぜ女性VTuberが人気になるのか」をまとめます。

「前編」で述べたのは、「オタク産業」や「二次元」と呼ばれる日本のコンテンツ産業の特徴が、「メディア・ジャンル横断的」であることです。

「日本のテレビアニメ」や「JRPG」のようなジャンルは、それ自体がメディアミックス的なものとして成立・普及していきました。

そして、現状において最もジャンル横断的・メディアミックス的なコンテンツが「VTuber」であり、それは、オタク産業・二次元などの「キャラクター」の文脈と、アイドル・芸能人・ネット配信者などの「実存」の文脈がミックスされるという形で盛り上がりを見せています。

「キャラ」と「実存」のミックスであるVTuberにおいては、例えば、VTuberとして活動するタレント自身が絵を描いたり歌を歌うなどの創作活動をしたり、ホロライブのIPを使った二次創作として作られたゲームをホロライブのメンバーが実況配信するなどといった、コンテンツとしてふるまう演者もまたコンテンツの消費者・製作者であるような入れ子構造によって、何重にも反響するようにしてメディアミックス的なシナジーが発揮されるようになっています。

VTuberは、これまでの多種多様なメディアやジャンルの、あるいは今までなかった様々な分野との結節点のようになっていて、日本のコンテンツ産業が培ってきた横断的なあり方をますます強めるものとして活躍しています。

「前編」の動画では、日本型コンテンツにも「強み」になる面とそうでない面があるとして、その特徴を「低層でぐるぐるして厚みを増していく」と説明しました。

参加しやすい代わりに属人的で専門性の洗練が起こりにくい状態(消費者と創作物との距離が近い範囲に留まった状態)になりやすいのが日本のコンテンツ産業の特徴であり、VTuberの盛り上がりにもそれが顕著に現れていると思います。

VTuberが流行ったことで、キャラクターデザイン、2Dや3Dモデル、サムネなどに使うイラスト、オリジナル曲や歌ってみた動画のミキシング、MVなどの映像制作、企画のプロデュースや脚本・台本の製作、関連グッズや企業とのタイアップなど、様々なジャンルの景気が良くなっているように見えます。

しかしそういったクリエイティビティの高まりも、主にインターネット女の承認欲求と弱者男性の性欲といった、市井の人々の低俗な情動を起点にして文化が興っているというのが、ここで言う日本型コンテンツ的なあり方ということになります。

もっとも、浮世絵なども後になって文化的な価値が認められたりしているらしいですが、高尚なものだから良く低俗なものだから良くないという話ではなく、一般の消費者に近いところで盛り上がりやすいのが日本のコンテンツ産業であり、それゆえに色恋などの情念も露骨に反映されやすいということです。

このような、消費者と創作物との距離が近いものであるがゆえの日本型コンテンツの現状において、特にエモーショナルなのは、演者であるVTuberの中の人の「実存」が、まさにこれまで消費者としてコンテンツを享受してきた歴史そのものであり、その遍歴が混ぜ返されるようにミックスされていくのがVTuber的なメディアミックスであることです。

例えば、VTuberが配信で提供することの多い「ゲーム実況」や「歌枠」などのコンテンツは、演者や視聴者がこれまで消費者として体験してきたコンテンツの共有・追体験という性質を持っています。

つまり、コンテンツを享受してきた主体の歴史性がコンテンツに接続されるという形で、コンテンツの体験が塗り重ねられていくようなメディアミックスが起こるようになり、さらにそれは、そういった体験のつなぎ目となる演者の「実存」が志向されるという形の強力な訴求力を持つようになりました。

当人のパーソナリティ(歴史性)がコンテンツに接続されるVTuberというあり方において、オタク文化がそこまで日の当たるものではなかったとか、インターネットが基本的に掃き溜めだったという経緯……つまり、真っ当に女性としてちやほやされたり問題なく社会に順応できていたなら、アニメやゲームにのめり込んだりニコ生主になったりなどはしていなかっただろうという時代背景が、VTuberが提示する「共感」や「感動」により説得力を与えています。

VTuberにおいて、「自分の人生で体験してきたコンテンツのこれまでを、自身のパーソナリティに紐づけたキャラクターとして体現する」といった自己実現の形が見出されることになり、特に現在の大物VTuberたちは、保証のない混沌とした状態から、屈託を乗り越え時流を掴んで自身のあり方を確立した人間としての強い魅力を備えていて、そのようにして最強になったインターネットおもしろ女たちの物語には、同じ時代の同じコンテンツ文化を共有してきた多くの人たちにとって応援したくなるものがあると思います。

しかし一方で、女性VTuberの人気は、ガチ恋弱者男性ウケに頼るところも大きく、パチンコやソシャゲなどと同じように、ある種人間の弱い部分を利用しているからこそ利益が出やすくなっている、コンテンツビジネスとしての「強い形式」です。

ただそのような、「弱者男性ウケ」という評価されにくいやり方でスターになった女性だから弱者男性ウケするという再帰的な関係のなかにあるからこそ、演者である女性の弱者性が肯定されるとともに視聴者の弱者性も許されやすくなり、さらにそれが「二次元と現実のミックス(キャラクターのロールプレイ)」であるという「言い訳」とも相まった形で、「実存」が志向されながらも互いに互いの現実的なところには目をつむる"やさしい世界"が形成されていきます。

「ガワを被って美少女のふりをして弱者男性ウケを狙うインターネット女」と「そんなものにガチ恋をしてしまう視聴者」といった、双方向的なバカバカしさを土台にして成り立っているものであるからこそ、弱者救済的で居心地の良い空間(やさしい世界)が生まれやすくなっている、ということです。

このようにしてVTuberは、恋愛感情のような強い心の働きをメインエンジンに取り込んでいながらも、そのかなめは「弱者性の肯定・許容」にあり、概ね「気楽に見ることができて心を癒やしてくれるコンテンツ」という形で大衆的なものとして受容されていると思います。

なおこの動画では、「女性VTuberの視聴者」を表すものとして「弱者男性」という言葉を使ってきましたが、VTuberにおいて「弱者性の肯定・許容」が重要なものであるというここまでの説明を踏まえれば、「弱者男性」という言葉を使ってきた意図の一部は理解してもらえると思います。

「インターネットおもしろ女」もギリギリ悪口ではないと考えています。


闘争領域の拡大(競争を否定する余地だったものが競争に回収されている)

前提としてここでは、VTuberにガチ恋することがそれほどおかしなものであるとは考えていません。

VTuberに限らず、「芸能人が結婚してファンが阿鼻叫喚」といった現象は、SNSなどでよく見られるものです。

「もとからノーチャンスだったのになぜショックを受けるの?」「芸能人やアイドルなんて自分の人生とは何の関係もないでしょ」というのは正論かもしれませんが、しかし、距離が遠い人のことを自分ごとのように感じる作用を我々が持っていなかったならば、国民国家などは機能しなくなるだろうし、「スポーツ選手を応援すること」だって成り立ちません。

堀口恭司がセルジオ・ペティスのバックブローでKO負けしたときに落ち込んで何日か暗い気持ちを引きずるのも、ガッキーと星野源が結婚を発表して同じようになるのも、どちらも距離の遠さという点では変わらないわけで、「ガチ恋」が特別おかしいというわけではないと思います。

そもそも現代のタレントやVTuberなどは、「距離の遠い人に関心を持ってもらうこと」を狙って活動をしているわけで、それに対して恋愛感情に近いような興味や執着を抱くというのは、ワールドカップで日本代表を応援する程度には普通のことです。

また、この動画で先に述べてきましたが、自由恋愛に打ちひしがれた人たちの多くは、「自分には若い美人は無理だ」という分別を持っているからこそ「VTuberのガチ恋」になりやすく、これもそんなにバカにするようなものではないと思います。

