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長編小説「盆踊りの夜に」

 夏の夜更けの一人暮らしの部屋の中に、太鼓の音がひびきわたる。
 その音は、エアコンの吹き出し口から漏れ聞こえていた。私はベッドの壁際に頭をよせて耳をすまし、音をできる限り聞きとろうとする。太鼓はリズミカルに叩かれ、鈴が鳴り、それから人々の賑やかな歌声も聞こえてくる。それは、子供の頃に実家の近くの公園で行われた、盆踊りの歌だった。
 八月の第三週が近づくにつれて、太鼓の音は不思議なことに、夜になるたび必ず聞こえてきた。最初は微かな音だったが、日を増しておおきくなり、その活気と音楽は部屋中を満たすようになった。私は毎晩祭りの音に耳を傾けながら、机の上に置いた写真を眺めた。
 写真には、六年前に亡くなった母が映っている。
 母は淡い紫色の浴衣を着て、紅を塗った口元をきゅっと持ち上げ、カメラにむかって微笑んでいる。遺影のために切り取る前は、両隣に幼い頃の私と妹の裕子もいた。母は膝を曲げて顔の高さを合わせ、私たちの肩に腕を回して抱き寄せている。母の額にはわずかに汗がにじみ、頬は火照って赤らんでいる。しかし、母がどこを見ているのかわからない。カメラを見ているはずなのに、母の視線は私の頭上を越えているように見えた。
 母が亡くなったとき、遺品の中にこの浴衣があっただろうかと、振り返る。しかし、私が思い出す限り、妹と二人で譲り受けた形見の中に浴衣はなかったと思う。母はなんでも大事なものを、他の人には簡単に探せない奥底にしまうことが多かったから、家の中を念入りに探してみれば、この浴衣も出てくるのかもしれない。
 私はひさしぶりに太鼓の音を聞いて、毎晩それが消えないように祈りながら耳をすませた。

 母が亡くなった原因は、末期の肺癌だった。
 他の家族には毎年必ず受けさせる健康診断を、自分は健康だからと何年も断っていたせいで、母が体の異変に気づいた頃になると、癌はもう手遅れの状態だった。レントゲンに映る腫瘍は、母の胸のちょうど真ん中辺りに根付き、八センチほどに広がっていた。当時、私は大学を休学して実家に帰り、父と妹の三人で病院に交代で付き添ったが、入院生活が十ヶ月目に入る頃、母は病室で静かに息を引き取った。
 母が亡くなった後、私はどこにいても母のことを思い出した。実家の中は母が暮らしていた頃から変わらず、台所の引き出しには母が買いだめしたキッチンペーパーや、顆粒スティックが入っていたし、洗面所には使われていない母の電動歯ブラシの替えも残っていた。実家はどこも母を思い出させるものに溢れていて、まるで今にも母が帰ってきて元通りの暮らしに戻るのではないかと思うほどだった。
 私は次第に耐えられなくなり、実家を出ることにした。まだ数ヶ月の猶予が残されているにも関わらず、私は急いで復学届を出し、裕子の早すぎるという反対を押し切って、東京のアパートに戻った。
 大学を卒業した後も、私は故郷の町に帰らなかった。
 就職活動の末、家電メーカーの一般職について働き始めた。入社当初から事務をしていたが、去年の末に広報部へ異動し、家庭向けに配る冊子を製作するチームに配属された。私は、毎日顧客から寄せられる手紙とメールを読んで、印象の良い感想をピックアップして記事にする。私に任される仕事は決しておおきくなかったが、仕事の量は多く、先輩が退職すると盆であれ正月であれ、実家に帰省することも難しくなった。
 私が実家に帰らないことと反対に、四歳年下の妹の裕子は、故郷の町に残り続けた。裕子は近所の短大を出た後、長年交際していた中学校の同級生と結婚し、昨年の末に女の子を産んだ。父の会社の経理を一時期手伝っていたようだが、今は育児に専念している。裕子は実家に近いマンションを買い、一人暮らしをする父の様子を見るため、週に一回通ってくれていた。
 私も、さすがに裕子に家を任せっきりで悪いと思ったし、何度か帰省しようと思ったことはあったけど、タイミングを逃しているうちに、母の七回忌を迎える時期になってしまった。

 会社が夏期休暇に入った十日、私はボストンバッグに着替えをまとめ、満員の新幹線に乗った。背の高い建物ばかりが密集する都心を離れるにつれて、窓から見える空が少しずつ広くなり、いくつかの都市を越えて本州を抜ける頃には、黒々とした波が寄せる日本海も目に入る。
 私の故郷は、日本海に面したちいさな町にある。
 本州から九州に入って最初の駅前は、近所の人々で賑わうデパートが正面に建ち、横から商店街が一本広がり、そこから山に沿って住宅地が坂の上に建ち並んでいる。
 この町は田舎と呼ぶほどなにもないわけではなく、車に乗ってもう少しおおきな駅まで出れば、必要なものは大体揃えることができ、生活をするのに困ることはない。そのせいか、この町で生まれ育った人達の多くがここを出なかった。同級生の大半は裕子のように地元の人と結婚し、どちらかの両親が住む実家の近くに住んでいる。町の外に出たのは、私と、他に数えるほどの数人しかいなかった。
 私の実家は、駅から歩いて十五分ほどの住宅街の中にある。
 二階建ての瓦屋根の家は、ブロック塀で囲ったちいさな庭の木々が、日差しを浴びて鮮やかに茂っていた。背の高い木々の葉先が塀の上に垂れ、雑草がくるぶしを隠すほどに生い茂っている。玄関脇には、母が大事に育てていたミニトマトのプランターが未だに残されていた。以前より数は少なくなったものの、枝の先に今年も赤く熟した丸い実をつけている。庭の隅には、滅多に使わないバケツとホースが砂埃を被って放置され、その横に籠つきの自転車が一台止まっていた。
「ただいま」
 玄関の重たい扉を引いて、簾をかきわけると、玄関から台所と居間に続く廊下がまっすぐに見渡せた。突き当たりの扉の隙間に、裕子が慌ただしく動き回る姿が横切る。
「おかえりなさい、遅かったねぇ」
 私の声に気がついて、妹の裕子が台所から顔をだした。裕子は八ヶ月になる娘の実香を背負いながら、ちょうど洗い物をしていたところだった。裕子は短い髪を後ろできつく縛り、部屋の電気を点けていないせいか、瞼の下に暗い影をつくっていた。ひさしぶりの妹の顔は、化粧をしていないせいか、以前よりも少しだけ老けて見えた。
「新幹線が予定より遅れちゃって。タクシーも中々掴まらなくて」
「それは災難だったね。お盆の時期だとあんまり走ってなさそうだもんね」
 裕子は苦笑いを浮かべて、背中に背負う実香をわずかに揺らす。
「実香、眠っているの」
 私は裕子の背で瞼を閉じて親指を口にくわえる、実香を覗きこんだ。
「さっき気持ちよく寝始めたの。でも、まだ完全に寝付いてないから、すぐに起きちゃいそうね」
「写真で見ていたときよりも、随分おおきくなったねぇ」
 実香は、女の子らしい淡いピンク色の肌着を着て、顔をあげたまま眠っている。前髪は汗で濡れて額に貼りつき、指をはさむ唇の端から涎が落ちかけていた。
 私は玄関マットの上に荷物を下ろすと、居間に続く廊下を歩きながら、家の中を見渡した。廊下に飾っていた写真や靴箱の上のガラス細工などの物が少なくなり、以前より広々として見える。
「おかえり」
 後ろを振り返ると、奥の和室から父が出てきたところだった。父は紺色のポロシャツに寝間着のスウェットを履いていて、少し痩せたせいかシャツの首元が開きすぎて、サイズが合っていないみたいだった。短く整えた髪はほとんど白髪に変わり頬も痩けていた。
「ただいま、お父さん」
 父は乾いた洗濯物を入れたカゴを床に置くと、居間にある三人掛けの布張りのソファに座りこむ。扇風機を強に切り替え、テレビのスイッチを入れた。
「美和子は元気そうだな」
「お父さんもね」
「お母さんにも早く挨拶してあげなさい」
 父は和室を一瞬見やると、洗濯カゴからタオルを取り出し、膝の上で器用に畳みながらテレビを見始めた。
 私が和室に入ってみると、そこは以前両親の寝室だったときと比べて、見違えるほど変わっていた。母のお気に入りだった揺り椅子は右隅に置かれ、椅子の上には畳んだバスタオルが重ねられている。横に口を縛ったゴミ袋が寄せられ、中には不要な衣服やタオルが大量に詰められていた。部屋を片付けている最中なのか、天井近くの押し入れの襖が開いている。手前は実香のベビーベッドが占領し、天井から吊したカラフルなモビールがエアコンの風に揺れていた。
 陽当たりの良い壁際には、黒く艶やかな仏壇が置かれていた。
 私は仏壇前の分厚い座布団に座って、蝋燭に火をつける。線香の先がわずかに赤くなり、細長い煙を立て始めた。台の上段には、白と黄の小菊や薄紫の花が連なるスターキスを混ぜた仏花が両脇に飾られ、下には林檎と桃、葡萄などの果物も供えられている。
「お父さん、ちょっとだけ実香を抱っこして」
 裕子は腕に抱いていた実香を下ろし、父に紐ごと手渡した。洗濯物を畳んでいた父は立ち上がり、実香を腕に抱くとソファに座り直した。さっきの紐を簡単に外して、泣きじゃくる実香の鼻を乾いたばかりのタオルで軽く拭ってやった。
「ずいぶん慣れたのね」
 私が思わず呟くと、父は口元をゆるませて笑った。
「お前たちが子供の頃も、母さんが忙しいときは、よくこうやっていたんだ」
 父は実香の背中を叩き、泣き声など耳に入らないみたいに、再びテレビに釘付けになった。実香はしばらくすると落ち着いたのか泣き止み、父の顔にむかって手を伸ばす。父は実香のちいさな手に触れ、膝を動かして体を軽く揺すってやる。子供を上手にあやす父は、私が知っていたときと比べて別人のように優しく思えた。
 子供の頃、父が家にいるときは空気が重く、私はいつも緊張した。
 両親は、自宅から徒歩五分ほどにある貸しビルの一階に、小学生向けの学習塾を開いていた。講師は父を含めて三人だけで、父は毎日夕方から五時間通して算数や理科を子供たちに教えていた。真面目に勉強をする生徒には優しく丁寧に教えていたが、騒がしい男の子は容赦なく外に追い出し、お喋りをする女の子は隅の席に移動させるなど、学校の教師顔負けの厳しさも持っていた。しかし、休み時間には自分の学生時代の話も面白く聞かせることもあり、学校の同級生の中には父のことを慕い、授業前にわざと早く来る男子生徒も多かった。
 一方、母は日中の教室が空いた時間、近所の主婦にむけた英会話教室を開いていた。学生時代、母はイギリスを一人で旅行したことがあり、そのときに苦労して英語を話したことを、毎回もっともらしく話した。生徒のほとんどがイギリスどころか、海外に行ったことのない人たちばかりだったので、母の苦労話にも熱心に耳を傾けた。母は市販のテキストやラジオを教材にし、いつかヨーロッパに行くことを夢見る彼女たちに、中学生レベルの基本的な会話と発音を教えていた。
 父は講師として働きながら、塾の経営も一任するため、毎日授業以外にも忙しそうにしていた。月末の仕事が多くなると、家にいるときまで和室の座卓で電卓を片手に帳簿を睨むこともあった。それが一段落すると、父は居間のソファに身をうずめ、テレビを観ながらお酒をちびちび飲むのが決まりだった。私と裕子が相手をしてもらおうと近寄っても、父の返す言葉は途切れがちで会話は長く続かない。
 私が父のことを怖いと思わなくなったのは、母の通夜のときだった。母の病気が発覚したときも、医師から余命を告げられたときも動じなかったのに、母がいざ亡くなった途端、父は人目をはばからずに涙を流した。涙をハンカチで拭いもせず、シャツに染みをつくり、声を漏らしながらみっともなく泣いた。それから一ヶ月後には、体のどこかに穴が開いて空気が抜けてしまったのかと思うほど、父は一回りも二回りも痩せてちいさくなった。
 ひさしぶりに見る父は、以前よりも白髪が増えて、背中の肩周りの肉もすっかり落ち、歳相応に老いていた。父は居間のソファに以前と同じ姿勢で腰掛けて、片腕に実香を抱き、相変わらずテレビを眺めていた。

