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Hip Hop Hooray

表題はノーティ・バイ・ネイチャーの名曲のタイトルであるが、最近テレビで呂布カルマを見かけることが多くなり、当然ながら長らくヒップホップを愛聴してきた私にとっても、先の呂布カルマやR-指定を音楽番組以外で見かけると何となくヒップホップも世間一般の中でここまで押しあがってきたのかと思ったりする。

海外では昔からラッパーがテレビ番組に出ることは珍しいことではない、と国産ヒップホップの第一人者であるZEEBRAや練マザファッカーでお馴染みのD.Oが発言していたが、所謂「セルアウト」という言葉に翻弄され、メディアに露出することが嫌われてきた歴史がある。そもそも日本のヒップホップはどうしても元々80年代インディーズカルチャーの類から派生した系譜だったため、アンダーグラウンドに固執した考え方というのが主流だったのだろう。

私自身、ヒップホップの入りは完全にパンク/ハードコアからの系譜で、とにかくTHA BLUE HERBからの影響が大きかった。遡ること2000年代前半、偶然手に取ったSLANGのKO主宰のレーベルコンピの冒頭シャウトがBOSS THE MCだったことで、私にとっての長い物語がスタートする。
そもそもパンクやハードコア界隈においてもローカリズムというか、所謂NxCxHxC的なノリがあったのだが、それはヒップホップに関して言えば更に濃ゆい程リプリゼント、要するにレペゼン感が凄まじく、それをTBHからかなり受け取ることが出来た。
その少し前にリリースされていた「Rap Warz Donpachi」というコンピにはTBHのみならず、当地圏内が誇るラッパーCUZ-SICKや当時から名を馳せていた熊本の餓鬼レンジャー、そして名古屋の猛者であるM.O.S.A.Dの面々なども参加しており、それぞれの土地柄を表したかのように個性的で、それがまた魅力的だった。

当時出版されていた「blast」誌なんかでは「THA BLUE HERBといえばファーストアルバム!」的な評価だった気がしたが、個人的には断然リアルタイムで聴いたセカンドの「sell our soul」だった。そこからの「未来は俺らの手の中」のepについては、ある意味その後の私の音楽的な趣向を決定付けたものに違いない。寧ろ私のようにロックからTBHを聴いてヒップホップに没頭した人はおそらく少なくはないと思う。それこそTBHからの影響を解散ライブで公言していたナンバーガールの末期も、だいぶTBHからの影響が強いと当時思った記憶がある。
その1stがリリースされたのは少し自分より上の世代がドンズバだったと思うので、私は所謂「さんぴんキャンプ」や「LBまつり」の後発の、2000年代前半のあのシーンこそがストライクな世代だった。
その時代の国産ヒップホップこそアンダーグラウンドの奥深い場所に蹲っていて、最終的には元々ヒップホップの根底にあるメイクマネー的な拝金主義が勝る結果になった気がしたが、ストリーミング配信などがない時代に各々がレーベルを立ち上げて自主制作で作品をリリースし、一種のムーブメントを形成していた。

今でこそ温和なイメージが定着したが、当時のシーンの中心人物だった漢 a.k.a GAMI率いるMSCの初期(帝都崩壊、MATADOR、宿の斜塔あたり)の空気感こそ当時を象徴していた。代表的なところでいくと、北に行けば先のTBHやMJPが居て、最寄りには降神とSDPとSCARSなど、西に行けばIFK周辺、南に行けばILL SLANG BLOW'KER周りなど、現在ベテランとしての立ち位置にいる人たちが当時メインストリームからかけ離れた場所でギラギラしていた。この辺りのシーンに関する記述はおそらくネット上にも沢山あって、書ききれない程良質なラッパーやクルーが存在していたのだが、詳しい内容についてはそちらを漁った方が確実だと思う。個人的には福岡のRAMB CAMPが渋くて好きだった。
この時代に頭角を表したラッパー達のリリックはそれまでのシーンの流れとは一線を画したというか、文学的なものが多かった。先のTBHやShing02といった部類からの流れだとは思うが、とにかく深く言葉に重みのある曲が多かった。