さらに、これについても先に説明しましたが、「儲かるわけではないと知っていても金を賭けているからパチンコが楽しい」の同様に、VTuberにおいて、その「楽しさ」や「面白さ」に「恋愛感情」が重要な役割を果たしてはいるものの、「リアルでそのVTuberと付き合いたい」と考えているような人は少数です。

このように、VTuberに対するガチ恋が特におかしなものではないとした上で、それでも、ここで問題提起したい論点はあります。

それは、VTuberにおいて、「本来であれば市場競争を否定するために使われるはずだった働きが、市場競争に回収されるようになっていること」です。

これの詳しい説明は他の動画などでしているのですが、前提として当チャンネルでは、ビジネス(市場競争)自体に、人間の弱い部分につけこむ性質があり、長期的には社会や共同体を解体していく作用であるという考え方をしています。

つまり、前提として「ビジネスが盛り上がることで問題が解決されて社会が良くなっていく」とは考えていないということで、その上で「強力なコンテンツビジネスの形式」であるVTuberを問題視しています。

VTuberビジネスにおいては、「闘争領域の拡大」が起こっていて、もともとビジネスの手が及ぶ領域ではなかったものまでがビジネスの対象になり始めているからです。

他の動画で言っていることなのでここでは説明しませんが、市場競争はその性質上、「相対的な競争」の上位に恩恵が与えられやすくなるように働きます。

例えば、「女性の若さと美しさ」に関して言えば、若く容姿が整っている人に多くの好意や称賛や貨幣が与えられるように、性的価値の競争を可視化していくのが市場の作用です。

一方で、もし男性が、市場で高く評価されるような相対的上位の女性しか愛せなかったならば、人類はとっくに滅んでいます。

市場で評価されにくい相手を大切にしようとする余地は、当然ながら我々にとって非常に重要なものであり、実際にこれまでの世間の大多数の人たちは、特に相対的な上位ではない相手を好きになって子孫を残してきました。

そして、この動画でVTuberにガチ恋する心理として説明してきた「客観的な評価基準であれば良く思われないような女性の弱者性を好ましく思ってしまう作用(かわいそうな女性だから好きになってしまう作用)」というのは、これまでは、相対的上位に脚光を当てる市場に対する防壁として機能してきたものでした。

しかしながら、そのような防壁(本来ならば市場を否定するための余地だったもの)を打ち崩し、市場競争に回収していくという形でブレイクスルーを起こしたのがVTuberビジネスなんです。

「自分と同じアニメやゲームが好きだから」とか「雑談などを聞いているうちに好きになってきた」みたいな感じで、若くも美しくもないかもしれない女性のガチ恋ファンになってしまう作用は、もともとは相対的上位を競う市場競争を否定する働きを期待されるものだったのですが、VTuberにおいては、まさにそれがビジネスの餌食になっています。

つまり、VTuberという日本のコンテンツビジネスにおいて、ミシェル・ウエルベックもびっくりのやり方で「闘争領域が拡大」していて、これまでは競争の対象ではなかったものが競争に巻き込まれるようになっているということです。

「前編」の動画では、「女性VTuber」が流行る以前は、女性の人気配信者自体が珍しい存在だったことに言及しました。

しかし現在は、例えば、VTuberの「雑談配信」などは見慣れたものになっていて、人気VTuberの雑談ともなると何十万回も視聴されたりしています。

曲がりなりにも社会に出て金を稼いでいるであろう男たちが、常識のないインターネット女の適当な話を楽しみにして心の支えにしている……みたいなことが起こっていて、女の話を誰もまともに聴かなかったVTuberが流行る以前のインターネットを思い返してみれば隔世の感があります。

ようするに「需要」が掘り起こされたということになるわけですが、ではその「需要」とは何なのかというと、配偶者や恋人、あるいは娘などに向けられるはずだった感情だと思います。

誰もが「親しい人」を持てるわけではなくなった現代社会において、それでも我々は大切な人に向かおうとする心の働きを機能としては持っていて、見目麗しいアバターと商業的なPRによって好感度を勝ち取ったVTuberたちが、本来であれば恋人や家族に向けられるはずだった、関心、許容、愛着などの感情の行き先になっているのだと考えることができます。

もちろん、VTuberは主に「原因」ではなく「結果」で、VTuberがいなければ今VTuberを見ている人たちに恋人がいたのかというとそうではないだろうし、恋人がいない人たちの財布を狙うのはオタク産業が昔からやってきたことで、完璧ではない人間だから推せるというのもアイドル産業から来たものなので、VTuberはあくまで既存のコンテンツをミックスして強力にしたに過ぎません。

しかしながら、まったく顔を出さない人間に対しての「ガチ恋」がかつてないほど盛り上がり、女性の「雑談」といったコンテンツに対する扱いが一変してしまった変化の大きさを見るに、何か恐ろしいことが起こっているような感じもします。


VTuberに対する「自我の持ち方」

VTuberは「原因」ではなく「結果」だと考えていますが、若いファンも少なくないわけで、これから「原因」になってしまう可能性も否定できません

20代・30代くらいの男性がVTuberのガチ恋になってそこに多くのリソースを使うのは、さすがに勝負を早く投げすぎ(人生をすぐに諦めすぎ)かもしれません。

ここまで述べてきたように、「弱者性の肯定・許容」という美徳がVTuberにはあり、特に、痛みに耐えられない人のためのものとしては、その社会的意義は大きいと思います。

しかし問題視すべき部分があるとするなら、まだ可能性のある人にも勝負を放棄させようとする吸引力があり、そういう「諦めさせるビジネス」として洗練されたものになってきていることです。

まだ完全に可能性がなくなったとは言えない人がVTuberにハマることの問題点としては、期待値の高い行動(少しずつ自分の状況を良くしていくための行動)をしにくくなってしまうことが挙げられます。

VTuberにガチ恋する弱者男性のメンタリティは、麻雀に喩えるなら、いきなり勝負を降りて、「絶対に無理だろうな」とわかりつつも「国士無双」みたいな一発逆転の役に希望を持つ、みたいな感じだと思います。

弱者男性なのだからそりゃ基本的には配牌が悪いわけですが、端から勝負を降りるようなプレイングを続けていれば当然ながら状況はより悪化していきます。

麻雀における役満の役は、麻雀というゲームを華やかにしてくれるものではあるかもしれませんが、「それを狙う」というのはセオリーにはありません。

同じように、大物VTuberたちのようなインターネット役満ガールズも、人生に彩りを与えてくれる存在ではあるのかもしれませんが、「それを狙う」のは「勝負を投げる」ことを意味します。

「役満を狙う」といった「やや能動的な勝利放棄への誘惑」という形で、やけくそに一発逆転を夢見てしまう弱い心を刈り取っていくのがガチ恋ビジネスであり、それによって「現実に付き合えることはないとわかりつつも金と時間を注ぎ込んでしまう」ような消費者が作り出されていきます。

対して、現実的に状況を改善していきたいなら、自分が勝つために必要な牌を捨てるべきではない(VTuberのスパチャやグッズに金を使うべきではない)わけです。

まだ勝負を降りないのであれば、かりそめの一発逆転を夢見てVTuberを追うのではなく、人生は不平等なクソゲーだと思いつつも、少しでも期待値の高い牌の切り方をして1000点2000点くらいの女性を狙っていくしかなく、まあ運がよければドラが乗るかもしれない……みたいな言い方をすると、麻雀を知らない人には申し訳ないのですが、ようは、VTuberに金と時間を使うのは夢を見れるし楽しいかもしれないけれど、リアルな彼女などを作れる確率は下がるよね、という話です。

もっとも、「弱者男性でもイケそうな女性」を演出して「揃いそうな役に見せてくる」のがVTuberたちの戦略なのですが、もちろんそれは幻想です。

人気VTuberたちが、オタクでありインターネット女だったのは嘘ではないと思いますが、「モテなかった」は嘘です。

男女ではそもそもの性的価値に差がある上に、女性は男性と違って、アニメやゲームなどのコンテンツが好きなことがむしろ異性ウケにつながるし、その上で、配信活動をできるくらいバイタリティのある女性に相手が見つからないなんてありえません。