 夕方のニュースが始まる頃、玄関のチャイムが鳴った。扉から顔を出したのは父の妹である、春子叔母さんだった。
 叔母さんは涼しげなロングのワンピースに、耳たぶが隠れるほどのパールのイヤリングをつけたよそ行きの格好をして、両手に布包みの荷物を抱いていた。「よっこいせ」とかけ声を入れ、重そうな荷物を裕子に手渡すと、紅を塗った唇を横に伸ばした。
「まあ、美和子。ひさしぶりじゃないの」
 春子叔母さんの華やかすぎる格好は、父の出しっぱなしのサンダルと溜まったビニール傘が寄せられた玄関先で、相変わらず浮いて見えた。春子叔母さんは十五年前に離婚して以来、ずっと一人身のままだった。息子が一人いたけれど、高校を卒業した辺りから彼女に構わなくなり、何年も前に家を出たきり帰らない。それから、春子叔母さんはよそ行きの格好をしてもどこにいくでもなく、こうして自慢の料理を携え、親戚の家を渡り歩いている。
 重箱を開けてみると、味のよく染みた里芋やゴボウの筑前煮、酢豚と春巻き、それに父の好物である野菜の天ぷらが細々と並べられていた。父と裕子は首を伸ばして重箱の中を覗き見る。鞄の中には、他に吸い物を入れた水筒も入っていた。
「慌てて用意しちゃったから、メニューがまちまちになったけど、どれも美味しそうでしょう」
「うわぁ、美味しそう」
 叔母さんが自慢気に並べてみせると、裕子は感嘆の声をあげた。
「こんなに気合い入れることもなかったのに」
「美和子は帰ってきたばっかりだし、夕飯の支度まで裕子ちゃんにさせたら負担になるでしょう」
 父さんの溜め息混じりに呟きに、叔母さんは臆することなく反論した。
 私たちは台所の四人用のダイニングテーブルに腰掛け、ビールを飲みながら、居間の壁際に置いたテレビを眺めた。裕子が夕方に作ったポテトサラダと唐揚げ、それから春子叔母さんが持ち寄った料理がずらりと皿に盛りつけられる。たしかに料理の組み合わせはずれていたけれど、どれも一口食べてみると美味しかった。母のつくる味よりも濃く、定食屋で出てくるような塩気の強い味つけだった。
「新しい仕事は、うまくいっているのか」
 父は並々と注いだビールを一口飲んで、私に尋ねた。
「うん。だいぶ慣れたかな」
「今はどんな仕事しているんだ?」
「広報部で冊子をつくっているの。今まで事務しか経験してないから、先輩から教えてもらって一から覚えているところ」
 私が説明する間、父は「そうか」と頷きながら、ポテトサラダに手を伸ばした。
「東京は一人で暮らすのも大変だろう」
「家賃も物価も高いからね」
 春子叔母さんは春巻きを大口で頬張り、分かったように首を縦にふった。
「お姉ちゃんの仕事って、雑誌をつくっているんでしょう。それって芸能人とかも取材するの?」
 裕子は前のめりになって聞き、「私、一度で良いから会ってみたい人いるんだけど」と続けた。
「それはしないよ。私の担当は雑誌じゃなくて、メーカーから家庭に配布する冊子なの。せいぜい、芸能人モニターの感想が時々あがってくるくらいかな」
「なんだぁ。東京の会社で雑誌つくる仕事してるって聞いたから、てっきり芸能人と会えるのかと思ってた」
 裕子は残念そうに肩を落とすと、腕に抱いた実香の涎だらけの口元をタオルで拭った。私はなにも返答できず、父のほうを見た。父は顔色を変えずに注ぎ足したビールを飲み続け、テレビを見ているばかりで、私たちの会話はなにも気にしていないようだった。
 父が食事の途中でトイレに席を立ったとき、春子叔母さんは隣に座る私の顔をまじまじと見つめ、すかさず耳打ちした。
「ねえ、付き合っている人はいないの?」
 春子叔母さんの温い息が耳にかかってくすぐったく、私はほんの少し後ろに体をずらした。
「今、いないですよ」
「本当? だって美和子、東京で一人暮らしなんでしょう。てっきり好きな人といるから、こっちに帰って来ないのかと思っていたわ」
 春子叔母さんは目を丸くして、春巻きを掴んでいた箸を止めた。
「いやいや。毎日仕事もあるし、新しい業務も覚えている最中だから、まだ忙しくてそれどころじゃないですよ」
「仕事って言ったってねぇ。好きな人の一人くらいできるでしょうよ」
 春子叔母さんは眉をぎゅっとひそめて、裕子と顔を見合わせた。叔母さんの乾いた唇の端に茶色い皮の欠片がついていた。
「お姉ちゃん、恋愛とか興味ないんじゃない?」
「そんなことないよ」
 裕子のからかうような言い方に、私は首をふる。
 たしかに、私も会社に素敵だと思う人がいたことはあったが、特別に親しくなる機会などなく、恋愛まで至らなかった。今の部署は平均年齢も高く、男性社員の多くは既婚者だったから、未婚の男性と知り合う機会は異動後滅多になくなった。私は煮物に箸を伸ばして口にいれる。叔母さんは「だったら、あの子はどう?」と、裕子にむかって思い出したように呟いた。
「商店街にある、赤提灯の居酒屋の息子さん。田村君だったかしら。あの子、美和子の同級生だったでしょう。この前お店に行ったときに聞いたら、まだ独り者だって言っていたわよ」
「田村君って、たしかお店を継いだのよね」
 春子叔母さんの目配せに、裕子も前のめりになって話に加わった。
「そうそう。田村君って優しそうな子だし、仲良くなってみれば良いのに。結婚は一度くらい経験しておくもんよ。こっちに恋人ができて帰ってきたら、お父さんだって大喜びよぉ」
 叔母さんはからかって笑い、ビールを一口飲んだ。
「私はもう一人身でも良いの。お願いだからお節介はやめて」
 廊下の軋む音が聞こえて、私がきつく言い放つと、二人は目を合わせてようやく押し黙った。トイレから帰ってきた父は、今の話題が聞こえていたのか、食卓には戻らずに居間のソファに腰掛け、おもむろにテレビのチャンネルを変えた。
 テレビは、ゴールデンタイムのクイズ番組が始まったところだった。
 叔母さんと裕子は、近所に住む同級生のだれが結婚をしたとか、だれに二人目の子供が産まれたという話を始めた。小学校の同級生の名前が次々と挙がり、この辺りの独身は数えるほどしか残っていないことに気づいた。私もさすがにばつが悪くなって、父と同じように居間のテレビに視線を移した。父は二人の話題には加わらず、テレビを観ながらビールを飲み続けていた。

 春子叔母さんが嵐のようなお喋りを終えて帰った後、裕子は黙りこくった父に気を回してビールをもう一本開け、三人分のグラスを持って居間のテーブルに運んだ。父はソファに座ったまま受け取り、先に私のグラスに注いでくれた。
「家族でお酒飲むことって中々なかったね」
「そうだね。裕子も二十歳をこえたしね」
 私が言うと、裕子はおかしそうに吹き出した。
「やだなぁ。私、もう二十四歳になるからね。でも、お母さんがいたときは、夕飯の後に林檎とか梨とか切ったりして、こうやって居間によく集まっていたよね」
 父は私たちの会話を耳に入れながら、ビールを二口飲んだところで「そういえば」と唐突に呟いて、おもむろにソファから立ち上がると和室に引っこんだ。
 父が和室から持ってきたのは、五冊の写真アルバムだった。
「昨日部屋を片付けていたら、お前たちのアルバムが偶然出てきたんだ」
 五冊のうち二冊は、布地を巻いた立派なもので、表紙にはフェルトのうさぎや犬が縫い付けられ、それぞれ私と裕子の名前が書かれている。他のアルバムは、カメラ屋に現像を出したときに貰える、フィルム付きの安っぽい紙アルバムだった。どれも長くしまわれていたのか埃を被っていて、四隅の角は破れかけていた。
「え、どこにあったの?」
 裕子は驚いて父に尋ねた。
「押し入れの一番上の襖から出てきたんだよ。母さんは、昔から大事なものはなんでも押し入れや引き出しの奥にしまうから、今までまったくわからなかったけど」
 父さんは居間のカーペットの上にアルバムを広げ、私たちの名前の書かれたものをそれぞれに手渡した。表紙の手書きの文字は、いかにも母らしいおおきめの丁寧な字で記されている。インクはうっすらと滲んで、漢字の端が重なりかけている。
「部屋を片付けているの?」
「ああ。最近になって片付け始めたんだ。いつまでも母さんの物を全部置いたままなのも良くないだろう。それに、家の中を少し整理したい気分なんだ。アルバムはお前たちが持っているほうが良いと思うから、渡しておくよ」
 私が尋ねると、父は力なく肩を落として頷いた。母が亡くなって以来、父が部屋を片付けたいと言い出したのは、初めてのことだった。
 アルバムは、近所の産婦人科の病室で母に抱かれる、生まれたばかりの赤ん坊の写真から始まり、実家のベビーベッドで眠る姿、玩具の積み木で遊んで笑う姿など、私たちの成長する過程が時系列順に貼られていた。写真の横には、寝返りができた日、ママとパパを初めて呼んでもらえた日と、母が手書きで簡単なコメントを記している。二人のアルバムは同じようなレイアウトで収められ、裕子の写真には私も度々映っていた。
 三冊目からは、二人のアルバムになっていた。一ページ目には姉妹の七五三の写真が並び、保育園の卒園式、小学校の入学式と卒業式、中学、高校と続き、何冊にもわたっていた。
 写真のほとんどは、私たち姉妹を写したものだったが、そこには時折、母も寄り添っていた。私の顔は母によく似ていて、裕子は黙っていると父とそっくりだった。写真の中の母は、ちょうど今の私と同じ歳くらいに見える。
「お母さん、ずいぶん若いねぇ」
 私がページを捲りながら呟くと、父はアルバムに顔を寄せて覗きこみ、目尻を細めて見入った。
「母さんはな、高校のクラスで一番の美人だったんだ」
「え、うちの母さんが?」
 裕子が驚いて聞き返すと、父は鼻先に指を当てて笑った。
「ああ。それにいつも明るくて、人当たりも良いから、友達から好かれていたよ。体育は苦手だったけど、成績も良かったし、母さんは毎年なにかの委員を任されていたな。俺と結婚してこの町に越してからも、近所の人たちとうまくやっていたろう。あの人はな、どこにいても人と上手に付き合うんだよ」
 父はそう語りながら、写真の中の母をアルバムのフィルム越しに指でなぞった。私と裕子は、父の指の下で屈託なく微笑む、若い頃の母の姿に見入っていた。
 写真の中には、両親の新婚旅行の写真も紛れていた。
 父はこのとき少ない給料から無理をして高価なカメラを買い、ここぞとばかりに母の写真を撮ってくれたのだと、母から以前自慢げに聞かされた覚えがある。母は柄のないコットンのワンピースを着て、つばの広い帽子を被り、まるで昭和の映画に出る女優のように気取っていた。京都の嵐山から出る川下りの船に腰掛け、日差しに眩しそうに目を細めて、反対側に座る父にむかって微笑んでいる。
 アルバムの分厚い紙をめくっていると、裕子はあるページに当たって右手を止めた。
「見て、盆踊りの写真だわ」
 裕子の指さしたページには、毎年盆の初めに行われる、近所の盆踊りの風景が映っていた。
 一枚目は、私と裕子が同じ花柄の色違いの浴衣を着て、和室の壁際に並んで立っている。二枚目以降は、夜の公園で撮ったために全体的に薄暗く、何枚かフラッシュを焚いたものも白く飛んでいたが、それだけでも祭りの賑やかな様子が見てとれた。盆踊りは、この町に住む子供にとって唯一の楽しみだった。
「あのお祭りって、すごく楽しかったなぁ。そういえば、水風船がいつもとれなくて、お姉ちゃんにとってもらっていたっけ」
 裕子は思い出したように呟き、私を見て上機嫌に笑った。
 盆踊りの当日、私は夕方になるとお母さんに浴衣を着せてもらった。町中にひびく太鼓の音を合図に、裕子の手をひいて坂を上がり、私たちは公園の中に入る。公園の中央には櫓が組まれ、そこで男の子が得意げに太鼓を叩き、周りに浴衣姿の人々が集まってくる。夕方から夜にかけて、大人も子供も一緒に盆踊りを踊って騒ぎ立てた。アルバムの写真を見ていると、何十年も見ていないはずの祭りの様子が、まるで昨日の出来事みたいに思い出されてくる。
「あれ、ちょうど明日が盆踊りの日じゃなかった?」
 私は壁にかけたカレンダーを見て、明日が十一日であることに気づいたが、裕子は驚いて首を横に振った。
「盆踊りね、もうやってないのよ」
「え?」
 私が聞き返すと、裕子は目をふせて残念そうに呟いた。
「子供が少なくなったから、町内会は一昨年になくなったの。それに、町内会長の田村君のお父さんが歳をとって、体を悪くしたこともあってね。今だと、あの公園には近所に住む子供が数人くるだけで、私も実香をつれて散歩にいっても、滅多にだれもいないのよ」
 裕子はうつむいて、そばに寄り添う娘の頭をなでた。