そしてこの頃はまだレコード屋が元気な時代で、MSCの盟友であるDJ BAKUのようなメインストリームとは若干かけ離れた音作りをするトラックメイカーも多く活動し、事あるごとにヴァイナルカットをしていた。今の時代はそこまで経費をかけずに配信などでリリースが出来るが、当時はそんな便利なものがなかったので、CDやレコードのような媒体を売ることが主流だった。CDもさることながらレコードを刷る費用についてはなかなか根気のいる金額なのだが、それに意味や意義があったからこそレコードでリリースしていたのだろう。この辺の拘りはTBHの曲なんかでも歌われている節もあり、ある意味当時のシーンの人達には命を削って作品を産み落としていたかのようなアツさがあった。
元々は先のTBHやDJ KRUSHのような「アブストラクト」的なものがルーツだと思うのだが、所謂CISCOでいうところのHEADZ欄で取り扱っていた部類というか、当時界隈で流行っていたAnticon周辺やPrefuse 73のようなジャンルだろう。
今でこそブーンバップやローファイなどといった特殊表現が一般化したが、当時はそんな言い回しは無く、ド直球にアングラの音はアングラの音だった。当時のメインストリームの音はネプチューンズの台頭による打ち込みのトラックやカニエのソウル早巻きみたいなのが席巻していて、更にダンスボールレゲエのブームも相まって、ヒップホップのパーティは概ねが絵に描いたようなイベントが多かった。場所は忘れたが、50セントの同じ曲が同じパーティで5〜6回流れたりしていたのを覚えている。
しかしアングラ界隈のパーティはだいたいの客が暗い色のパーカーを着てフードを深く被ってはアッパーとは程遠いストーナーミュージックに首を縦に静かに揺らすような感じの奴らばっかりで、煌びやかな女の子はまあまあ居なかった。

そんな異様な光景の中で当時の私はその輪の中で首を振り、自分の中でグッときた曲をプレイしてるDJの人に話しかけて情報を得てはレコード屋のオンラインショップを漁るまさにHEADZな日々を過ごしていた。そもそもヒップホップの基礎的な部分から入門したわけではなかったので、90年代のUSクラシックは正直現場とミックスCDなんかで覚えていったのだが、先のHEADZ系トラックとの繋がりが非常に相性が良かった気がしている。基本的に当時はそこまでDTMという文化が今のように浸透していなかったため、音作りも今のように多様ではなかったし、トラック制作の主流は完全にMPCだった。限られた資源で良質なものを制作するというのは、まさにLo-fiの原点のようなものだろう。また、今のようにビートの売り買いみたいな文化は気軽ではなかったし、今ほど隣近所の人がトラック制作してるような時代ではなかった。だからこそ洗練された良曲が多くリリースされたのではないかと思う。

当時は今ほどSNSが普及していなかったが、mixiやmyspaceが普及すると、ヒップホップだけでなく大なり小なり自称ミュージシャンみたいなのが増えていって、その中に私自身も属することになるのだが、今はそのレベルをはるかに超えてしまった。SNSの発展やビートメイクに特化したアプリのお陰でもっと気軽にミュージシャンを自称出来る時代となった。オーバーグラウンドやアンダーグラウンドみたいな言い回しももはや遺物みたいなものになり、Dragon Ashとラッパ我リヤが20年以上前に言ってたように、どうやらいろんな壁が無くなってしまったようだ。逆に昔よりチャンスの幅が拡がったのも事実である。

話がかなり飛んでしまったが、そんな呂布カルマやR-指定も色々過程を踏んでたどり着いたって話をTBHのBOSSも曲の節で言ってたように、彼らと同世代で当時のシーンの沼にどハマりしていた私的には、まるで「幽遊白書」の魔界統一トーナメント終了後に人間界に魔界の魔族や妖怪が進出し共存していった風景をいつも連想してしまうのだった。

なんとなく昔話を綴るのが面白くなってきた上に、確実にまだまだ長くなると思うので、暇があったら続く。そしてあくまでも個人的な主観であることをお忘れなく。

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