で、じゃあそういう女性VTuberに対して、現実に向き合うための方法(自我を持つための方法)なのですが、「VTuberなんてただの絵でしょwww」みたいなバカにする方向性は悪手です。

VTuberを否定しようとする上で、「相手を下に見ようとする」とむしろ逆効果になります。

なぜなら、「ガチ恋」はある種相手を下に見ることで発生するものだからです。

よくYouTubeのコメント欄やSNSなどで、VTuberを積極的にバカにしたがる人たちがいますが、そもそも興味がないなら言及自体しないので、そういう人たちはむしろ「ガチ恋予備軍」とか「元ガチ恋勢」みたいな感じなんです。

ガチ恋というのは、「相手の価値を低く見積もる(自分でもイケそうな相手だと思う)」ことで発生しやすくなるものであり、逆に言えば、そういったVTuberを下に見ているような人たちをこそガチ恋ファンとして回収していけるのがVTuberという形式の強さであるということです。

ただ、嫌な言い方をすれば、熱心なガチ恋であるほど対象の相手を見下しているような側面があって、何十万人もチャンネル登録者がいるような相手を、「であるにもかかわらず、自分にもチャンスがあるかもしれないほどの問題を抱えている女性」と捉えているわけで、そこにはちょっと負の感情のようなものも紛れています。

そもそも、愛と憎悪は裏返しの関係にあり、VTuberが流行る以前から「熱心なファンが反転することで熱心なアンチが生まれる」と言われているくらいだったし、「マイナスがプラスに反転する」のが「ガチ恋弱者男性ウケ」の力なのですが、「そうやって積み上がったプラスが全部反転してマイナスにもなりうる」というのが愛憎のような心の働きを利用している代償で、ゆえにVTuberは「心を抓む戦い」になりやすいんです。

「男性の弱者性」によって「女性の弱者性」が反転するという形で、「弱者性の肯定・許容」が鍵になるVTuberにおいて、「VTuberのガチ恋ファン」と「VTuberを低く見ているアンチ」はわりとシームレスで、「アンチ行為」というのもまた弱者性の発露が許容されるVTuberに付随しやすいものと考えるなら、普通ならば恋愛に参加できなかった層の愛憎すらも扱っているからこそVTuber界隈は、生々しい感情が目まぐるしく渦巻く場であり、誹謗中傷なども起こりやすい状態であることになります。

ここまでの話で何を言いたかったのかというと、VTuberにおいて、「相手を下に見たりくだらないものとバカにする(アンチになる)」というのもまた、参加の仕方のひとつであり、それをやるとむしろ「ガチ恋」に近い場所に行くことになります。

では、VTuberに対して「現実に向き合う(自我を持つ)」ためにはどうすればいいかというと、まずは相手の卓越性をちゃんと認めることだと思います。

「VTuberなんてただの絵でしょ(こんなのは役にならない)」と考えるのではなく、「価値の高いものだからこそ自分とは関係ない(役満だから狙うものではない)」と考えることです。

人気VTuberが「インターネット役満ガールズである(最強のインターネットおもしろ女である)」ことを認めた上で、「寂しいけど、自分のリアルとは何の関係もなく、自分は自分自身の人生と向き合って、少しずつ状況を良くしていこうとするしかないよね」と考えること、それが、VTuberに対して「現実に向き合う(自我を持つ)」ための方法になるのだと思います。


痛みをやわらげてくれるもの

とはいえ、こんな世の中なので、「現実を拒否して自我を失ったほうが楽」という考え方もあります。

この動画では、VTuberであるからこその"やさしさ"について説明してきましたが、「状況の改善を難しくする代わりに痛みをやわらげてくれるもの(ホスピスのようなもの)」としてであれば、多くの優れた点を備えているのがVTuberだと思います。

例えば、VTuberの視聴者の一部に見られる特徴として、「推しのことをやたらと心配する(杞憂する)」というのがあります。

先に述べてきたような、「自分の状況を少しずつ良くしていこうとするべき」といった考え方ならば、「VTuberの心配をするよりも自分の人生の心配をしろよ」となるかもしれません。

しかし、我々は誰しも将来に何かしらの不安を抱いていると思いますが、その不安の中には、何をやっても解決不可能な、どうしようもない問題というのもあると思います。

極端に言えば、どんな人間でもいずれは老いがやってきて死がやってくるという意味においては、誰だって末路は不幸です。

究極的には、老いや死というのは解決不可能な問題であり、それよりは度合いが小さくとも、各々が個別に抱えている他の様々な不安や問題も、どうすることもできないものは少なくないはずです。

しかし一方で我々は、進化的に獲得してきた作用として、将来を不安に思ってしまうような心の働きを持っていて、それが苦しみをもたらします。

問題を解決するために不安を感じる作用が解決不可能な問題に向かってしまって、無益な苦しみが増えているという不具合です。

ではどうすればいいか?

「VTuberの心配をする(杞憂する)」というのは対処法のひとつになりえます。

不安に思ってしまう矢印が自分自身に向かうより、それがVTuberに向かっていたほうが、痛みが紛らわされやすくなると考えることができます。

そして、自分自身の不安や問題がもはや解決不可能な場合、VTuberの心配をすることで痛みをごまかすというのは、それなりに合理性のある方法です。

必ずしも意識してやっているわけではないと思いますが、「自分自身の深刻な問題」よりも「VTuberのどうでもいいこと」をやたらと心配している人は、自身の痛みを和らげる対処法として、ある種合理的なふるまいをしていると言えるかもしれません。

コンテンツには多かれ少なかれ「気を紛らわすためのもの」という福祉的な役割があり、その点においてこれまで日本で大きな役割を果たしてきたのはプロ野球だったと思いますが、これからの時代のよりパーソナライズされたものとしてはVTuberが候補のひとつに挙がるのではないかと考えています。

もちろん心配を向ける先が「VTuber」である必然性はないのですが、VTuberの利点は、演者側が吐露する不安や問題が「実態」のままである必要が必ずしもなく、「あくまでもロールプレイである」という「曖昧さ・言い訳・やさしい世界」が機能しているゆえに、視聴者側からしても「心配しやすい(杞憂しやすい)」ようなところがあることです。

そして実際に、これからますます多くの弱者男性(あるいは弱者女性)が、VTuberの心配をすることによって痛みをごまかしていくことになるのだろうと思います。

そのため、VTuberの演者側は、別にそれが事実である必要はないので、トラブルが起こったり体調が悪かったりしたら配信で報告するとか、あるいはライフプランに関する不安をこぼしたりして、視聴者に心配される(杞憂される)というのがVTuberとしての社会的役割になると思います。

またこの動画で先に、演者の歴史性が混ぜ返されるようにしてVTuber的なメディアミックスが起こることについて述べてきましたが、それは、これまで生きてきた時代に対する美しい回顧の仕方であり、その点においてもVTuberは「ホスピス」のような性質を持っています。

その背景には、労働人口の減少などによりこれからますます国力が弱まっていくであろう日本社会において、多くの人たちが過去の思い出に浸るためのものを求めやすくなっているという事情もあるかもしれませんが、もっとも、ここでしているVTuber産業を未来のない終着点と捉えるような見方には異論があるだろうとも思います。

ただ、これに関してはここでは説明しきれないので他の動画などを見てほしいのですが、当チャンネルの枠組みでは、「ビジネス(市場競争)」が「ブレーキ」のように働くと考えています。

ゆえに、「優れたビジネスだから問題を解決できる」ではなく、「完成されたビジネスだからこそ終着点である」というような考え方になります。

VTuberが、様々なコンテンツビジネスをミックスしてより強力にしていき、本来であれば市場競争に含まれなかった余地すらも競争に巻き込んでいく「強いビジネスの形式」であるからこそ、なおさら勢いよく社会を破綻に向かわせていくということで、単純に考えても、VTuberにハマって恋人や家族を作れなくなる人が増え続けていけば、長期的には社会集団そのものが継続不可能になります。