 父が風呂に入ると、私は二階にある自分の部屋にむかった。
 二階は、七畳の部屋が二つ並び、その向かいにベランダが一面広がっていた。かつては片方が両親の寝室で、もう片方の部屋が私と裕子の部屋だったが、私が中学にあがる頃、両親の寝室を一階に移し、姉妹の部屋を二つに分けた。私の使っていた部屋の扉を引いてみると、中は段ボール箱が積まれ、古くて使わなくなったテーブルと椅子が壁際に寄せられ、いつの間にか物置になっていた。
 私の部屋の面影をかろうじて留めているのは、部屋の奥にある学習机と、手前のシングルベッド、その向かいに洋服箪笥が置いてあることだけだった。小学校に入学する時、母方の祖父に買ってもらった学習机は、真上に蛍光灯のライトがつけられ、左右に三段の棚を設えた、頑丈なつくりのものだった。机の棚には、私が小学生の頃に読んでいた児童図書や絵本に加えて、学校の教科書と卒業アルバムも並んでいる。私は荷物を机の上に置き、持って帰ってきた着替えを出して箪笥の上にのせると、ベッドに腰を下ろした。
 私は体中の力を一気に抜き、手を伸ばして寝そべってみる。
 視線をあげると、そこには子供の頃毎日眺めた部屋の風景があった。部屋の中は多少変わったけれど、どことなく懐かしい匂いがしていて、目を閉じても自分の部屋だとわかる気がした。
 そのとき、自分の持ってきた荷物が目に入って、私は仕事のことを思い出す。持ち帰ったパソコンを開いて、メールを確認しようと思ったが、どうしても乗り気になれず、伸ばした手を引っこめる。私と交代で出勤になった同僚に、引き継いだ仕事のメモは残してきたが、なにか連絡が来ているかもしれない。仕事のことは多少気になったが、なぜか考える気にならかった。職場からたった数時間しか離れていないにも関わらず、こうして実家に帰ってくると、昨日まであくせく働いていたことが嘘みたいに思えた。
 私は立ち上がって部屋の窓を開け、錆び付いた網戸を引いた。
 目の前には、昔この部屋から見ていた住宅街が広がっている。その風景は、私の記憶とおおむね変わらない。通りを挟んだ向かいの一軒家は、相変わらず日が暮れても洗濯物を干したままで、斜め左の古いアパートは通路脇の雑草がブロック塀を覆うほど高くなっている。小学生の頃に遊んだ同級生たちが住んでいた家も、あちらにも、こちらにも残っている。しかし、坂の途中にあったはずの長屋の家がなくなり、新築の二階建ての家が建ち、公園の下には小ぎれいなアパートが何件か並ぶなど、見慣れない建物も増えて、古い建物の中にはカーテンすらついていない、空き部屋も多かった。
 それでも、六年ぶりに見る故郷の町は、私が家を出たときと比べて、ほとんど変わらないように思えた。夜になる前の空の濁り方も、住宅街の灯りの漏れ方も、肝心なところは同じだった。最も変わったのは、どこを見渡しても母の姿がないことだった。
 夜が更けた頃、私は窓の外から物音が聞こえることに気がついた。耳をそばだててみると、太鼓の音だった。その音に重なって、鈴と、甲高い歌声も聞こえてくる。それは、毎晩一人暮らしの部屋の中で聞こえていたのと同じ、盆踊りの曲だった。私は思わず部屋から出て、玄関の扉を開けると、裕子のビーチサンダルを突っかけて家を出た。
 太鼓の音のする方向を探して、私は表の通りを歩いてみた。二つ目の角を曲がって、小学校まで続くゆるい坂を登る。周りの住民は早々に眠っているのか、窓の明かりはどこも消えていて、人影も見えない。私は坂沿いの街灯を頼りに進みながら、太鼓の音に耳をすませる。
 そのとき、私の隣を子供の影がふいに横切った。
 顔をあげると、私の腰辺りほどしかない、低い背丈の女の子が立っていた。彼女は坂の途中で足を止め、私の視線に気づいて振り返る。薄い桃色の浴衣を着て、顔はお面を被っている。
 お面は、私が子供の頃に好きだったテレビアニメの主人公のものだった。それは、少女が着飾った戦闘服に変身して悪者と戦い、地球を守る物語だった。お面の瞳は、少女の顔の半分ほどを占めるほどおおきく、中央に十字の星が一つ描かれている。逆三角形の口元がわざとらしい微笑みを浮かべ、その表情はぴたりと静止している。少女は、私と顔を合わせると急に駆け出し、坂道を上っていった。それから、公園の階段まで行き着くとこちらを振り返り、公園の中に入っていった。
 私はなぜか少女のことが気になって、彼女の通った道を辿って坂を進み、背の高い木々に覆われる公園に近づいた。すると、茂みの間から提灯の灯りが漏れているのが見えた。
 公園の砂場を越えた中央には、櫓が組まれている。
 櫓の上からは、外から見えた提灯が四方の木々まで伸びて、夜の公園中を明々と照らしていた。その周りに浴衣姿の人々が輪になって集まり、盆踊りを踊っていた。公園の端には林檎飴や水風船、金魚すくい、焼きとうもろこしなどの屋台がずらりと並び、その匂いが公園の外にまで漂っていた。
 輪の中を数えてみると、子供も大人も合わせて、三十名を越えるほど大勢の人々がいる。中には、ひょっとこ、狐、狸などの面を被った不思議な男たちも数名混ざっていた。狐のお面の男は背が高く色白で、狸の男は皆よく日焼けをした恰幅の良い体で、浴衣の裾を帯にねじこんでがっしりした脚を大胆に見せている。彼らは輪のあちこちで陽気に踊ってみせて、周りの人々を盛り上げていた。先ほど私が出会った少女も輪に混ざり、他の子供と一緒に踊っている。
 櫓の上に立つ少年が力強く太鼓を叩く。公園内につけたスピーカーからは炭坑節の曲が鳴りひびき、太鼓のリズムに合わせて、どこからともなく鈴の音も聞こえてくる。
 どん。どん。どどん。
 周りの人々が空高く手をあげ、浴衣の裾がおおきく揺れる。
 どん。どん。どどん。
 どん。どん。どどん。
 それ、踊れ。踊れ。
 浴衣姿の人々が同じように手を上にあげ、下におろし、歩みを進めては一歩下がり、両手をぱんと叩いて輪を回る。祭りが盛り上がると、周りで見ていた人々も加わって、輪は次第に広がっていく。
 公園の中は提灯の橙色に照らされて、まるで夕方みたいに明るかった。櫓の周りで踊る人々は、だれもが頬を赤く火照らせ、晴れやかな表情を浮かべている。その光景は、私が子供の頃に毎年楽しみにしていた、盆踊りの行事だった。
 祭りがなぜ真夜中に行われているのか、理由はわからなかったが、今年から再開されたのだろうと思った。私は公園の外側に立ち尽くし、祭りの様子を遠くから眺めていた。その景色を眺めていると、あまりの懐かしさに思わず涙がこみあげてくる。どれだけ長い時間見ていても、祭りが終わる気配はなかった。
 しかし、公園内の祭りとは反対に、周りの住宅街は至って物静かで、近隣の住人はだれも出てこなかった。それどころか家々の窓には灯りの一つさえ点いておらず、帰り道を歩く人も見かけない。静まり返った住宅街の片隅で、彼らは陽気に踊り続けていた。私はしばらく祭りを見ていたが、家族になにも言わずに家を出たことを思い出し、父が心配するといけないから、家に帰ることにした。帰り道の坂を下り、いつまでも名残惜しく聞こえる祭りの音を耳に入れながら、私は母の言葉を思い出した。
 毎年八月に入って商店街から太鼓が聞こえてくると、母は「あの音が踊りに一体感をくれるから、特別に好きなの」だと言っていた。太鼓の音は強い振動と共に、私たちの体の中まで届き、周りの人たちと鼓動のリズムを合わせる力がある。それを再確認させるように、私の高まった鼓動は、今も太鼓の音に引きずられていた。
 玄関を開けると、家の中は電気が消されて真っ暗になっており、父も、裕子も、すでに眠ったらしかった。耳をすませると、和室から父のいびきが聞こえてくる。私は音を立てないように玄関の鍵を閉めて、二階の部屋に戻った。
 部屋のベランダに出ると、フェンスに身を乗り出し、さっきまでいた公園のほうを眺めてみる。電気の消えた真っ暗闇の住宅街の中で、そこだけが煌々と明るかった。

 翌朝、ほとんど眠れずに目を覚まし、階段を下りると、玄関の前に寝間着姿の父が立っているのが見えた。父は昨日とよく似たかたちのシャツと同じスウェットを着ていて、扉の郵便受けから朝刊を引っ張り出しているところだった。
「おはよう」
「父さん、早起きなのね」
 私が目を擦りながら返事をすると、父は「歳をとると、目が覚めてしまうものなんだ」と、笑いながら答えた。
 父の後ろについて居間にいくと、台所には早起きした裕子が、すでに朝食の準備をしているところだった。換気扇が勢い良く回って、鍋から立ちのぼる煙を残らず吸いこむ。背中に背負う実香がぐずると、裕子は体をちいさく揺らした。
「お姉ちゃんも起きたのね。お父さん、実香をしばらくお願い」
 裕子が紐をほどいて実香を下ろすと、父は新聞を脇に挟み、片腕に抱いた。父は実香を抱えると、ソファには座らず居間の周りをぐるぐると歩き、新聞を半分だけ開いて見出しを追っていた。
 朝食には、トーストとスクランブルエッグ、それに玉葱をいれた味噌汁が並んだ。父はパンの上に卵を乗せて、端を溢しながら食べている。裕子は最近のお気に入りだと言う、輸入物のブルーべリージャムを塗りたくり、実香を膝の上に抱えながら少しずつ口に運ぶ。
 母が毎朝台所に立っていたとき、朝はいつも決まって白米と卵焼き、大根を入れた味噌汁だった。今では電子レンジと炊飯器を置いた台の上に、真新しいホームベーカリーが置いてあり、裕子が時間のあるときに時々つくっているようだった。
「パンづくりって結構楽しいのよ」
 裕子は私に言うと、トーストに大口を開けてかじりつく。
「いつからやっているの?」
「去年の秋からだよ。旦那のお義母さんに薦められて買ったんだけど、案外難しくないの。外で買うよりも安くすむし、焼きたてのパンって美味しいんだよ」
 裕子の口から溢れた屑が、腕の中にいる実香の頭に降りかかる。実香はすっかり目が覚めたのか右手を伸ばして、口を動かしていた。
「実香はまだ食べないの?」
「ああ、もう舐めたりするよ。でも、これはもうジャムも塗ったからなぁ」
 裕子は苦笑いをしてパンの耳の端をちぎり、実香の手に渡した。実香はしばらく執拗に舐めたけれど、しばらくすると飽きたのか口から吐き出した。
「ほらね。そこはおいしくないかぁ」
 裕子が頭を撫でると、実香は嬉しそうに手を叩いて喜んだ。
「私、料理って好きじゃないんだよなぁ」
「そんなこと言っていられないよ。お姉ちゃん、お嫁に行ったらきっと大変な思いするよ。私だって結構自炊で慣れていたのに、義母さんに味音痴だって言われたからね。ひどいよねぇ」
 ジャムの蓋を開けて、裕子はもう一度上から塗り重ねた。
 裕子の旦那は、母が入院していたときに病室まで見舞いにきて、何度か会ったことがある。背が低くて物腰が柔らかく、誠実そうな男の人だった。彼は駅前のデパートに並んでしか買えない、母が大好きな洋菓子を差し入れに持ってきてくれた。その後も、病院で退屈する母の話し相手をするために時々顔を出した。私は長い時間話したことはなかったが、一目見ただけで悪い人だという印象は持たなかった。裕子は昔から外に出ると人見知りをして、緊張しがちな性格だったけれど、彼といるときは家族と同じように落ち着いた様子でいられるようだった。
「でも、せっかくお盆休みなのに実家に何泊もして大丈夫なの? 旦那さんの実家、怒ったりしない?」
「先週、旦那の実家にも顔を出したしね。うちはお父さんも一人だし、お姉ちゃんもひさしぶりに帰ってくるんだから、お盆だけ実家にいますって言っても、ばちは当たらないでしょうよ」
 裕子は最後のひとかけらを頬張ると、食べ終えた食器を重ねて立ち上がった。
 小学生の頃、両親は月末になると塾の経理に追われ、家に帰ることが遅くなることが度々あった。私と裕子は学校から一緒に帰ると、預けられた鍵を使って家に入り、両親が帰るまで二人だけで過ごした。
 あのとき、裕子はどこから見つけてくるのか、お菓子ばかり食べているので、私は母の料理を思い出しながら卵入りの炒飯を作ったことがある。具はウインナーだけで、油を入れすぎたせいかぎとぎとしていて、味はひどく薄かった。それでも、裕子は好き嫌いをせずよく食べるので、炒飯も二回はおかわりをした。その日から両親のいない夜には、私が必ず夕飯をつくることになった。裕子はきっと幼かったから、もう覚えていないだろうと思う。
 私は父と裕子に、昨夜の盆踊りのことを話すか悩んだけれど、なんとなく気がむかずにやめてしまった。裕子は町内会がなくなって、盆踊りもしていないと言っていたけれど、もしかしたら裕子が知らないだけで今年から変わったのかもしれない。それに、あれほど騒がしい太鼓の音だから、二人にも間違いなく聞こえているはずだった。
 午後の法事にむけて、裕子は家中に掃除機をかけ、私は和室の畳を水拭きした。その間、父は実香を腕に抱いてあやしながら、テレビの録画していた大河ドラマを観続けていた。
 私は畳の掃除を終えると、仏壇に供えた物を一つずつ下ろし、濡れた布巾で埃をぬぐった。曇りなく磨き上げると、蓮のかたちをした落雁を供えて、湯飲みの煎茶をいれかえる。それから、線香台にたまった灰を少し捨てて、最後にお布施を用意した。

 十一時を丁度回った頃に、玄関のインターホンが鳴り、母の弟である叔父さんと、奥さんと子供二人の家族が時間通りに現れた。叔父さんは、母と顔は似ていなかったが、同じように背が高い。玄関に迎えた父は顎をあげて見上げ、叔父さんは反対に軽く俯き、喪服の襟元にハンカチを当て、滴り落ちる汗を拭っている。
「そこの駐車場、けっこう混んでいたよ」
「お盆だからねぇ」
 父が家にあがるように手招くと、叔父さんはハンカチを尻のポケットにしまい、父の後ろに立っていた私の顔を見た。
「美和子ちゃん、帰って来ていたのか」
「おひさしぶりです」
 私が軽く頭をさげると、叔父さんは私の顔を覗きこんだ。
「姉さんの顔にずいぶん似てきたなぁ」
 叔父さんは目尻の皺をぎゅっと寄せて微笑むと、靴を脱いであがり、奥の和室へと足をむけた。隣にいる奥さんは「これ、良かったら。年齢があがっても遊べるようにと思って」と、裕子の手にそっと紙袋を渡した。中には、母の線香箱と、玩具屋の青色の包装紙に包まれた箱が入っていて、そちらは実香への手土産らしかった。大学生の兄と、高校生の妹の従兄妹は、小声で挨拶をした後、奥さんの横に並んで居心地悪そうに手前側の座布団に座った。
 叔父さんの一家に続いて、裕子の旦那も現れた。旦那は父と私に頭をさげると、裕子が腕に抱いた実香を見るなり、裕子と交代して高く抱きかかえた。実香は声を弾ませて喜び、彼の頬に手を伸ばして髪をぐいと引っ張った。一緒に来ていた義母は背が低くふくよかで、血色の悪い顔に塗った桃色が汗でとれかけていた。それと同じ頃、父の兄弟にあたる親戚も集まると、和室の中には十五人ほどの人たちが三列に並んで腰を下ろした。
 最後には、春子叔母さんが膝丈の黒いワンピースに、昨日と同じパールのイヤリングをつけた格好で玄関から顔を出した。春子叔母さんは、家族ごとにかたまる親族の輪から外れ、私たちの近くに腰を下ろし、小振りのバッグから似合わない数珠を取り出した。
 まもなく寺のお坊さんがやってくると、慌ただしく動いていた私たちも仏壇の周りに集まった。父と私と裕子は、前の座布団に一列に座り、裕子の後ろには旦那と義母がいて、父の斜め後ろには春子叔母さんがいた。朝から寝不足で不機嫌な実香が泣き出すたびに、春子叔母さんは唇をへんなふうに動かしたり、実香の頬をくすぐったりして、旦那の腕に抱かれる実香を慣れたようにあやしていた。
 母の遺影を見上げながら、体内にひびく低い読経を耳に入れていると、六年前の葬儀を思い出した。母が亡くなったとき、私はこれでもかと思うほどの涙が出たのを覚えている。母のために泣いてあげられるのも今しかないと思うと、人前でも涙を堪えることができなかった。しかし、こうして遺影を見上げても、涙はあの時のように出ない。母はたしかに亡くなって、私たちはそれを受け止めていた。今となっては、母はこのちいさな仏壇と、難しい漢字を合わせた長い戒名と、遺影の写真の中にしかいなかった。写真の中で笑う母は、相変わらず視線が斜め上をむいていて、こちらと目が合わない。
 窓を開け放った部屋の中は蒸し暑く、外では蝉が鳴いている。遺影から目をそらして後ろを振り返ると、春子叔母さんの喪服に日差しがあたり、毛羽立つ表面が淡く光っていた。

