時間的な終わりと価値

時間的に終わりのあるものに人は悲しさを感じます。散り行く桜や消えていく花火、音楽が終わった直後の静寂、映画が終わった後の暗闇などに終わりを感じます

宇宙について学ぶと、億単位よりさらに長い時間がこれまでに存在しまた、これからも存在するであろうことを知ります。そして今のところ人の寿命は長くてもせいぜい100年前後です。

昔、100年カレンダーという100年先の日付まで書いたカレンダーが売りに出されると面白くて、毎年買い替えなくてもいいということでたいそう売れたそうです。ところが、それからカレンダーを買った人が自殺してしまうという事件が次々とおきたそうです。そのカレンダーを見ているとその先の日付まで自分が生きていることはないだろうと考えると人は絶望してしまい自殺に至るのではないかといわれました。

ここで時間について「今」という観測者が時間とともに流れていくとすると確かに未来の200年後に自分は多分存在しないでしょう。ところが200年前に自分が存在したという事実を見てみると、一つ一つの時間と空間を切り取った場合、昨日のことはいつまで経っても、昨日のことなのです。つまり昨日在ったこと、たとえば誰かが喧嘩したとか、生まれたとか、眠ったとかそういうことは、明日になっても変わらないし、あさってになっても来年になっても変わりません。1億年後になっても1億年前に起こった出来事は変わらないのです。

そういった意味で過ぎていく時間とは体感的には一瞬であっても、存在自体は永遠ともいえると思えるのです。

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