なお、ここでの「ビジネス」を問題視するような枠組みにおいては、VTuberに金や時間を多く使っている人のなかで、「ガチ恋」というのは比較的症状の軽いものと考えています。そこにはまだ僅かながらも「自我がある(現実を諦めず自身の状況を良くしていこうとする気持ちが存在する)」からです。

より症状が深刻なのは、現実に恋人ができた場合と同程度以上の金や時間をVTuberに使いながらも、「ガチ恋なんて滅相もなく、ただ純粋に尊敬しています・応援するしがいがあります」みたいな場合で、たしかにこのような人たちは、「マナーのあるいいお客さん」として、ありがたがられ褒められるものかもしれません。

しかし、「自分は邪な気持ちを持つガチ恋とは違って、ただ純粋に推しのことを支援したい」といった献身的な自己イメージのために、かろうじて残っている人間としての矜持や、善く在りたいと思う規範が消費されていくというのは、「ガチ恋」よりもさらに程度が酷いもので、そういう「都合の良い消費者」として飼いならされていくような向きをここでは問題視している、ということです。

しかしだからといって、人は自分自身のために金や労力を使ってもそんなに楽しいものではないし、リアルな女性と付き合おうとするよりVTuberにスパチャして感謝されたほうが同じ金を使うにしても満足度が高いというのも特別おかしなことではなく、そもそも今の自由恋愛市場が狂っているわけで、むしろ真っ当な人間ほどそうなりやすかったりします。

特に、解決不可能な問題を数多く抱えている人の場合、自我を放棄してVTuberが提示する"やさしい世界"に包まれていくことにも一定の合理性があり、それをやろうとすることがおかしいとは言えません。

ただ、そのように「自我を持たない」ことにも利があると認めながらも、あくまでこのチャンネルでは、「自我を持つ(現実に向き合う)」ことを重視していこうと考えています。

まあ「べーシックインカム」という概念自体があんまり自我がない感じなのですが、当チャンネルの他の動画などを見てもらえれば、「べーシックインカムを配りさえすればみんながハッピー」みたいな考え方をしているわけでもないことがわかってもらえると思います。

普通に考えればこれからますます日本は酷くなっていくわけですが、現実に向き合って(自我を持って)何かを変えていくことのできる可能性がすべて失われたわけではなく、これからそれをやろうとすることの面白さみたいなものもまだ残されているんじゃないかと自分は考えています。

そういう可能性が何なのかということは、これから投稿していく動画などでそれを提示していきたいと考えています。

おそらくですが、この動画をここまで見ている人は、「もう完全にすべてを諦めてしまった」といったような人は少ないのではないかと思います。そういう人は、こんな理屈っぽい上にクソ長い動画をここまで見たりはせず、もっと別の楽しい動画を視聴しているだろうからです。

繰り返し言うように、「自我を持たない」という選択をした人が特別おかしいわけではないし、その選択をバカにできるものでも責められるものでもないとしながらも、あくまでこのチャンネルでは、「自我を持て!」という逆ホロライブみたいな感じでやっていこうと思っています。


「潤羽るしあ」

この動画では主に、「VTuberが強力なビジネスの形式であること」と、「VTuberのやさしさ(弱者性の肯定・許容)」について説明してきました。

ただ、詳細についてはまた別の動画などで説明する必要があるのですが、「やさしさ」と「ビジネス」は、混じり合っているように見えていずれは切り離されていく……「VTuberによる"やさしい世界"」と「営利目的であること」は相容れない部分があると、ここでは考えています。

もっともこれについて、一般の消費者がそんなに考えることではないかもしれません。

コンテンツはその性質上、盲目的に楽しむことに合理性があり、気に入らなかったり問題があると感じるなら別のものを視聴するという選択肢があります。

我々は基本的に好きなコンテンツを選んで楽しんでいればよく、解決不可能な問題は意識を曖昧にしてごまかしながら生きていくしかないわけで、そういう意味では「自我を持とうとする」ことのほうが不合理なのかもしれません。

しかしそれでもなお、「自我を持とうとする人・自我を取り戻そうとする人向け」の内容として、以降の話をしていきたいです。

ここからの内容は、「自我を持て!」という方針に納得してもらえた方のみに視聴してほしいと思います。

この動画では、VTuberにおいて「実存」が重要なものであることを説明してきましたが、しかしこの見方は、大手企業などが表向きにしている「健全なキャラクタービジネス」としてのVTuberのイメージとは乖離があると思います。

それに関して、ここから、ホロライブの人気VTuberが契約を解除された(不祥事によってクビを切られた)事例について話そうと思います。

事例を出しておいて名前を伏せるのはおかしいので言いますが、「潤羽るしあ」さんというホロライブ所属だったVTuberが契約解除になった件についてです。

「前編」の動画で出したスパチャランキングで世界一位だったのが「潤羽るしあ」であり、ガチ恋ビジネスを象徴するVTuberだったと思いますが、2022年に契約解除されて、ホロライブからはいなくなりました。

大きく話題になった有名な事例なので、ここで詳しい経緯などの説明はしません。

何なのか知らないという方は各自調べてほしいです。興味がないならこの動画の視聴はここで終わっても大丈夫です。

「潤羽るしあ」案件に関して、企業側が公式に出している主張としては、「契約違反行為や信用失墜行為が認められたので、契約を解除した」という形になります。

この「契約違反行為」や「信用失墜行為」というものが具体的に何なのかとか、見えないところで当人と企業がどういう関係だったか、といったことは知りようがないので、推測でしか語れない部分は「わからない」と置くことにします。

またここでは、「潤羽るしあ」の中の人の問題や、「ホロライブ」という企業の体質の問題について論じるのが目的ではなく、これらも外からは推測でしか語れない部分が多いので「わからない」とします。

問題の俎上に載せたいのは、VTuberにおいて、「キャラクター」に「実存」が紐づいている一方で、「そのキャラクターのIP」という生殺与奪の権利を企業側が握っている関係についてです。

この話題に積極的に触れたいわけではないのですが、VTuberにおいて「実存」が重要というのがこの動画の主張の核である一方で、それは経営側が表向きにしたがる建前とは食い違っているところがあって、その問題における最も大きな事例である「潤羽るしあ」を避けるべきではないという判断になりました。

また、個人と組織とが対立したとき、「個人が切り捨てられた」という部分を看過せず簡単に組織側に組みさないというのも、「自我を持った人間(近代的個人)」としては重要なことであると考えています。

ここでしたい問題提起は、タレントと企業との信頼関係が何らかの形で破綻したとき、キャラのIPを握っている企業側が一方的にVTuberの存在を抹消するのは、VTuberが「キャラ」に「実存」を注ぎ込むものであるという視点を踏まえれば、やや疑問視される余地があるのではないか、ということです。

「潤羽るしあ」の契約解除のされ方なのですが、YouTubeチャンネルのアーカイブはすべて削除され、公式サイトなどからも存在した痕跡が消されるといった、「裏切り者には死を」みたいな前近代的な世界観で、芸能界にまだそういう気風が残っているならともかく、ホロライブのような新興事業でもそのような感じになるのかと、当時はちょっと驚いた記憶があります。

もちろん、キャラクターの権利を握っているのは企業側なので、それをやる契約上の正当性はあったのだと思います。

ただ、この動画で説明してきたように、VTuberが「キャラ」と「実存」のミックスであるとするなら、ある程度の期間そこに「実存」を注ぎ込んで活動してきたタレントに対する「キャラクターの没収」は、「存在の抹消」に近いことを意味するので、一般的な芸能事務所における契約解除や、企業における懲戒解雇などと比べても、より重い措置であると考えるべきです。

もし仮に、社会通念上問題があるとされるような契約違反で、一般企業であれば懲戒解雇に相当するレベルの問題をタレントが起こしていたとしても、キャラクターを剥奪した上でアーカイブ全削除みたいなやり方に道義的な正当性があったのかはもう少し議論されていいと思います。