 翌日、昼食をすませると、父が職場に顔を出してくると言ったので、私もついでに外に行くことにした。玄関から出た途端に、湿り気のある熱い空気が頬をかすめる。出かけるには暑すぎるかもしれないと後悔したが、父の車に乗って最寄り駅の近くで下ろしてもらうと、私は日傘を開いて商店街に足をむけた。
 ひさしぶりに訪れる商店街は、大勢の買い物客で賑わっていた。制服姿の高校生から、私と同じくらいの歳の子連れの母親、それから年配の両親につきそう夫婦まで、幅広い年齢の人々が同じ道を歩いていた。通りを見渡した限り、店構えはちらほらと変わっているようで、安売りをうたう洋服屋やチェーンのコーヒーショップが新しく建ち並んでいた。
 私はしばらく歩きながら、半分過ぎた辺りにある六坪ほどの古びた本屋を思い出し、立ち寄ることにした。学生時代に受験の参考書や好きな作家の小説を、何度か友達と買いにきたことがある。しかし、店があったと思われる場所を通り過ぎてみても、本屋はどこにも見当たらない。その代わりに、見通しのよいガラス張りの美容室が現れ、客入りの少ない店内で、手持ちぶさたの女性スタッフが鏡を執拗に磨いている姿が見えた。
 もしかしたら、あの本屋は近くに移転したのではないかと思い、大通りから角を曲がって小径に入る。すると、五軒目ほど進んだ先で、見覚えのある居酒屋に行き当たった。それは春子叔母さんが話していた、田村君の店だった。子供の頃、私も同級生の数人と遊んでいるときに何度か立ち寄ったことがある。
 店の入口には、昔見たときよりも多少色褪せた臙脂色の提灯が下がっている。店内の電気は消えていたが、入口のガラス戸が開いたままだった。戸の隙間から中を覗いてみると、カウンター席を越えた台所に、人が立っているのが見えた。顔は影に隠れてよく見えない。その人がふいに顔をあげ、私のほうを見たようだった。
「すいません。夜にならないと店は開かないんです」
 男は台所から手前に出て、申し訳なさそうに軽く頭をさげた。
「あ、いえ」
 私は慌てて首を振り、立ち去ろうと後ろを振り返った。すると、男は「あれ、川村さん?」と首をかしげ、私の名前を呼んだ。
「どうしたの。ひさしぶりだね」
 田村君は入口にかかる簾を持ち上げ、ガラス戸から顔を出した。ひさしぶりに見る彼は背が高く、外の日差しを受けた彼の頬はよく日焼けしている。頭は短い髪を覆うタオルを巻き、腰には使い古した紺色のエプロンを下げている。小学校のときはクラスの男子の中で、特に痩せていたせいか、余計に印象が変わっていた。当たり前だが、彼は幾分歳をとって見えた。
「昨日、帰省してきたの。商店街に本屋があったのを思い出して、この辺まできたんだけど」
 私が早口で答えると、田村君はちいさく頷いた。
「あの本屋はなくなったんだよ。ここ数年、全然客がいなかったから」
「そうなんだ。知らなかった」
 私はそう言って、話をどう切り上げるか悩んでいると、田村君は私の目を見つめた。
「せっかく近くまで来たんだし、時間があるならちょっとお茶でも飲んでいかない?」
 田村君は、カウンターの席をひとつ引いた。私が日傘を畳んでおずおずと中に入ると、彼は台所に入って冷蔵庫から飲み物を取り出した。
 店の中は、電気をつけていないせいか薄暗く感じたけれど、入ってみると意外に窓からの陽当たりも良く明るかった。四席のカウンターのテーブルはよく磨かれて反射し、座敷の畳も古びている割に清潔感があった。壁一面に茶紙の達筆な字で書かれた品書きがずらりと並び、本棚には読み過ぎて黄ばんだ漫画と少年誌の最新号が置かれている。
「昼間だからビールには早いけど。どうぞ」
 慣れた手つきでカウンターに置いたグラスを持ち上げ、麦茶をさっと注ぐと、私の前に差し出した。
 田村君と最後に会ったのは、たしか成人式の同窓会だった。同窓会は、学年中の人たちが大勢来ていたから、一人ずつの顔はよく見ていなかったけれど、田村君が子供の頃から比べて随分印象が変わったなと思ったことをおぼろげに覚えていた。親しい女友達から聞いたところによると、田村君は関西の大学に行っていたはずだった。
「帰省ってことは、今どこに住んでいるの?」
「東京だよ。大学進学のときに家を出て、向こうで仕事しながら暮らしているの」
 私が答えると、田村君は台所の端に置いたパイプ椅子に腰掛け、換気扇を回して煙草を吸い始めた。
「そうなんだ。川村さんのとこ、お袋さん大変だったんだよな。去年の末くらいに、君の叔母さんが来たときに聞いたんだ」
 田村君は俯きがちに話し、私は頷いた。
「うん。田村君は元気にしていた?」
「俺は大学卒業したら、ちょうど親父の具合が悪くなったから、そのまま実家に戻ってこんな感じ。同級生たちも、時々飲みに来てくれるんだよ」
 田村君は換気扇を見上げたまま、微かに笑ってみせた。
「裕子ちゃんは結婚したんだよな」
「そう。娘の実香も一歳近くなって、ずいぶんおおきくなったよ」
「女の子かぁ。可愛いだろうなぁ」
 田村君は目尻を細め、柔らかく笑ってみせた。
「川村さんは?」
「私はしてないよ。田村君は?」
 私が首を振ると、田村君は視線をこちらに戻した。
「俺は見ての通りだよ。大学に通っていたときは付き合っていた子もいたんだけど、地元に帰ってきたときに別れたんだ。こんな田舎に引っこむのに、無理やり連れていけないしね」
 田村君はグラスをもう一つ取り、自分の麦茶を注いだ。田村君は一口飲むとグラスを置き、戸の外を眺めていた。私は気まずくなって、彼のちょうど頭の上にある食器棚辺りを見渡した。
「こっちに戻ってくるつもりはないの?」
 田村君の問いかけに、私は苦笑いを浮かべて口をつぐんだ。この町に帰って来ることなど一度も考えたことはなかった。
「そうだなぁ、仕事もないしね」
「仕事は選ばなければいくらでもあるよ。なんなら、常連さんに相談して紹介するから」
 田村君の言葉に、私は遠慮がちに首を振った。
「ありがとう。でも、こっちに帰ってくると、私はなににもできなくなりそうなの。今は実家を出て一人で暮らしているから、まだ頑張れているけど」
 田村君は「わかる気がする」と言って煙草を灰皿でもみ消し、換気扇のスイッチを切った。
「実家にいると、急に子供に戻った気になるのよ」
「それは当たり前かもしれないね。なにせ生まれ育った町なんだから。俺はもうなにも考えずに、ここに甘えることにしたよ。親父が元気だったら、向こうで就職しようと思っていたけど、自分だけで決められるものじゃないからなぁ」
 田村君は立ち上がって壁にかけた時計を眺めた。時間は、四時半を回ろうとしていた。
 店内には磨りガラス越しに屈折した光が入り、スカートから伸びる足の甲がじわりと熱くなる。商店街を行き交う人たちの喋り声や、自転車の鈴の音、周りの店先から漏れるテレビの音が混ざって聞こえてくる。外の暑さは先ほどと比べて変わらなさそうだったが、日差しは幾分穏やかになったようだった。
「地元にいるなら、またおいでよ。明日の夜は店も休みだから、もし良ければここで一緒に酒でも飲もう」
「ありがとう。休みの日もお店にいるの?」
「あぁ。営業日だけじゃ中々できない仕込みも多いから、ほとんど休みはあってないようなものなんだ」
 田村君は目尻に深い皺を寄せて笑い、最後にもう一杯お茶をついでくれた。

 家に戻ると、父は職場から戻ってちょうど昼寝をしているところだった。玄関にはサンダルが脱いだかたちのまま斜めになっていて、和室を覗いてみると父が取りこんだ布団に横たわって寝息を立てている。裕子はテレビを見ながら薄割りしたカルピスを飲み、うたた寝をする実香に寄り添って背中を叩いていた。
「お姉ちゃん、どこに行っていたの?」
「本屋に行こうと思って、商店街に寄っていたの」
「あぁ。角の本屋ってもうなくなったよね。この辺だと雑誌買えるのってそこだけだったのに、少し不便になったのよねぇ」
 裕子はあくびをして寝そべり、実香にかけていたブランケットを自分の腰の上にまで伸ばした。後ろの髪にはくっきりと寝癖がついていて、乱れた毛先がエアコンの風で揺れていた。
「私、夕飯の買い出しに行ってこようか」
「ありがとう、助かるわ。卵とお味噌も買っておいてね」
 裕子は右手で台所を指さすと、テレビを見やすいようにクッションに頭をのせて、実香の隣に横たわった。
 私は携帯電話をスカートのポケットに突っこんで、財布を手に持って出かけた。日差しを浴びたアスファルトはまだ熱く、サンダルを通して足の裏に伝わった。
 最寄りのスーパーは、家から二つ先の角を曲がってすぐにある。品揃えは決して多くないけれど、住宅街の中にあることもあって、夕方の買い出し時間となるとそこそこに混んでいた。店内は冷房がひどく効いていて、よく来る常連客たちは皆、真夏なのにカーディガンを羽織っている。カートを一台ひいて、裕子に頼まれた食材を入れていると、子供たちが玩具付きのスナック菓子を手にはしゃぎながら通り過ぎ、その後ろを母親が「すいません」と頭をさげて追いかけていった。レジ付近のお菓子売り場には六人ほどの子供たちが座りこんでいて、私がちらりと目をやると、こちらを不思議そうに見つめ返した。
 買い物を終えて帰る途中、私は少しだけ遠回りをすることにした。帰省初日の夜にお祭りをしていた公園を、昼間のうちに一度だけ見ておきたかった。
 すると、公園に入る角を曲がったときに、私の足元を子供の影がよぎった。さっきスーパーにいた子供の一人がついてきたのかと振り返ると、その姿に見覚えがあった。
 その子は、七歳くらいのお面を被った浴衣姿の女の子だった。浴衣の色模様に加えて、お面も、以前見かけた少女がつけていたのと同じキャラクターのもので、どうやら少女本人らしかった。
「どうしたの?」
 私は思わず声をかける。
 お面を被った少女は、公園にむかって一目散に走り出す。私の言葉に返事をよこさない。ちょうど車の多い通りに出るところで、私は走る彼女を止めるため、スーパーの袋をその場に置き、必死で追いつこうと駆け出した。
「待って、どこにいくの」
 私がとっさに叫んだ声に、少女は一度振り返り、こちらにむかって手招きをする。まるで鬼ごっこでもするかのように公園の中に入ってしまった。私は走り出した途端、軽い目眩がした。それでも息を切らしながら足を速めて、少女の登った階段をあがり、ようやく公園に辿り着いた。
 しかし、公園に先ほどの少女の姿は見えなかった。
 手前に広がる砂場にも、奥の滑り台にもおらず、ブランコの上にも座っていない。それどころか、公園には子供の一人も見つけられない。反対側の通りに出る入口に駆け寄って見渡したけれど、だれもいない。時間は夕方に差しかかったところで、まだ日が暮れ始める時間でもなかった。
 私は荒い息を整えて、額の汗を手の甲で拭う。周囲を覆う背の高い木々から蝉の声だけがこだまして、ブランコはぴたりと静止したまま、無人の砂場にはベンチの影が長く伸びていた。
 少女は、なぜ私のことを気に止めたのだろうか。
 彼女は私になにか言いたいことがあるのか、もしくはからかって悪戯に喜んでいるだけなのか。顔にお面を被っているせいで、その意図は読み取れない。小学校の同級生か、近所の知り合いの子供なのか。あるいは、単に見かけない私の顔が珍しいだけかもしれない。私は少女を探して走り回ったせいですっかり頭が痛くなり、滴り落ちる汗を手の甲でぬぐった。
 ようやく実家まで戻ってくると、裕子はちょうど蛍光灯を一本だけつけた台所で、実香の夕食の準備に取りかかるところだった。電子レンジで温めたカボチャを包丁で割り、すり鉢で擦ってちいさくしている。裕子は私が帰ってきたことに気がつくと、こちらに顔をむけた。
「お姉ちゃん、遅かったね」
 裕子は鉢をこする手を止めて話しかける。父はまだ和室で眠っているのか、居間に姿が見えない。テレビからは夕方のワイドショーが流れ、風のない部屋の中にひびいている。
「あ、あのね」
 そこで、私はさっきの少女のことを言いかけて口ごもる。もし裕子に言っても、単に子供の悪戯だと言われるだけではないだろうか。たしかに私が探しきれなかっただけで、少女は公園の物陰から必死になる私を見て笑っていたのかもしれない。そう考えると、私が走って追いかけたことは随分大人げない行動だった。裕子に言いかけた話の続きを話すことをやめて、私は目をふせた。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
「あれ、スーパーの荷物はどこに置いたの?」
 裕子は、私の手元を指さして不思議そうに首をかしげている。私がなにを言われているのか理解できずに立ち尽くしていると、裕子は口をぽかんと開ける。
「さっき、夕飯の買い物してくるって言ってなかったっけ」
 裕子の言葉に、私はようやく買い出しの荷物を置き忘れてきたことを思い出した。私は裕子に「すぐに戻る」とだけ告げると、慌てて玄関を出て坂道を再び駆け上がった。
 スーパーの袋は、道路脇の電柱横に置き去りにされたままだった。
 地面に屈んで袋を開けると、袋の一つは箱入りのアイスクリームが溶けて、底にうっすらと水たまりができていた。周囲を見渡してみたけれど、先ほどの少女は見当たらない。辺りは日が暮れ始めて、住宅街の窓には明かりがつき始めていた。私はしかたなく荷物を持ち、家路を急ごうと立ち上がる。
 すると、右足を踏み出した瞬間、なにかにつまずいて危うく転びかけた。私は慌てて左足を勢い良く下ろし、足の裏がじわりと痛くなる。なにかあっただろうかと地面を見下ろしたけれど、段差どころか、小石の一つも見られない。
 そのとき、唐突に女の子の笑い声が耳に入る。くすくす、くす。我慢できずに吹き出したような笑い方だった。声の位置は遠くもなく、近くもない。しかし、駐車場に止めた車の影にも、空き家の庭に茂る木にも、注意深く目を凝らしてみたけれど、少女の姿はどこにも見えなかった。
 家に帰ると、私が荷物を置き忘れてきたことについて、裕子はそれ以上なにも言わなかった。ただ、呆れたようにちいさく溜め息をつき、袋から夕飯の食材を選びとると、残りを冷蔵庫に入れて勢い良く閉めた。私は溶けてしまったバニラアイスの箱だけを気づかれないように避け、袋ごと縛ってゴミ箱に放りこんだ。

 幼い頃、裕子はいつも私の後ろについて回りたがる子供だった。
 私が同級生の友達と公園に出かけるときも、商店街の駄菓子屋にいくときも、どこにでも遠慮なくついてきた。裕子は歩くたびに音が鳴るサンダルを履いていたから、裕子が後ろにいると私もすぐにわかった。習い事に関しても、私がスイミングスクールに通い始めれば、裕子もやりたいと言い出したし、父の塾の先生に国語を習うのも、裕子は同じ先生が良いと駄々をこねた。
 初めは、私も一緒に出かけたがる妹が可愛くて、裕子の手を引いて連れていった。しかし、友達と内緒話をしようものなら、裕子が家に帰るなり母にすぐ話してしまうから、私は年齢があがるにつれて疎ましくなり、裕子を連れていかないことが多くなった。
 そんなとき、裕子は町中で一度迷子になったことがある。
 私は同級生の女の子と、夏休みの読書感想文を書く本を探すため、町外れの図書館に出かけていた。出かけ際に裕子に行き先を聞かれたけれど、妹を連れて行くと友達に申し訳ないし、裕子が図書館で騒ぐのも嫌だったからなにも教えずに外に出た。しかし、夕方になって家に帰ってみると、裕子は留守にしていて、母に聞くと「裕子は美和子について行ったわよ」と言われた。
 ようやく裕子がいないことに気がつくと、私は慌ててもう一度図書館まで引き返し、途中の道を見て回った。坂道の公園、商店街の駄菓子屋の店先、小学校へ続く曲がり角。どこを見ても、裕子の姿はなかった。母はすぐに父に連絡し、父の職場の人たちに加えて、町内会の田村君のお父さんたちの力も借りて、町中を大勢で探し回った。
 裕子が見つかったのは、結局夜の八時を過ぎた辺りだった。
 図書館の隣にある公園のジャングルジムの頂上で、裕子が座りこんでいるところを、犬の散歩にきていた同級生が見つけたのだ。家まで無事に送り届けられた裕子は、両目いっぱいに涙をためて、私の顔を見上げて「ごめんなさい」と呟いた。
「ここまで登れば、お姉ちゃんが見えると思ったから。でも、高いところが怖くて下りられなかったの」
 裕子は冷えた両手で私の服にしがみつき、大声で泣きわめいた。半袖のワンピースの裾が、砂埃ですっかり汚れていた。父は私を二時間説教した挙げ句、一週間の外出禁止にした。母も、いつもは姉妹喧嘩に口を出さなかったが、その時ばかりは「妹の面倒はちゃんとみなさい」と、私の太腿が真っ赤に腫れるまで叩いた。
 中学に上がる頃になると、裕子はもう私の後についてこなくなった。裕子はいつの間にか人見知りをしなくなって、だれとでも笑って話せるようになり、クラスの女の子との遊びに忙しくなった。特に女子の多いテニス部に入ってからは、毎日私よりも夜遅くまで外を駆け回っていた。
 今になって振り返ると、裕子が私についてきた時期なんて本当にわずかな間だけだった。高校にもなれば、二人揃って出かけたことなど、家族旅行以外に一度もなかった。数年前、実家に電話をかけたときに裕子にその話をしたら「えぇ、そんな昔の話は覚えてないわ」と、可笑しそうに笑われた。

 夕方のニュースが始まり、明日の天気予報が伝えられる。
 最高気温は三十五度の真夏日。湿度はやや高め。裕子は、この前叔父さんから貰ったピアノの玩具を出して、実香と遊んでやっていた。ピアノの音が変わるたび、実香は手を叩いて喜んで、両手で鍵盤をばしんと押して音を出した。ピアノに夢中になる実香の隙をつき、裕子が脇腹をくすぐると、実香は身をよじって喜んだ。裕子が自分の結んだ髪がほどけそうになるのも気にせず、実香をあやす姿を見ていると、私はまるで自分が妹よりも随分年下になった気がした。
 実香の愉しげな声を聞きつけ、昼寝から目覚めた父が和室から顔を出した。
「なんだ、実香。今日はご機嫌だなぁ」
 父は眉をさげて微笑みながらそばに座り、実香の両脇に手を入れるとひょいと抱えて膝の上に乗せてやる。父は「ほら、面白いだろう」と言って、実香の人差し指をとって、母が唯一弾くことができた「猫踏んじゃった」のメロディをたどたどしく押してやる。実香は音が出るたびにきゃっきゃっと笑い声をあげて、父の膝の上で両足をばたつかせる。父は実香を抱きかかえて曲の続きを聞かせていたが、しばらくすると足が痺れたようで、実香を裕子に預けて両足を伸ばした。実香は父と遊ぶのがよほど愉しかったのか、まだ両手を伸ばしておねだりをしている。
「お姉ちゃんも、実香を抱っこしてみる?」
 裕子は実香を抱き上げて、私にむかって腕を伸ばそうとする。実香は目を丸くして静かになり、父にねだっていた両手を半分下ろし、私の顔を見つめていた。
「ううん。子供の抱き方ってよくわからないから」
 私は苦笑いを浮かべて首を振る。すると、父と裕子が私のほうを揃って見てくるので居心地が悪くなり、私はソファから立ち上がって居間を後にした。
 二階の部屋のベッドに横になると、階段の下からピアノの音が再び聞こえてきた。私は実香の笑い声を聞きながら、幼い頃の裕子を思い出す。もし夢の中でもう一度だけ会うことができたら、そのときは裕子を存分に甘えさせてあげるのに、と思った。
 カーテンから差しこむ光が消えて、部屋の中が薄暗くなった頃、私はまたもや太鼓の音を耳にした。どん。どどん。その音は、やはり一人暮らしの部屋で聞いていた音と同じだった。私はこの前の祭りを確かめるため、もう一度外を見に行ってみることにした。

 群青色に濁った空の雲間から、白くぼやけた月が顔を出している。玄関の扉を開けた途端、昼間の暑さが残るぬるい風が体中に纏わりついた。まだ日付も越えない時間にも関わらず、住宅街の家々の明かりはほとんど消えていて、通りを歩く人の姿もない。
 坂の上の公園に辿りつくと、前回と同様、盆踊りが賑やかに行われていた。櫓から太鼓が二度ひびき、続いて鈴の音が鳴ると、周りには浴衣姿の人々が集まり始める。人々は音楽に合わせて陽気な声で歌いながら、盆踊りを踊り出す。数人の狸のお面を被った中年の男たちが、輪からはみ出さんばかりに豪快に体を動かし、狐のお面の男たちは、女のようになめらかに手を動かして輪のリズムを整えている。人々は音に合わせて一歩ずつ前に踏み出し、私の近くにいる顔が入れ替わる。私は公園の柵に手をついて、近くを過ぎ去る人々の顔を眺めていった。
 そのとき、私は輪の中で踊る一人の女性に目を止めた。
 彼女は薄紫色の浴衣に、渋味のある赤い帯を締めている。浴衣は大ぶりの白い花が染められていて、花びらの先端は淡い黄色がかっている。彼女は背が高くて手足も長く、踊る姿が輪の中でも一等よく映えていた。私は柵に近づいて目を凝らし、彼女の顔を覗きみたとき、すぐさま言葉を失った。それは紛れもなく、私の母の姿だったからだ。
 母が踊るたび、長い手足が宙を舞う。
 高い歌声は、こちらまで届くほど響いて目立っている。母は頬を熱気と汗で蒸気させ、額に汗を滲ませながら、なんとも愉しげに盆踊りを踊っていた。私は思わず声をあげそうになり、慌てて押し殺す。今までなんともなかったのに、涙が急に溢れだして、顔を覆う両手の隙間から地面に落ちた。
 母の隣には、二人の幼い少女が駆け寄ってくる。
 一人は、以前に出会ったお面を被る女の子だった。母は少女の乱れた髪を耳にかけさせて、お面を外して頭の上に乗せてやる。すると、少女の顔は母とよく似ていた。彼女は黒目のおおきな一重の瞼で、笑うたびに右頬にえくぼが浮かんだ。
 少女は、幼い頃の私の姿だった。
 もう一人の女の子は、色違いの橙の浴衣を着ていて、母の腕を引っ張り、自分の二つに結わえた髪を指さしている。その子は、まだ三歳になったくらいの妹の裕子である。私は思わず目を疑ったけれど、自分の家族を見間違えるはずがない。今では写真の中でしか見られない、過去になったはずの妹の裕子と、私自身、それから生きているはずのない母が、目の前に立っていた。
 踊りの途中、三人は輪の外側にむかって何度も手を振る。彼女たちの視線を追ってみると、そこにいたのは若き日の父だった。父は濁った深緑色の浴衣を着て、首から下げた古い一眼レフカメラを両手で構えている。父は手を振り返し、私たちが近づくたびに夢中になってシャッターを切っていた。
 私は、前のめりに柵に体を乗せて目を凝らす。公園の柵を越えて駆け寄れば簡単に触れられる場所に、母が立っている。母が手を宙にあげるたび、浴衣の袖から、色白のふっくらとした二の腕が覗いた。額は汗ばんでぬらりと光り、紅を引いた唇は艶やかに伸びている。母が輪の中を前へ進むたびに、私は視界から消えないように体をずらし、懐かしい姿を目に焼き付けた。
 夜明け間際、家に帰らねばならない頃になっても、私の目は昼間のように冴えていた。玄関先で朝刊を取りにきた寝起きの父とすれ違い、声をかけられた気もしたが、私はなにも考えることができず、挨拶もしないまま二階の部屋に戻った。