一連の騒動は、発端としては「人気VTuberの彼氏バレ」みたいな形で騒動が盛り上がって、「潤羽るしあ」の人に対して、これまで「ガチ恋」的な売り方をしてきたことなどに対する非難や誹謗中傷が集まる形になりましたが、ただ、そういうやり方で利益を得てきたのは企業側だって共犯関係ではあります。

表向きは「キャラを演じるもの」となっていても、実際には「キャラを演じる」といった以上の「実存」が要求されるのがVTuberで、現に「潤羽るしあ」の件においても、キャラという「プロフェッショナルの部分」ではなく、実存という「プロではない部分」に起因して問題が起こりました。

ただそうやって起こった問題に対して、これまで実質的に「プロではない部分」を求めてきたし利用してきた企業側が、「プロフェッショナルの部分」の欠如を理由にタレントを排除(キャラクターを没収)した形になり、その正当性には疑問視される余地があるのではないか、ということです。

本人が問題のある行動をしたとして、その原因のひとつに「普通の人間がまともな判断力を失ってもおかしくないような膨大な量の誹謗中傷など」があったわけですが、その誹謗中傷の原因の一部には「ガチ恋弱者男性ウケを狙う(愛憎のような感情を扱う)ビジネスのやり方」がありました。

そして、その「ガチ恋ビジネス」というやり方からは企業側もちゃんと利益を得ているわけで、つまり、表面化した当人の問題行動の大元にあるものは企業側も共有していることになります。

問題の根っこを共有しているのであれば、表面化した問題についてもそれを加味する道義的責任があると普通なら考えるものですが、企業側は表向きには「ガチ恋に頼らないコンテンツビジネス」であるとしていて(つまりガチ恋ビジネスであることを認めていなくて)、そういう企業側の事情によって、「ガチ恋ビジネスゆえの心理的負担・膨大な誹謗中傷」などが加味されなかったことになります。

この動画で説明してきたように、VTuberは愛憎を扱うゆえに演者の心理的負担が大きくなりやすい業態なのですが、企業側が表向きにそれを認めないなら当然その部分のサポートも不十分になるわけで、その上でいざ問題が起こったときには、企業側が契約上の正当性を強く行使する形で演者を切り捨てていて、そういった構造の部分だけを見るなら、「潤羽るしあ」の件は「企業側の事情によって個人が理不尽に排除された」事例になります。

加えて、「問題が起きてから短期間のうちに切られていて、話し合いや交渉の期間が十分に経られたとは言えない」「新興の産業ゆえにタレント側を守る仕組みが未整備な上に、エージェントなども介さない状態において、一個人と企業の間には大きな権力勾配がある」「過去の活動記録まですべて消去するといった懲罰的なやり方がされている」などといった諸々を考えるなら、企業側のほうの印象が良くなりにくいやり方だったと思います。

ざっくり言うなら、メンヘラを雇ってメンタルが悪化しやすいやり方で稼いでいるのに、そのメンヘラに起因するトラブルが大きくなってきたときに即切りするのはなかなか冷酷だし、さらにそこには「ガチ恋ビジネス」であることを表向きに認めたくない企業の事情が関わっていて、しかも業界のルールがまだ未整備ゆえの契約上のアドバンテージを利用してアーカイブの全削除などが行われているわけで、企業側の正当性が疑われる余地はけっこうあると思います。

ただこれに関して、ホロライブ側(カバー株式会社側)がおかしいと主張したいわけではないです。

ここでは「わからない」と置いていますが、もちろん「潤羽るしあ」の人の側にも問題はあったのだろうと思います。

そもそも、遊びでやっているわけでも慈善事業でやっているわけでもないし、それなりの規模の企業が行う意思決定に温情が入り込む余地がなかったとしても仕方ないところがあります。

また、キャラのIPを握っているという点においては企業側が有利なのですが、本質的に人気や能力を持っているのはタレント側で、特に今の大物VTuberたちなんてみんな緩い知り合いみたいなものなんだから、例えば全員で団体交渉などをされた場合、当然ファンはタレント側につくだろうし、企業側は契約の条件を今よりも大きく譲歩した形にしなければならなくなるかもしれません。

そういう意味ではタレントたちは潜在的な強者であり、VTuberとして大成するような一筋縄ではいかないやつらに対して、企業側の経営陣や社員は普通の人間の集まりなわけで、基本的にはタレントの機嫌を取りながらも、「ラインを超えたときは厳しく対処する」などと統制を強めて対抗しようとするのは別におかしなことではないです。

「キャラのIPを握っている企業側が有利」というのも、ホロライブが例外的に成功しているから結果的にそうなった側面もあって、タレント有利な契約にしすぎると、これから新しく始めようとするVTuber事務所などの事業が立ち行かなくなりやすいという問題もあるかもしれません。

さらに、ここで述べてきたトップVTuberの契約解除というのは、ごく一部の超高給取りの話であって、労働者保護のような文脈でそれほど問題視できる事例とは言いにくいです。

社会的に影響力のあるタレントとして活動するなら、一定の責任感のあるふるまいが求められるという考え方もあり、契約解除された当人がそれにふさわしくない行動をしていた部分は否定できません。

ホロライブ側だって、自社の大人気のタレントを積極的に切りたいわけではなかっただろうし、「潤羽るしあをちゃんと切り離す」という決断ができたのは、企業としては優秀なのだと思います。

また、ビジネスの論理として、「道義的には疑問視されるような冷徹な判断ができるからこそ、営利企業としては高く評価される」という見方もあります。

そのような見方において、ホロライブ(カバー株式会社)は、「企業としてより大きなことを成し遂げるために必要な判断をした」という評価になるのもよくわかるし、実際に上場を果たし、大規模な技術投資や野心的なプロジェクトに取り組みながら、数あるVTuber事務所の中でも突出した結果を出し続けています。

つまり「潤羽るしあ」の件は、個人が組織から冷徹に切り捨てられたものではあっても、企業側がそれほどおかしいとは言えず、総合的には仕方がなく、妥当なものだったと思います。

そもそもの発端は不幸な事故みたいなもので、どちらが悪いとかではなく、企業側も個人側も両方が損害を被っています。

では、だったら何を問題視しているのかというと、企業と個人との信頼関係が破綻して個人が排除されたときに、「マナーの良い消費者」として企業側のほうを盲信しがちな自我のない人たちの群れに対しては、ちょっと思うところがあります。

諸々含めて仕方のなかったことではあれ、「潤羽るしあ」個人にとっては理不尽だった側面もあり、もしカバー株式会社が、営利企業としてそこまで野心的ではなく、ステークホルダーがそんなに多くもなく、上場を控えているわけでもなかったなら、「問題発生からすぐに契約解除」というやり方はされず、「しばらく謹慎」みたいな感じで様子を見て、ほとぼりが冷めた頃に復活することだってできたかもしれなかったわけです。

つまり企業側の判断には、「組織の目的のために個人を切り捨てた」という性質があって、そういう側面に関しては個人側に同情の余地があるし、企業側のやり方が正当だったのかという議論の余地もあるということです。

しかしそれに対して、「問題児だったから仕方ないね」とか「ルールをちゃんと守ることが大事ですね」みたいな粒度で事態が咀嚼されたうえで、「切り捨てられた個人」よりも「冷徹だからこそ営利企業としては優秀と評価される判断を下した企業や経営者」に対して肯定的なイメージや好感度が維持され続けるのは、さすがに自我がないなとは思います。

どちら側により問題があったかで言えばそりゃ「潤羽るしあ」のほうだとは思いますが、一方で、「組織対個人の問題」という観点もあるわけです。

そして、ここでしているのは、「どちらの味方につくべき」という話ではなく、「近代的個人として自我を持った考え方をしよう」という話です。

営利企業としての判断の優秀さを投資家が肯定的に評価するのはわかりますよ。でも、弱者男性が同じような態度でそれを肯定的に評価しようとするのは、「肉屋を支持する豚」という言葉がありますが、いずれは切り捨てられる側が切り捨てる側の理屈を支持したがるような滑稽なことではあります。