 十三日の夕方、私は約束通り田村君の店にでかけた。
 出かけ際、裕子に行き先を聞かれたのでとっさに「友達と会ってくる」と答えた。しかし、通りを歩きながら、もし相手を聞かれたらだれの名前を出そうかと考えていると、この町にはもはや口実を合わせる女友達などいないことを思い出した。仲の良かった女友達の多くは結婚し、子供を産んで家庭を持っている。彼女たちの邪魔をすると悪いと思って、もう長いこと連絡をとっていなかった。
「いらっしゃい」
 赤提灯下の暖簾をくぐると、田村君が出迎えてくれた。
 店内は白熱灯の橙色の光で満たされ、厨房で煮立つ料理の塩辛い匂いが、エアコンのひんやりとした空気に混ざって漂っていた。田村君は鍋の具合を見ながら、入口近くに積んだ十数本のビール瓶を冷蔵庫に移しているところだった。
「魚とか食べられる?」
 田村君は冷蔵庫の扉を閉めると、カウンター越しの私にむかって尋ねる。
「大丈夫。好き嫌いはないの」
 私は頷いてカウンターの席を引いて座ると、彼は「それならよかった」と、安心して笑ってみせた。手を洗って包丁を手にとると、刺身を丁寧に切り分けて小皿に盛りつけた。冷蔵庫からラップをかけた小皿をいくつか取り出し、カウンターの席に並べていった。
 田村君の出した料理は、どれも盛りつけの色合いが鮮やかで、味もとても美味しかった。お酒を注ぎ合って飲み始めると、一杯目のビールを半分まで飲んだところで、田村君の頬がやんわりと赤くなっていることに気がついた。
「実は、酒弱いんだよね」
 田村君は照れくさそうに笑うと、頬の辺りを手の甲で軽く押さえた。
「え、そうだったの」
「うん。だから、あんまり外に飲みにいけないんだ」
「成人式の同窓会のとき、けっこうお酒飲んでなかった?」
 私が聞くと、田村君は視線をあげて思い巡らせて首を振り、お絞りを開いて顔を拭った。
「ああ。ほとんど飲んでないよ。男たちと騒いでいたら、みんなには大体わからなくなるんだよ。だから、一対一で飲むとごまかせなくて、けっこう苦手なんだ」
 田村君は唇の端を曲げて、ビールを一口飲んだ。
「それなら、なんで私をお店に誘ったの?」
 私が聞くと、田村君は一瞬迷ってから顔をあげる。
「川村さんとは一度話してみたかったんだ」
「え?」
「君のとこの叔母さんから、お袋さんが亡くなったって聞いて、川村さんはどうしているだろうって率直に思っていたんだ」
 田村君はビールをもう一口飲んで話を続ける。
「俺たちの年齢にしてさ、両親になにかあるって中々ないだろう。もちろん、自分と同じだとはおこがましくて言えないけど、俺も親父が調子悪くなってから、なんとなく考えていることが変わったんだ。だから、川村さんはどうなのかなって」
 田村君の言葉に、私は深く頷いた。グラスを両手で握りしめていたせいで、ビールは温くなりつつあった。
「田村君はどう変わったの?」
「そうだなぁ。子供のとき、うちの親父は逞しくて声もでかくて、近所の人たちと仲が良くて。親父は死ぬまでずっとこうやって元気に年取っていくんだろうと思っていた」
 ビールを半分ほど飲み干し、田村君は目を伏せたまま話を続ける。
「たしかに歳を重ねれば白髪も増えるだろうし、物忘れが出ることくらい当たり前だって知っていたけど、親父に関してはそんなこと想像もできなかった。もしかしたら、スーパーマンかなにかだと思っていたのかもな。でも、実家に帰ってきて、親父が毎朝左足を痛そうにさする姿を見ているとさ、あぁ、親父も普通の人間だったよなと思ったんだ」
 田村君は笑いを交えながら、落ち着いた口調で話した。
 田村君のお父さんは、町内でもよく目立つ人気者だった。商店街で店を営む人たちは困ったことがあるたびに、町内会長であるおじさんに相談を持ちかけていた。あまりに人が良いから、だれかの借金を背負わされて困ったこともあると、父から聞いたことがあった。もちろん、おじさんは大人だけでなく、子供とも仲が良くて、商店街の通りを歩けば色んな人から話しかけられる人だった。表情が柔らかくて細い目が優しく、背はあまり高くないけれど、腕も足も逞しい丈夫な体つきで、子供ならだれでも自分のお父さんだったら良いのにと思う人だった。小学生の頃、田村君は学校で特別に目立つタイプではなかったけど、お父さんの後ろについて町を歩くときは堂々として見えたものだった。
 私は頭の中で言葉を選びながら、慎重に口を開いた。
「わかるよ。私も、お母さんのこと同じように思っていたの。あんなに元気な人が死ぬわけない。しかも、まさかお父さんより先にいなくなるなんて想像したこともなかった」
 私は目を伏せて話し、ビールを一気に飲み干した。
「おばさん、本当に明るい人だったよな。君のところの塾の夏期講習受けたとき、昼間の英会話教室も時々覗いていたんだよ。いつも授業とは思えないくらい賑やかだったな」
 田村君は深く頷いた。私が黙りこんでしまうと、彼は新しく開けたビールを注ぎ足してくれた。
「そういえば、ひさしぶりの帰省はどう。楽しめてる?」
「うん。なにもかもが懐かしくてね。でも、色々と変わっていることも多くて驚いたかな」
「たとえば?」
「お父さんは家事なんて一切しなかったのに、いつの間にか洗濯もできるし、料理だってするのよ。裕子も、娘が生まれてからすっかり母親の顔になった。私よりもずっとしっかりしているから、もう妹って感じではなくなったなぁ」
「そうかぁ。俺も大学から地元に帰ってきたときに、川村さんと同じことを感じたよ。長い間一緒に暮らした家族なのに、自分がちょっといない間で別人みたいに変わるんだよな」
 田村君は自分のグラスにビールを注ぎ足し、深く頷いた。刺身を摘んで口に入れると、半分まで一気に流しこんだ。
「あのね。私、不思議なものを見たの」
 私が話を切り出すと、田村君はお酒を飲む手を止める。
「なにを?」
「昔、近所の公園で盆踊りをしていたじゃない。あれを見たのよ」
「実際に公園で盆踊りがあったってこと? あの祭はもう終わったはずだけどなぁ」
 田村君は首をかしげ、タオルの隙間に指を入れて頭を掻いた。
「そうみたいね。でも、櫓の周りには大勢の浴衣姿の人たちが本当に踊っていてね、屋台も飴屋から水風船までたくさん出ているの。小学校の頃に見た景色となにも変わらない。でも、一つだけ気になるのが、近所の住宅街は妙に静かなことなのよね。だって、公園の中はすごく賑やかなのに、だれも出てこないんだから」
 私が祭りのことを興奮して話している間、田村君は静かに聞き入っていた。彼があまりに反応を示さないので、私は次第に気まずくなって、口を閉ざした。
「やっぱり、夢だったのかな」
 思わずそう呟くと、田村君はしばらく考えこんだ後に首を振った。
「いや、川村さんは本当に見たんじゃないかな」
「どういうこと?」
 田村君の言葉に驚いて、私は聞き返した。
「お盆の時期ってさ、亡くなった人が帰ってくるって言うだろう。盆踊りって、昔は死者を弔うために行われていたんだ。行列をつくって町を練り歩いたり、櫓を組んで周りを輪になって踊ったりしてさ。日本で古くから続いている伝統的な行事の一つだよ」
「詳しいのね」
「大学のときに本で読んだんだよ。そういうことを調べるのが好きだったから」
 田村君は目を伏せて、ビールを飲んだ。
「そういえば、俺、盆踊りのときに太鼓叩いていたんだよ」
「あ、覚えている」
 小学校のとき、田村君は毎年盆踊りの太鼓を叩く役割だった。町内会の会長を務める田村君のお父さんが、太鼓を叩く役に自分の息子を推したのだ。田村君は毎日夜遅くまで練習をさせられる上に、血豆が痛いからやりたくないと嫌がったけれど、当日にはおじさんの隣で誇らしげに叩いていたのを覚えていた。
 先日、真夜中の公園の祭りで、太鼓を叩いていたのはだれだっただろうと記憶を辿ってみたけれど、他のことに気を取られて覚えていなかった。祭りをもう一度見かけたら、その子の顔を見てみたい。私は祭りの風景を頭に浮かべるうちに、輪の中で踊る母のことを思い出した。
「それと信じてもらえないかもしれないけど、祭りの中にね、私のお母さんもいるのよ」
「え?」
 田村君は目を丸くして私の顔を見上げた。
「本当なのよ。お母さんの浴衣姿がとっても綺麗でねぇ。まだ三歳くらいの裕子と、私もいるの。父さんだっているのよ。私たち、子供の頃みたいに櫓の周りの輪に入って盆踊りを踊っているの」
「川村さん」
 田村君が静かな声で呼びかける。私は料理に伸ばしかけた箸を止めて、彼のほうを振りむいた。
「そのお祭は、もう見に行かないほうがいいかもしれない」
「どうして?」
「なんとなくだけど」
 田村君は肘を突いて指組みをしたまま、不自然な空気を掻き消すように笑い、私から目を逸らした。
 私はそれ以上なにも言えず、田村君のグラスからこぼれ落ちる滴を見つめていた。あのとき真夜中の公園で見かけた、若い頃の母の姿を頭に思い浮かべる。母は赤らんだ頬を持ち上げ、愉しげに笑いながら、美しく踊っていた。お酒が入っているせいか、思い出しただけで目の奥が熱くなった。田村君のグラスの滴に映りこむ自分の姿が、ゆったりとした流れに乗って、テーブルの上に沈んでいった。

 その後も、私はどうしても祭りの様子が気になって、田村君の助言を聞かず、真夜中の公園に盆踊りを見に行った。夜の異様な祭りの光景に好奇心をそそられたこともあったが、私の目的は、やはり輪の中で美しく踊る母の姿を見ることだった。
 茂みの隙間から覗くと、そこには私の昔の家族がいる。盆踊りが始まる手前、父はカメラを構えるのに持ちにくい扇子を、母に自分の帯に入れてもらっていた。私と裕子は屋台の甘い林檎飴を交互にかじっている。裕子の頬の端に溶けた飴がべったりとつき、母がそれをハンカチで拭ってやる。公園の柵に手をついて中を覗きこむうちに、今まで忘れていた子供の頃の記憶が、頭の中にふつふつと蘇ってきていた。
 当時、公園の盆踊りには同じ小学校の同級生が多く来ていて、私は最初家族で踊ることが恥ずかしかった。しかし、私が父と一緒に写真を撮るほうがいいと主張するたびに、母は「心配しなくても大丈夫。お母さんの血を引いているんだから、美和子もすぐに上手になるわよ」と言って、私の腕を引っ張り、輪の中に無理やり入れてしまうのだった。
 太鼓の合図が鳴って、炭坑節の音頭がスピーカーから流れ出す。
 私は恥ずかしさを堪えながら、前にいる母の動きを真似し、目立たないように手足を動かした。友達に見られていないかと周りを気にしていると、後ろにいる裕子が夢中になって踊っているのが目に入った。裕子は、母と一緒であればなんでも喜ぶ子供だったから、母の言うことを素直に聞き、すぐに振り付けも覚えていった。裕子は「お姉ちゃんも、ほら」と言ってはしゃぐ。私はしばらくぎこちなく動いていたものの、母と裕子があまりに愉しそうに踊るので、それにつられて次第に踊れるようになった。
 父は砂場の手前に立って、私たちが輪を回って近づくたびにシャッターを切り、おおげさに手を振った。母は父にむかって手を振り返し、私と裕子にも振り返すように促した。裕子は飛び跳ねて両手を振ると、太鼓とわずかにずれた振り付けを自信たっぷりに披露する。
 公園の中は、私が子供の頃に記憶していた光景とまったく同じだった。
 かつては私も実際に輪の中にいて、母と一緒に踊っていたのだ。思い返してみると、あの頃はなにもかもが満たされていて、今よりずっと幸せだった。
 私は思わず公園の中に入って、盆踊りの輪に駆け寄りたくなった。母のそばに立ち、汗ばんで火照った手を握って、母が広げた腕の中に飛びこみたい。この柵を一思いに飛び越えてしまえば、簡単に叶うことだった。
 そのとき、私が柵をつよく握りしめると同時に、外側の通り沿いから女性の泣き声が聞こえた。
 女性は、私のいる場所から数メートル先で同じように柵につかまって、公園の中に見入っている。膝下丈のワンピースにサンダルを突っかけ、長い髪は後ろでねじって留めていて、年齢は当時の母と同じ歳くらいに見えた。その嗚咽混じりの声は甲高く、両手で口を抑えようとも、周囲の人々の耳にまで届くほどだった。彼女は膝から崩れ落ちると、地面にひれ伏した。すると、女性の後ろから男性たちが二、三人現れて駆け寄り、彼女の口に手を当てて無理やりに塞いでしまった。私が彼らを見ていると、男性の一人が私にむかって唇に指を当てた。
 そのとき、公園の入口に近い場所で踊っていた女の子の一人が、女性の声に足を止めて耳をすませる。
「なにか、聞こえるわ」
 女の子は、公園の入口にむけて指をさした。櫓の上で太鼓を叩いていた少年が女の子の声に気づき、バチの動きを止める。すると、他の人々も踊るのをやめて、その場に立ち止まる。
「犬かしら?」
「なんだろうね、狼じゃないの」
 さっきの女性の泣き声に反応して、公園の中に集まる人々がこちらを一斉に見た。彼らは櫓の反対側に集まって、外の様子を怯えた顔つきで伺っている。
 母と私、裕子もまた踊るのをやめて、父のそばに寄り添い、眉をひそめてこちらを見ていた。母は娘二人を腰辺りに引き寄せ、しっかりと肩を抱いている。盆踊りは一時中断され、祭りを仕切る町内会の男たちが提灯を下げて歩き回り、音の出所を確かめ始めた。公園の入口の柵周りには、数人の子供が手をつないで近寄ってきたが、水飲み場の周りを走り回っているだけで、柵の外までは出てこない。私は両手を口に当てて、思わず息を止める。
 そのうち、男たちが危険のないことを確認し、人々が落ち着きを取り戻すと、少年は再び太鼓を叩き始めた。隣に立つ父親らしき男性が背中を軽く叩き、彼に手を止めないよう促している。私はふと少年の顔を見上げて、息を飲んだ。
 少年は、頭に白いハチマキを巻き、町内会の役員と同じ紺色の法被を着ていた。両目は細く、袖から伸びる色白の腕はまるで女の子みたいに華奢だった。少年は、幼い頃の田村君だった。櫓の周りの人々は、田村君の叩く音を合図に、再び踊り始めた。
 公園の外側で泣いていた女性は、ようやく落ち着きを取り戻し、息苦しそうに口を開けた。先ほど駆け寄った男性たちが口から手を放し、頭を下げながら背中をさすっている。
 柵の外には、一人、二人、三人と、数えてみると五人ほどいるようだった。彼らは、数メートルずつの距離をあけて柵の手前に立っていた。彼らの中には、茂みの影に隠れたり、公衆トイレの裏から顔を出したりする者もいたが、私と同じく公園の外から中を見つめている。顔を見ようと目を凝らしたけれど、ここからでは暗すぎてよく見えない。彼らは身じろぎせずに息をひそめ、祭りに見入っていた。
 祭りを見ている間、私の携帯電話はポケットの中で数分おきに何度も震えていた。こっそりと画面を確認してみると、田村君からだった。私は連絡を返さずにポケットにしまう。せめて、東京に戻るまでのお盆休みの間だけで良かった。私は二度と見られない光景を、できる限り長く見続けていたかった。
 盆踊りの輪の中には、私の望むすべてがあった。
 私はここに来るたびに、懐かしい家族に会うことができた。幼い妹、若い頃の父、幸せそうに微笑む子供の私。そして、なにより元気に生きている母の姿をこの眼で見ることができる。四人は橙色の光に照らされる中、満面の笑みを浮かべている。
 踊りが最高潮に達したとき、公園の反対側の入口に男性の人影が見えた。襟のよれたシャツにスウェットを履いた寝間着姿で、背格好は父によく似ていた。男はしばらく祭りの輪を覗いていたが、反対側にいる私のほうを見ると、公園からすぐに立ち去ってしまった。
 公園の柵は、目に見えない結界となって、私と、櫓の周りで踊る浴衣姿の人々をはっきりと分け隔てていた。万が一、柵の内側に足を踏み入れたら、この祭りは一体どうなってしまうのか。もちろん、外にいる限り公園の中の人々に触れられはしないが、たしかに見ることができた。他の人々がそれをすることを恐れながら、私も一歩間違えればわからないと、手のひらに汗を握る。
 先ほどの女性のように声をあげたら、私も、やはり母からあんなふうに嫌な顔をむけられるのだろうか。
 この町を出てから、子供の頃を思い出す機会は滅多になかった。
 大学のときは授業の課題とゼミに追われて、社会人になってからは会社の仕事が忙しかった。家族のことを思い出すのは、母の遺影に供える水を替えるときだけで、それすら休日でなければ時間もなく、毎日続けることは難しかった。しかし、今回故郷に帰省してみて、私は近所のスーパーにいくために通りを歩くたび、部屋のスプリングが軋むベッドに横たわるたびに、まるで体の奥深くに眠らせていた昔の記憶が蓋を開けて溢れるように、目の前に蘇ってきた。
 夜の公園で目にする光景は、私が遠く離れた場所で暮らしながら、心の奥でずっと望み続けていた家族だった。これまで思い出そうとしなかったのは、今更考えたところで過去は戻ってこないと思ったからで、実家に帰らなかったのも、その思い出に触れてしまえば、私は一人で暮らし続ける力さえ失いそうだと思ったからだった。だから、アパートの部屋に聞こえてきた太鼓の音も、お面を被った幼い頃の私も、なにも唐突に現れたことではなかった。
 私は、今まで生まれ育った町と実家から、母の気配が漂うすべてのことから逃げ続けてきた。私が考えないようにすれば、母が亡くなったことも、裕子が結婚して別の家族を持ったことも、そのせいで元の家族のかたちが変わったことも、どれも現実にならない気がしていた。そうすれば、私の家族と言えば、小学校の頃に毎年盆踊りに出かけていた、当時の家族がいつまでも頭の中に思い出されるのだった。
 夜明けに近づく頃、公園の周囲に残るのは私だけになっていた。
 祭りを一緒に見ていた人々は、一人、また一人と、時間が経つと共に減り、いつの間にか全員いなくなっていた。彼らがどのような理由を抱えて集まっているのかはわからないが、私のように、今では望んでも手に入れられない過去の景色が祭りの中にあるのかもしれない。
 最後の一人になった後も、私は空が明るくなるまで、瞬きも惜しんで祭りを見続けた。