弱者男性についてまではここでは説明しきれないのでまた別の動画で話すつもりですが、「ビジネス」やそれと結託する「政治的正しさ」は、最初は弱者男性に寄り添ってくれるように見えても、長期的には弱者男性を切り捨てていこうとする作用です。

つまり弱者男性も基本的には切り捨てられる側だろうということで、その詳細をここで説明はしないまでも、弱者男性自身が素朴な実感に照らして考えればそれは納得できることなのではないかと思います。

自社のトップタレントを素早く切る決断ができるホロライブは「優秀」なのですが、そういった営利企業としての優秀さを、ファンとしての盲目的な視点(マナーの良い消費者としての態度)で、自らに利するものと受け取ってしまう弱者男性に対しては、「さすがにもうちょっと自我を持て」と言いたくなります。

提供されるコンテンツをこれからも平穏に楽しんでいくためには盲目さが必要で、先に言ったように、その事情はわかるしある種合理的な態度でもあるのですが、しかしそこで「個人を切り捨てた組織の側を盲信し続ける」ことを選ぶと、自我のある人間ではなくなってしまうし、自分が切り捨てられる側に回ったときに抵抗する道理を失ってしまいます。

たしかにホロライブは、大勢の弱者男性に"やさしい世界"を提供していて、それは現代における巨大な救済の装置として機能していると思います。

ホロライブのVTuberたちは、インターネット女の集まりとは思えないほどの奇跡的な社会性を発揮しながら弱者男性に対するやさしさを提示し続けることができていて、視聴者の側でもそれを大切に扱うことで"やさしい世界"が共有され維持されている様は、2ちゃんやニコ動のような国産プラットフォームが衰退していった果てに見る光景としてはある種感動的なものがあります。

しかしそのような"やさしい世界"は、ビジネスの論理に要請される営利企業の目的とはいずれ相容れなくなるものであり、時価総額が1500億を越え、自社が抱えるファン層とは違って「希少な価値のある」という意味のユニコーン企業だったカバー株式会社が羽ばたいていこうとする先は、弱者男性たちが求める"やさしい世界"とは異なったものになりやすいと思います。

現状のホロライブにおいて、どういうわけか"やさしい世界"が維持されているようなところがあって、それは奇跡的なことあり素晴らしいものだと思いますが、しかしそれも、母体の企業が営利を追求していくことと噛み合わない部分がこれから大きくなっていくだろうということです。

もちろんタレントたちだって、数字を取るために必要なことをしてきたからこそ今の人気や知名度を手にしているわけで、企業や経営者に対するのと同様に、タレントに対しても過度な幻想を抱くのは危険です。

企業の問題であれタレントの問題であれ、あるいは自分自身の気持ちの問題であれ、いずれは"ホロライブリアリティ"に直面するときがやってくるので、今のうちに自我を取り戻す準備をしておくのがいいんじゃないかと思います。

我々は、野うさぎでも海賊でもアンデットでもなく、人間として生まれて、法治国家で育って、生身の体温を持ってこれからも生きていかなければならない存在であることを思い出してください。


VTuberは今後どうなるか

最後に、コンテンツ産業論としての補足的な説明として、「これからVTuberがどうなっていきそうか」みたいな話をします。

「前編」の動画では、「初動が強いけれど大規模になると弱い」のが日本型コンテンツの特徴であると述べました。

「ではVTuberはどうか」ですが、「実存」に強く規定されるVTuberは、属人的かつ小規模に留まりやすく、「マンガ」などと同じように日本のコンテンツ産業に特徴的なものであり続ける……というのがひとつの考え方です。

一方で、アイドル産業のグローバル展開に成功したのがKPOPであるように、ローカライズを意識して海外向けにプッシュしていく段階になると、日本企業ではなく海外企業がシェアを取るようになっていく可能性もないとは言い切れないと思います。

「前編」の動画では、日本型コンテンツがその性質上、技術や専門性の積み上げが評価されにくいことも述べました。

それは「VTuber」においても顕著で、現状のVTuber産業自体、「Live2D」といった「省力化」と、「配信文化との融合(メディアミックス)」のような横展開によって大きくなりました。

例えば、現在のVTuberの多くにおける「3Dモデル」は、人気が出てからもらえる記念やご褒美のような位置づけで、「3D」といったよりハイテクな形態になったからといって、それが理由で人気が増えるということも起こりにくいです。

アバターのハイスペック化や、歌や踊りなどの上達や、VTuberという形でしかできない高度な表現・演出などは、もちろん目を惹くための強い武器にはなります。

ただ、技術や専門性を洗練させていったときに、そのような積み上げ自体が評価される場を築きにくいというのが、「前編」の動画で説明してきた日本型コンテンツの特徴です。

もちろん、これまで不得意な傾向があったからといって今後もできないというわけではなく、「グローバル展開」にしても「専門性の積み上げ」にしても、これからそれに挑戦しようとする人たちや企業にケチをつけたいわけでありません。

ここではあくまで、日本のコンテンツ産業の構造的な性質上、小規模で横断的なものが強みになりやすいことを説明してきた、という形になります。

VTuberは、業界が大きく盛り上がりを見せていて、すでに競争が非常に激しいものになっていると思います。

ノウハウが充実して参入しやすくなる代わりに先行者利益もなくなっていくのはどの業界でも同じですが、VTuberの場合は、認知が広がりスティグマがなくなったことで、「かわいそうな女性だから弱者男性ウケする」という形の恩恵も薄くなってきています。

さらに、女性VTuberの競争は、ある種「若さと美しさ」というステータスがカンストした状態から始まり、逆説的に女性性のアドバンテージがまったくないような戦いになっていて、過酷さに耐えかねて徹底するVTuberもこれから増えていくだろうと思います。

一方、VTuber業界全体として見ると、テレビなどのメディアへの出演も増えていて、活躍の幅はこれからますます広がっていくことが見込まれます。

今後起こりうる業界の懸念として、VTuberの中の人(演者の人)は代替不可能、みたいな問題にも、より深刻に直面することになるかもしれません。

VTuberは年齢などを公開しているわけではないですが、活動年数が嵩んでくると「さすがにもういい齢だろうな……」という雰囲気にはなっていくと思います。

もっとも、若さを失うことがVTuberにとって必ずしも不利に働くとは限りません。

この動画で説明してきたように、女性の弱者性がプラスに反転するのがVTuberの強みであり、「もう若くない」といった一般にマイナスになりやすい要素も、ガチ恋弱者男性には肯定的に評価されることがあります。

つまり、「アバターのビジュアルが若く美しいままである」ことと、「若さを失ったという女性の弱者性が肯定的に評価されやすい」という二重の意味において、女性VTuberは加齢がディズアドバンテージになりにくいと考えることができます。

「若さと美しさ」を超越した後の競争であるVTuberは、より実力と経験が反映されやすい世界であり、例えば、習得すべき技術が多岐にわたる総合格闘家の全盛期が30代になりやすいのと同じように、トーク、ゲーム、歌唱、インターネット理解、弱者男性へのやさしさなどの総合力が求められるインターネットおもしろ女の全盛期もまた30代になりやすいと考えられます。

しかし、であるがゆえの問題も生じます。

この動画では先に、「VTuberという強力なビジネスの形式」が、「相対的上位ではない女性を好きになる余地」のような、これまでは市場競争に含まれなかったものを競争に巻き込むからこそブレイクスルーだったことを説明してきました。