 翌朝、父は早くから二階のベランダにある物置を片付けていた。
 二畳ほどの物置の中は、壊れたバケツなどの掃除道具や、蛍光灯を替えるときにだけ使う脚立、母が通販番組で買った体を揺らして脂肪を燃やす体操器具、それに何箱もの衣類ケースが重ねて押しこめられていた。衣類ケースの中には、私と裕子の思い出の品がまとめられている。図工の授業で描いた絵をはじめ、通知表、読書感想文の宿題、数少ない満点を取ったテスト用紙などが山積みに入れられていて、母はそれを私たちのタイムカプセルと呼んで大事にしていた。父は狭い物置の中に潜りこみ、荷物を一つずつ外に持ち出して、ベランダの空いた場所に広げていった。高く昇った日が頭の上から容赦なく降り注ぎ、父は首に巻いたタオルで汗を拭い、一呼吸置きながら続けていた。
「父さん、あんまり無理しないでね」
 私の声がうまく届かないのか、父は私のほうを見て不満そうに首をかしげ、廊下に開け広げたゴミ袋の束を指さした。
「美和子も自分の部屋を片付けなさい」
 父は短く答えると、再び物置の奥に片足を突っこんで、暗い隙間に体ごと潜っていった。
 私は他にすることもないので、父に言われた通りに部屋を片付けることにした。窓を開けてゴミ袋を広げ、まずは机の引き出しを出して物を整理する。中を開けると、子供の頃に買っていた漫画の付録についてきたプラスティックの定規や、親戚からお下がりでもらったコンパス、動物のかたちをした消しゴムがてっぺんに入ったお気に入りの鉛筆キャップや、長く使いこんで端のほころびた筆箱など、ほとんど忘れていた持ち物までが次々に奥から出てきた。私は手に取って確かめ、それらを持っていた当時を振り返る。もう使うことはないからと、ゴミ袋に入れようとしても、どれも勿体なくて捨てられない。
 机の中が一向に片付かないので、とりあえず一旦後回しにして、洋服箪笥に手をかける。長年使っていない引き出しは堅く、思い切り力をいれて引っ張らないと開かない。中には、高校生のときに着ていた半袖のティシャツやパーカーが入っていて、その間には母がしまったのか、中学校の制服と体操服も大切に畳んであった。
 下から二段目の段までくると、私はあるものに気がついた。滅多に使わない段には冬物の分厚いパジャマが入っていて、それに隠れるようにして子供用の浴衣がしまわれていた。私は浴衣を前にして、思わず手を止める。薄い桃色の地に花柄があしらわれた浴衣は、袖が少し黄ばんでいて、花も色移りしてくすんでいる。それは幼い頃の私である、お面を被った少女が身につけていた浴衣と同じものだった。
 私はおそるおそる手を伸ばして、まだなにかあるのではないかと箪笥の奥を探ってみる。すると、今度は子供用のお面が出てきた。くたびれたゴムがちぎれて、キャラクターの肌は所々剥がれ、瞳の星も欠けている。しかし、それは間違いなく、少女が盆踊りのときに被っているものだった。私はお面を手にすると何気なく顔に合わせて、二つの穴から部屋の中を覗いてみた。
 そこに見えたのは、さっきまでの私の部屋ではなかった。
 入口に山積みになっていたはずの段ボールは消えて、もう一つの裕子の机が現れる。斜め向かいに置かれた机と、カーテンを引いた二段ベッド、共用の洋服箪笥。そこは小学生の頃、裕子と二人で使っていたときの部屋の景色だった。窓の外から西日が差しこんで、室内は橙色の光に満ちている。私の椅子は斜めにずれて、机の上には書きかけのノートが広げられていた。カーペットの上に置いた赤いランドセルからは、教科書がなだれ落ちている。
 私はお面を手に持ったまま思わず息をのむ。
 廊下の外では、子供たちが走り回る足音が聞こえている。きゃっきゃ、という甲高い笑い声とともに、後ろの部屋の扉ががらりと開く。私は驚いて体をかたくする。その瞬間、二人の幼い女の子の弾けるような笑い声が真横を通り過ぎた。私はとっさに右手からお面を離し、床の上に落としてしまった。
 顔をあげると、部屋の景色はたちまち元通りに戻っていた。
 私は慌てて後ろを振り返ったけれど、部屋の扉は閉まったままである。心臓がつよく震えて、うまく呼吸ができない。私はおそるおそる手を伸ばしてお面を拾い上げ、もう一度被ってみる。すると、やはり子供の声が耳元で聞こえた。床一面に散らかった玩具の中に、裕子のお気に入りだったブロンドヘアの人形が足元に横たわっているのが目に入る。私は思わず大声をあげてお面を床に放り投げた。
「なに、どうしたの」
 私の声に慌てて駆けつけた裕子は、扉を勢い良く開けて部屋の中を見渡した。裕子は階段を駆け上がってきたのか息を切らし、汗だくの額を手の甲で拭った。
「蝉でも入ってきたの?」
「ううん、違うの」
 裕子は部屋の中を一通り眺めた後、納得いかなそうに首をかしげる。私が床の上に座りこんで半ば放心していると、裕子は床に落ちたお面を横目で見やると「脅かさないでよ」と溜め息をつき、部屋から出ていった。
 裕子が階段を下りていくと、今度は父が開けっ放しの扉から部屋を覗き、私に声をかける。
「なんだ、全然片付けていないじゃないか」
 父は、少し呆れた口調で呟いた。部屋の中は引き出しのペンや箪笥の洋服など、私がゴミに捨てられずに放置した物が、まるでひっくり返したみたいに散乱していた。父は部屋の中を覗くと、床に落ちた浴衣に目を止めた。
「浴衣か、懐かしいなぁ」
 父は低く弱々しい声で呟き、部屋の扉に体をもたれて私の浴衣に見入っている。私は父を見上げたけれど、西日の逆光になるせいで、肝心の父の表情は暗く陰って見えなかった。私はお面以外の物を元の場所に入れ直すと、引き出しを閉めた。
 父の片付けた物置は、私と裕子のタイムカプセルと脚立だけが残されて、後はほとんど空になっていた。さっきまで隠れていた床が三分の二も顔を出している。母の愛用していた体操器具は取り除かれ、翌日の不燃ゴミに出されることになった。
 夕飯を終えた後、私はソファに座る父のそばに腰を下ろし、ビールを飲みながらテレビのバラエティ番組を見ていた。裕子は台所で洗い物をしているところで、部屋の中はカレーの残りの匂いが漂っている。テレビでは、お笑い芸人が最後のクイズに答えられず、タイムアップになって白い粉を全身に被ったところで、スタジオは笑い声でどっと沸き、画面に粉だらけになって吹き出す芸人の顔が映し出される。父はつまみのスルメをちぎって口にくわえて、可笑しそうに吹き出した。私はソファの脚に寄りかかり、ビールを一口飲んで話を切り出した。
「どうして急に片付け始めたの?」
 唐突な問いかけに、父は手を止めて私の顔を見下ろした。それから、片手に持っていたグラスを横のテーブルの上に置くと、座布団を引き寄せて私の隣に腰を下ろした。
「夏の初めの台風の夜だったかなぁ。お母さんがね、亡くなって初めて夢に出てきたんだよ」
 父は咳払いをした後、テレビ画面に視線を戻した。私は父の話を聞き漏らさないよう、注意深く耳をそば立てた。
「お母さんな、新婚旅行のときに乗った京都の川下りの船に、俺と向かい合わせに座っているんだ。周りの景色は白く濁って見えなかったけど、お母さんは背筋をぴんと伸ばして俺を見ていた。それで、いつものきつい口調でさ、私の物をいつまで残している気なの、って聞いてきたんだ」
 父はビールを半分まで飲み干してしまうと、スルメを噛みながら続きを語った。
「とにかく捨てなさい。別に私のことを忘れて欲しいんじゃなくて、いつまでも未練たらしく思い続けてもらいたくない。あなたはこの先、何十年も生きなきゃいけないし、そこに私はいられないんだから、だってさ。お母さんらしい言い方だよなぁ」
 テレビ番組のバラエティが終わり、短いニュース番組に変わる。ちょうどCMから切り替わるタイミングで私が黙りこんでしまい、部屋の中に静けさが漂った。父はグラスの周りについた水滴を指ですくい、曇りがかった表面を執拗に撫でていた。
「それで、家の中を片付ける気になったの?」
「ああ。お母さんなりに、俺にちゃんと前に進めって言っているんだと思ってな」
 私の問いかけに、父は肩を落として頷いた。
 女性キャスターは一日のニュースを淡々とした声で読み上げる。台所の片付けを終えた裕子が蛇口をぎゅっとひねると、部屋の中に先ほどよりもテレビの音が目立ってひびき始める。父は腰をあげて台所に行くと、冷蔵庫から新しく冷えたビールを一本取ってきて、空になったグラスに注ぎ足す。
 私は居間の窓から外を見つめて、まもなく公園の祭りが始まる時間になることを思い出した。それから、私は先日の公園で見かけた、父によく似た背格好の男性のことを思い出した。
「お父さん、夜中になにか変わった音を聞いたことはない?」
「音?」
 父は私の顔をちらりと見上げ、額に深く皺を寄せた。
「ううん、なんでもない」
 私は父から目を逸らして首を振ると、おもむろに立ち上がる。父にこれ以上聞くのは止めたほうがいい気がした。それから、台所から裕子が入るのと入れ替わりに居間を出て、スカートのポケットに携帯電話を入れると玄関の外に出た。