この、過剰な競争に巻き込まれてしまう(巻き込んでしまう)ことに関して、VTuberの視聴者側だけではなく、VTuberの演者側も同様の問題に直面しています。

生身の若さや美しさを武器にしている女性は、自らの性的価値に陰りが見えてきたあたりで、誰かと結婚したり出産したりして、市場競争から撤退しようとすることが多いです。

一方でVTuberの場合、そうやって生身のタレントが市場から撤退しだすようなタイミングで、インターネットおもしろ女としての全盛期が来やすくなります。

このような事情は、VTuberの演者自身のライフイベントに関しても、より難しい選択を迫りやすいものと言えます。

ちなみに、VTuberのファンは、一部のヤバい人が注目されて揶揄されることはよくあるものの、大部分を占めるのは、基本的には大人しく良心的な人たちです。

推しのVTuberが結婚発表みたいなことをしても、発狂してこれまで買ったグッズをメルカリに出すような人はごく一部で、祝福や応援のコメントをするファンが多数派だと思います。

というより、何ならガチ恋弱者男性でさえその多くは、少なくとも理屈の上では、推しのVTuberに裏でうまいことやっていてほしいと思っています。

「理屈の上では」というのは、例えば、こういう仮定で説明します。

あるVTuberは、「スパチャやグッズなどで支援してもらっているのに、ファンのみんなに悪いから」という理由で彼氏などを作らずに、婚期を逃してしまいました。一方、「ファンのみんなに悪い」なんてことが一切頭に過ぎらないようなVTuberは、活動中にも普通に婚活や結婚などをして、結果的にうまいことやりました。

となった場合、規範を持つ人間が不幸になり、規範を持たない人間ほど得をすることになりますが、そういう世界であってほしくはないわけで、このような理屈においては、ファンの多くは、推しのライフイベントを応援してもいると思います。

しかしながら、これが市場競争の過酷なところなのですが、じゃあいざそうやって結婚や出産などを発表した女性VTuberが、かつてと同じだけの数字を維持できるかというと、おそらくそうならない場合が多いです。

ファンの多くが理性的な部分では推しの幸福を願っていたとしても、この動画で説明してきたようにVTuberは、「儲からないとわかっていても金がかかっているからパチンコが楽しい」のと同様に、「付き合えないことがわかっていても疑似恋愛的な部分に楽しさや面白さを頼っている」ので、私生活が充実しているような女性は、長期的には弱者男性の支持(つまりVTuberとしてのコンテンツ力)を失っていきやすいだろうと思います。

なお、VTuberにおいては「マイナスがプラスに反転する」ので、過去の異性関係で炎上したとか、離婚してバツがついたとかであっても、その弱者性も肯定的に評価されることがないわけではないのですが、ただ、「現時点でパートナーがいて幸せです!」みたいな場合は厳しいと思います。

もちろん単純にリソースの問題を考えても、出産や育児は、多くの時間や労力をそこに持っていかれるものなので、野心と才能のある人たちが凌ぎを削って視聴者を奪い合っている中、VTuberの活動と子育てのようなことをちゃんと両立するのは難しくなりやすいです。

ゆえに、VTuberの熱心な視聴者の多くが末代であるのと同じように、VTuberの熱心な演者もまたそこに引きずられてしまいやすい関係があると言えます。

それはそれで、メルエムとコムギのような美しさがあるのかもしれませんが、ただ、あくまで当チャンネルの枠組みにおいて、大枠ではそういうものをあまり肯定的には見ていません。

この動画では、女性VTuberの弱者男性ウケというテーマゆえに、ホロライブの例を多く出すことになりましたが、ホロライブという企業やガチ恋VTuberビジネスという業態を否定したいわけではなく、それらを規定している「市場競争(ビジネス)」のルールという前提そのものを疑問視しています。

ホロライブ批判をしたいのではなくて、「オタ活」とか「推し活」みたいな消費が煽られる風潮自体を別に良いものと思っているわけではなく、「ビジネスとしてうまくやることそのもの(営利行為そのもの)」を警戒している前提が、大枠としてあります。

この動画で説明してきたように、VTuberは現在の日本のコンテンツビジネスの華であり、素晴らしい部分を多く持っていると見ていますが、「それが盛り上がれば盛り上がるほど社会が良くなっていく」といったような考え方はしていないということです。

そのため、「視聴者側」に対しては、推しに貢献みたいなことを考える都合の良い消費者になるのではなく、スパチャやグッズに金を使うなら貯金でもしておくべきで、もし可能ならばリアルな彼女などを作ったほうがいい、となるし、「演者側」に対しても、「ファンのみんなに悪いから」とか考えずに結婚などをできるチャンスがあるならしたほうがいい、という考え方になります。

もちろん個人の選択にどうこう言いたいわけではなく、前提となる問題意識として、市場のルールが出生や共同体の維持などと相反すると考えていて、現状はそれが行き過ぎている社会だと見なしているということです。

ただ、市場競争の重要性を否定しているのかというとそういうわけでもなくて、その行き過ぎを問題視しているという感じで、これについては、概要欄にリンクを貼っておくので、当チャンネルの他の動画などを見てもらえたらと思います。

今回の動画は他の動画とは違い、もとになる文章などもなくゼロベースで作ったものであり、普段に増して偏見や雑な部分が多めになっていると思いますが、納得できないところや批判したいところなどがあれば、最低限のマナーを守った上でコメント欄に書くなどしていただければと思います。ではまた。


まとめ(マイナスがプラスに反転する)

  • 現在の女性VTuberは、単純な足し算では説明できない人気の出方をしている。その理由として、VTuberにおいて、「マイナスよりもプラスが大きく上回っている」のではなく、「マイナスが反転してプラスに変換されている」と考える。

  • 生殖によって失うリソースが少なく、多くの相手と行為をするほど子孫を残しやすい男性にとっては、「弱い女性を好ましく思う」ことが適応的だった。ゆえに、「女性の弱者性」は、「自分でもイケるかもしれない」という形で男性から肯定的に評価されやすくなる。

  • この動画では、「女性の弱者性」を「肯定的な評価」に繋げてしまいやすい男性を、便宜的に「弱者男性」と呼ぶことにしている。

  • 女性VTuberは、弱者男性に好まれやすい形の「女性の弱者性」を提示しやすい形式である。

  • 女性VTuberが、「キャラクターのガワを使って性的魅力を詐称する」「ロールプレイという言い訳を利用して搾取的な活動をする」といった、一般的な価値基準において軽蔑されやすいやり方であるからこそ、「かわいそうな女性(自分にも手が届きそうな女性)」と思いやすく、そのような「VTuberであるという女性の弱者性」が、弱者男性によって肯定的に評価されている。

  • 女性VTuberの弱者性が肯定的に評価されるのは、「オタク」「アイドル」「インターネット」など、弱者性を肯定してきた既存の産業とメディアミックスされたものであることも大きい。「キャラクターのガワを被ってアイドルっぽいふるまいをするネット配信者」である女性VTuberにおいて、弱者救済的な力場がより強められ、それがコンテンツを享受する弱者男性にとってやさしいものであると同時に、コンテンツを提供する側の女性に付随する欠点(弱者性)も肯定的に評価されやすくなる。

  • 「欠点」によって「キャラ立ち」させるというのは日本型コンテンツが昔からやってきたことだが、VTuberはそれを実存に取り入れている。「キャラクター的な実存(戯画化された弱者性)」を提示することで、コンテンツの魅力を増すとともに、マイナスをプラスに変換しやすくしている。

  • 「キャラ」と「実存」のミックスであるVTuberにおいて、「あくまでもキャラクターのロールプレイである」という「盾」があることで、よりインパクトの強い女性の自己開示(攻め)が可能になっていて、それは「攻守」において強い効果を発揮する。その上でマイナスがプラスに変換されやすくなるのは非常に強力であり、「実存」を重視するやり方は、現代の女性VTuberのデファクトスタンダードになっている。


まとめ(強力なコンテンツビジネス)

  • VTuberにおいて、自分がVTuberと付き合えると本気で考えているファンは決して多くはないが、一方で、「ガチ恋弱者男性ウケ(恋愛感情)」が必要ないわけではない。

  • コンテンツとしてのパチンコの面白さが「金を賭けていること」に頼っているのと同様に、VTuberの面白さは「疑似恋愛であること(中の人の実存が志向されていること)」に頼っている。

  • ソーシャルゲームが、「ネット上のアイテムに課金する人が多くいる」ことがだんだんわかってきて当たり前になっていったように、女性VTuberも、「インターネット女にガチ恋する人が多くいる」ことがだんだんわかってきて当たり前になっていった。

  • 「弱者男性ウケにより女性のマイナス要素がプラスに反転する」というのは、想定しないバグのような挙動だったが、それで数字を得やすくなるなら、多くのVTuberが「実存」を出して疑似恋愛的なやり方を重視するようになっていく。また、視聴者のほうでも、「女性VTuberならば弱者男性にやさしい」と期待するようになり、その通念・常識から外れた女性VTuberはよく思われにくくなる。

  • 「弱者男性ウケ」の強みは収益性が高いことであり、大衆人気を狙う上でも初動の人気と収益は不可欠なので、女性VTuberとして数字を意識して活動していくならば、「弱者男性ウケ」は無視できないものになる。


まとめ(VTuberという「やさしい世界」)

  • 日本型コンテンツの強みはメディアミックスであり(前編で説明)、現在において最もメディアミックス的なコンテンツが「VTuber」。

  • VTuberにおいて、コンテンツとしてふるまう演者が消費・制作をするというような入れ子構造

  • により、何重にも反響するようにしてメディアミックスのシナジーが発揮されるようになっている。

  • 低層でぐるぐるして厚みを増していく(消費者と創作物との距離が近い)のが日本型コンテンツの特徴であり(前編で説明)、様々な関連ジャンルを盛り上がらせているVTuberにおいて、「実存」に対する「情動」を起点にして文化が興っている。

  • VTuber的なメディアミックスにおいて、演者の歴史性がコンテンツに接続されることで「共有・追体験」的なメディアミックスが起こりやすくなっているが、そのつなぎ目である演者の「実存」が志向されやすくなり、さらにそれが「情動」とも組み合わさることで、強い訴求力を持つようになっている。

  • VTuberは、「弱者男性ウケ(恋愛感情)」を利用する「コンテンツビジネスとしての強い形式」であるがゆえに、評価されにくい(下に見られやすい)部分があるが、であるからこそ、「弱者性の肯定・許容(やさしい世界)」という美徳を持つようにもなった。

  • 「ガワを被って美少女のふりをして弱者男性ウケを狙うインターネット女」と「そんなものにガチ恋をしてしまう視聴者」という双方向的なバカバカしさを土台にして、互いの現実的なところには目をつむる、弱者救済的で居心地の良い空間(やさしい世界)が生まれやすくなっている。


まとめ(現実に向き合うこと・痛みをやわらげてくれるもの)

  • VTuberビジネスにおいて、もともと市場競争(ビジネス)に含まれなかったものまでもが競争に巻き込まれるようになっている。

  • 客観的・相対的な基準であれば高く評価されない女性の弱者性を好ましく思う余地(インターネットおもしろ女のガチ恋になる心の働き)は、本来であれば市場競争に対する防壁になるはずのものだったが、それを市場競争に回収していくという形のブレイクスルーを起こしたのがガチ恋弱者男性ウケを狙うVTuberビジネスである。

  • VTuberは主に「原因」ではなく「結果」だが、ここまで産業が盛り上がっていれば、これから「原因」になる可能性も否定できない。

  • VTuberは「弱者性の肯定・許容」という美徳を持つ一方で、「諦めさせるビジネス」として洗練されたものになってきていて、それにハマることの問題は、少しずつ自分の状況を良くしていくための行動(期待値の高い行動)をしにくくなってしまうこと。

  • VTuberを否定して現実に向き合おうとするとき、「相手を下に見ようとする」のは逆効果で、むしろガチ恋に近い場所に行ってしまう。VTuberを下に見ているような人たちをもガチ恋ファンとして回収していく(マイナスをプラスに変換する)のがVTuberという形式の強さであり、その意味で「ガチ恋」と「アンチ」はシームレスな側面がある。

  • 「現実に向き合う(自我を持つ)」ためには、VTuberを「低く見る」のではなく、「手が届かないゆえに狙うべきものではないこと」を認めた上で、現実的な努力を継続する必要がある。

  • 一方で、VTuberを「痛みをやわらげてくれるもの」と考えるなら、多くの優れた点を備えている。

  • 我々が進化的に獲得してきた「不安に思う心の働き」は、それが自身の解決不可能な問題に向かうことで痛み・苦しみが生まれてしまうが、その矢印をVTuberに向けることで痛みが紛れやすくなり、その点においては「VTuberの心配をする(杞憂する)」ことにも合理性がある。

  • VTuberにおける「あくまでもロールプレイである」という「曖昧さ・言い訳・やさしい世界」は、視聴者側が「心配しやすい(杞憂しやすい)」コンテンツの提供を行いやすくしている。


まとめ(潤羽るしあ)

  • VTuberが「キャラ」に「実存」を注ぎ込むものであることを考えれば、タレントと企業との信頼関係が破綻したとき、キャラのIPを握っている企業側がVTuberの存在を抹消するのは、契約上の正当性があったとしても、道義的な正当性は疑問視される余地がある。

  • VTuberは、愛憎を扱うゆえに演者の心理的負担が大きくなりやすいが、しかしそれは、「健全なキャラクタービジネス」であるとしたい企業側の事情により認められにくく、「ガチ恋ビジネス」であることを企業側が認めないのであれば、そのためのサポートも不十分になりやすい。

  • 一方で、VTuberとして成功するような強者たちをマネジメントする企業側の事情を考えるならば、問題を起こしたタレントに厳しく対処し、統制を強めることでイニシアチブを取ろうとするのは、おかしなこととまでは言えない。

  • ビジネスの論理として、「道義的には疑問視されるような冷徹な判断ができるからこそ営利企業として高く評価される」という側面もある。

  • 一方、ある部分では営利的な目的のためにタレントを切り捨てた企業側に対して、「マナーの良い消費者」として態度でそのやり方を肯定し、企業側に対する好感度が維持され続ける弱者男性の「自我のなさ」を、この動画では問題視している。


まとめ(VTuberは今後どうなるか?)

  • 日本型コンテンツ(初動が強いけれど大規模になると弱い)の特徴に強く紐づいているVTuberは、「マンガ」などと同じように属人的かつ小規模な日本のコンテンツ産業に特徴的なものであり続けるだろうと考えられるが、一方で、グローバル展開が重視されるフェイズになると海外の事業に遅れを取る可能性も考えられる。

  • VTuberは、すでに競争が非常に過酷になっていて、認知が広がりスティグマがなくなったことで、「かわいそうな女性だから弱者男性ウケする(マイナスがプラスに反転する)」という形の恩恵も弱まりつつある。

  • VTuberにおいて、中の人は代替不可能だが、「アバターのビジュアルが若く美しいままである」ことと、「若さを失ったという女性の弱者性が肯定的に評価されやすい」という二重の意味において、加齢がディスアドバンテージにはなりにくい。

  • ビジュアルではなくスキルや経験が重要になる女性VTuber(インターネットおもしろ女)は、全盛期が30代になりやすい。ただそれは、生身の女性が競争から撤退するタイミングで魅力のピークがやってくることを意味し、そのような事情は当人のライフイベントに関しても難しい選択を迫りやすい。

  • ガチ恋弱者男性の多くも、理屈の上では推しのライフイベントを応援してはいるものの、一方で「市場のルール(ビジネス)」においては、どうしても女性の結婚や育児は不利に働きやすい。

  • ガチ恋VTuberビジネスを批判したいわけではなく、当チャンネルでは、前提となる枠組みとして、「市場のルール」と「共同体の維持」が相反すると考えている。


今回の内容は以上になります。

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