 毎晩祭りを見にいくせいで、起床時間が午後を回る日が続いた。昨夜、今まで以上に長く公園に滞在したせいで、私がようやく重たい体を起こす頃になると、外の日差しはすでに和らいでいた。
 台所では、裕子が食卓の椅子に腰掛けて、居間のテレビを眺めていた。右腕には実香を抱えて、夕方のワイドショーのチャンネルを気ままに変えている。私が台所に入っていくと、裕子はリモコンをいじる手を止めてこちらを振り返った。
「お姉ちゃん、やっと起きたの」
 裕子は私の姿を目にとめると、溜め息混じりに呟いた。
「ごめん。すっかり眠っていたみたい」
「毎晩夜遅くまで起きて一体なにしているの?」
 裕子は声を荒げるでもなく静かな調子で尋ねた。私はどう返答するべきか悩み、台所の入口に立ちつくす。
「私、気づいているから。実家に帰ってきてから、毎日お昼過ぎまでずっと眠っているし、夜中は部屋から物音一つ聞こえないから」
「仕事のメールを見ているのよ」
 裕子は私が外に出ていることに気づいてないと知ると、私は咄嗟に返事をして、裕子の顔を見ずにテレビに目をやった。
「本当に?」
「もちろん。来週、東京に戻ったらすぐに仕事が溜まっているからさ」
 私がそう答えると、裕子は少し納得したように「ふうん」と呟き、テレビに視線を戻してしまった。
 裕子の左腕には、心地良く眠る実香が抱かれている。
 実香は、ちょうど食事を終えた後なのか唇をもぞもぞと動かして、満足した表情を浮かべていた。裕子は居間の壁にかけた時計を見やると、思い出したように立ち上がり、実香をカーペットの上に横たわらせる。それから、ソファの上に畳んであるブランケットを体の上にかけ、扇風機の設定を弱に切り替えた。
「玄関マットの洗濯がちょうど終わったはずだから、ベランダに干してくる。もう日は落ちたけど雨は降らないと思うのよね。お姉ちゃん、実香をちょっとだけ見ていてくれない?」
「うん、わかった」
 裕子は私に実香を頼むと、居間から出て階段を上がっていった。私はカーペットの上に座りこみ、心地良さそうに眠る実香の顔を覗きこんだ。
 実香の顔は、幼い頃の裕子に似ている。
 二重の幅が広くはっきりと目立ち、長い睫毛は頬にまっすぐ落ちている。頬は赤く火照って膨らんで、唇が艶やかに光っている。ボタンで留めたつなぎから伸びる手足は、動かすのも苦しそうなほどふくよかで、体のどこを支えても簡単に壊れそうに見えた。私は実香の温かい額に触れて、柔らかい産毛を撫でつける。
 すると、実香がぱちりと目を覚ました。いきなり泣き出すのかと思いきや、私の顔を見るなり頬を持ち上げ、私に初めて微笑みかける。その顔が一瞬、幼い頃の裕子と入れ替わった。まるで裕子が私に笑いかけ、抱きしめてもらおうと両手を伸ばしてくるように見えた。私はあまりに驚いて、後ろに身を引いた。
 太鼓の音がどこからともなく、居間の中に流れこんでくる。
 体の内側に低くひびくような聞き慣れたリズムは、間違いなく盆踊りに流れる曲だった。私はすぐに気がついたけれど、毎晩祭りを見ているせいで、頭がまだ寝惚けているのかもしれないと思い、初めのうちわざと聞こえないふりをした。しかし、いつまで待っても音が止まないので、部屋を見渡して音の出所を確認してみると、どうやら窓の外から聞こえるようだった。
「あっ」
 実香が声をあげて右手を宙に伸ばす。私が左手に持っていたお面に触れようとしているようだった。
「これ、興味あるの?」
 実香が駄々をこねるように手を伸ばすので、私はそれを実香に近づけて顔の上に重ねてみる。実香のちいさな顔の輪郭はあっという間に隠れて、肌色が剥がれかけたキャラクターの顔に覆われる。その瞬間、二つの目の穴から見える実香の瞳が、今にも泣き出しそうになっているのが見えた。実香は真っ赤な口を開いて、大声で助けを呼ぶように腹の底から泣き叫んだ。
 太鼓の音が、もう一度つよく鳴った。
 すると、実香は突然窓の外に顔をむけて、寝返りを打ってうつ伏せになると、おもむろに腕を動かして体を前に進める。実香は太鼓の音に誘われるみたいに、庭に面した居間の窓を目指し始めた。
「そっちはだめよ、実香ちゃん」
 私は慌てて腰をあげて手を伸ばしたけれど、咄嗟のことに実香の体まで届かない。私が立ち上がるよりも早く、実香が窓枠に右手をかけた瞬間、さっきまで閉めていたはずの窓ががらりと開いた。
「ちょっと!」
 私の後ろから、裕子の怒鳴り声が聞こえた。
 裕子は居間に走りこみ、実香に駆け寄って両腕で抱きかかえる。二人がその反動で後ろむきに座りこむと、裕子は背中をテーブルの脚につよく打った。部屋の中で鳴り続けていた太鼓の音は、いつの間にか止んでいて、窓からは代わりに熱風が吹きこんできた。
「お姉ちゃん、なにしていたの?」
「ごめん」
 私は裕子に慌てて頭を下げて謝った。実香は裕子の腕の中ですっかり怯えて、耳まで真っ赤にして泣き叫んでいる。裕子のシャツに必死でしがみつき、下着が見えそうなほど引き下ろす。裕子は落ち着かせるために実香の頭を撫でつけ、立ち上がって背中を軽く叩いてやった。実香がようやく泣き止んだところで、裕子は床に座りこんでいた私をきつく睨んで見下ろした。
「あのさ、実香を可愛がって欲しいとは言わないよ。でも、実家に戻ってきているときくらい協力してくれてもいいじゃない。さっき、実香を見ていてってお願いしたでしょう」
「そういうつもりじゃないのよ、さっきはね」
 私が裕子の言葉に口ごもると、裕子は深く溜め息をついた。
「私、お姉ちゃんは実香が生まれたこと、もっと喜んでくれると思ったのよ。お母さんが亡くなった後、実香のおかげで家の中も賑やかになって、お父さんもずいぶん元気になったしね」
「お父さん?」
「そうよ。実家から長く離れていたから、なにも知らないでしょう。お父さん、私と旦那はもちろん、春子叔母さんとだって、何年もまともに口を聞かなかったのよ。でも、実香が生まれて実家に顔を出すようになってから、お父さん、本当に見違えるほど元気になったんだから」
 裕子は実香を抱き直し、開けっ放しの窓を閉めた。
 以前、春子叔母さんから、父は母を亡くして何年も元気がなかったと聞いたことがある。でも、私は実家を出ていたから、父の様子を実際に見たことはない。父が以前よりも更に痩せてしまったことは、今回帰省してから初めて知った。私は下唇を噛んで、窓の外に見える庭の草木に目を移した。
 すると、さっきまで部屋の中にひびいていた、太鼓の音のことを思い出した。
「あのさ、さっきなにか音が聞こえなかった?」
 私の問いかけに、裕子は眉をひそめて首をかしげる。
「え? 聞こえなかったけど。おかしなことばっかり言わないで」
 裕子はわざとらしく大声で聞き返し、実香を抱いて和室の奥に引っこんだ。ベビーベッドが軋む音がして、玩具の賑やかなメロディが流れ始める。同じ曲が三回繰り返された後、実香はようやく落ち着きを取り戻し、眠ったみたいだった。
 さっきの祭りの音は、たしかに実香に聞こえていた。お面を被せたとき、実香にもなにか見えたのだろうか。その先の世界には、実香はまだ生まれていないと言うのに。
 私は古びたお面を手に持ち、玄関の扉を開けて外に出た。

 外の景色は全体的に青みがかり、まもなく迎える夜の色に移ろうとしている。頭上を見上げると、分厚い雲の群れが一面に広がっていた。私は通りを曲がって坂道まで来ると、辺りにだれもいないことを確認して、顔にお面を当ててみる。すると、やはり以前と同じように、目の前の景色が変わって見えていた。
 坂道沿いに建っていた、取り壊されたはずの長屋の家が蘇る。庭には家を囲む草木が生い茂り、主人と思われる男性が水を与えている。住宅街に増えた新築の家々は跡形もなく消えて、友達の住んでいた一軒家には、以前と同じ水玉模様のカーテンが揺れる。空き家が増えたはずの住宅街のあちこちから、子供たちの賑やかな笑い声が聞こえてきて、それはまさに私が子供の頃に見ていた、懐かしい故郷の景色だった。私はお面を被ったまま、夢中になって町中を歩き続け、駅前の商店街まで足を踏み入れる。すると、閉店したはずの本屋も、視界の中で見事に蘇るのだった。
 本屋の店先に、店主の奥さんが顔を出す。天井まで続く本棚には文庫本がぎっしりと並べられ、その下に雑誌が崩れ落ちそうなほど、山積みになっている。店先の手前に、私が小学生のときに毎号読んでいた漫画の冊子が目に入る。表紙には、お面と同じアニメの主人公のキャラクターが片目をつむってVサインを決めている。店の奥さんは私に気がつくと眼鏡を外し、両手を振って明るい声を出した。
「おかえりなさい、美和子ちゃん」
 私は奥さんにむかって手を振り返す。後ろから奥さんの声を聞きつけて出てきた店主が、私の顔を見ようと目を細める。私は通りを進みながら手を振り続け、後ろに過ぎ去る本屋を名残惜しく眺めた。
 商店街の大通りを進むと、小径の先に田村君のお父さんの姿が目に入った。おじさんは町内会の人たちとお揃いの祭りの法被を着て、カウンターの席に腰掛け、なにやら愉しそうにお喋りをしている。頭にタオルをぐるりと巻き、日焼けした胸にサラシを回して、足は白い足袋に下駄を履いている。
「お、ひさしぶりだなぁ。元気にしていたかね」
 田村君のお父さんは、私に気がつくと椅子から立ち上がり、店の入口から顔を出す。胸の前で組んでいた腕を外し、右手を軽くあげた。おじさんの両足は逞しく、威勢のいい声にも張りがある。お面が落ちないように顔の前に右手を添えて、私は大声をあげた。
「元気よ。おじさんも元気そうね」
 私が反対の手を振ると、おじさんは照れくさそうに微笑んだ。
 商店街の通りには、小学校のときによく遊んだクラスの女友達、中学のときに通学路を一緒に歩いた子も、あの頃と変わらない姿で歩いていた。彼女たちはランドセルを背負い、あるいはお揃いの制服を着ていて、私を見つけると驚いたように目を丸くし、両手を振ってくれた。私は道を進むにつれて子供時代の自分にどんどん戻っていき、懐かしい顔ぶれと挨拶を交わし、あまりの嬉しさに勢い良く駆け出した。
「川村さん」
 角を曲がる手前で、聞き覚えのある声を聞いて振り返る。すると、そこに立っていたのは、幼い頃の田村君だった。田村君は町内会の人とお揃いの法被を着て、長すぎる丈を腰に合わせて紺色の帯を締めている。ひょろりとした細い手にタオルを握りしめ、もう一方の手を私に差し出した。
「さあ、盆踊りに行こう」
 田村君はおじさんを真似してタオルを頭に巻くと、私の伸ばした右手をつよく引っ張った。私も彼の誘いに頷いて、田村君の後について公園へと走る。私たちは商店街を通り抜けて、実家の近くまで大通りをまっすぐに歩き進めて坂道を登り、公園の入口まで辿り着く。田村君は柵を跳び越えて中に入ったが、私はそこで慌てて彼の手を離し、柵の手前に踏みとどまった。
 公園の中は、まもなく盆踊りが始まるところだった。
 提灯の灯りが灯り、屋台には鮮やかな水風船が浮かび、浴衣を着た子供たちが櫓の周りに駆け寄って、ふざけて押し合いながら輪をつくる。大人たちは田村君の叩く太鼓の合図にお喋りを止め、立つ場所を決めると、櫓の上を見上げて音楽が始まるのを待った。輪の中には、さっき通りで見かけた小学校の同級生や、当時の担任の先生も混ざっている。先生は、今では母と同じくらいに歳をとったはずなのに、その姿は私が記覚えている通りに髪も肌も若い頃のままだった。
 担任の先生から少し後ろに、私は裕子の姿を見つけた。
「お姉ちゃん、早く、始まっちゃう」
 裕子が私に気がついて、右手を高くあげて輪の中から振ってくる。体を軽くジャンプさせて、水色のひらひらした帯を揺らす。そのとき、裕子が今まで別にいたはずの幼い頃の私にではなく、公園の外側から眺める私自身に声をかけているのに気がついた。私はお面が落ちないように手で当てて、公園の中に目を凝らした。
 裕子のすぐ後ろには、焼きとうもろこしを頬張る父の姿が見える。首からカメラをぶらさげて、私の姿を見つけると手を振り、右目の前に構えようとする。父がちょうどシャッターを切ったとき、後ろから髪を結わえた母が現れる。母は浴衣の襟元を伸ばして正し、前髪を掻き上げる。それから、長い腕をおおきく伸ばすと、手のひらをぱんと叩いて広げた。
「ほら、美和子。こっちにおいで!」
 母は私の名前を呼んで、目尻をさげて穏やかに笑いかける。公園を彩る提灯の灯りが降り注ぎ、母の赤らんだ頬は橙色に色づいている。母の腰辺りに裕子が抱きつき、二人は私のほうを見ながら、おいで、おいで、と手招きする。
 私は思わず家族のそばに駆け寄りたくなり、公園の柵の内側に腕を伸ばした。
 そのとき、真後ろから唐突に男の低い声が聞こえた。
「川村さん、なにしているの?」
 私は声をかけられて驚き、右手に持っていたお面を地面に落とした。慌てて振り返ると、後ろに立っていたのは田村君だった。それは櫓の上で太鼓を叩く幼い頃の彼ではない、私と同じ歳になる田村君本人だった。さっきまでの子供姿とは違って、私よりもずっと背が高く、腕も足も、どこも逞しくなっていた。
「どうしてここにいるの」
「さっき、商店街の通りから川村さんが出ていくのを偶然見かけたんだ。少し様子がおかしかったから、慌てて店を閉めてついてきたんだけど。そのお面って一体なに?」
 田村君は眉をよせて、地面に落ちたお面を指さした。私は慌ててお面を拾い、体の後ろに隠した。
「子供のときに被っていたのが、部屋の箪笥から出てきたの」
 私はそれだけ言うと口を閉じざした。公園の中から、太鼓の音が聞こえてきたのだ。
 私の後ろでは、盆踊りがちょうど始まったところだった。太鼓がひびきわたり、鈴の音が甲高く鳴る。笛の音が重なって音楽が心臓にずしり、ずしりと押し迫る。母と裕子は輪の中に混ざり、はしゃぎながら音に合わせて踊り始めた。全員が手を叩くと、一歩前に進んで輪が回る。私は公園の中を振り返って、祭りの様子に釘付けになっていた。田村君は私の後ろに立ったまま公園の中を見渡し、すぐに目を伏せた。
「田村君は、公園でなにか起きているかわからないの?」
 私の言葉に、田村君はちいさく溜め息を漏らした。
「櫓の上に俺の親父が立っているんだろう」
 田村君は柵に手をかけ、もう一度公園の中を見つめた。
「しかも、親父がまだ足腰もしっかりして、ぴんぴんしているときだ。隣には小学生の俺もいる。なあ、俺にだってわかるんだよ」
「このお祭りに気づいていたの?」
 田村君は公園に背をむけて、私に話し続ける。
「去年の同じ盆の頃、俺はこの公園で親父を初めて見かけたんだ。最初は驚いたし、川村さんと同じように何度も見に来た。君のお母さんも、同じ公園にいたよ」
「それなら、田村君はどうしてもう見に来ないの?」
「だって、あれは本当の親父じゃないんだよ。たしかに元気なときの親父そのものだと思う。でも、家に帰るとさ、親父は店の二階で寝たきりになって、俺の帰りを待っているんだ。公園の中にいる親父は昔の姿であって、今生きているのは目の前にいる本人に変わりない。それに気づいてから、ここに来ることをやめたんだ」
 田村君は頭に巻いたタオルを外し、首を軽く振った。
「川村さんは、なにがそんなに嫌なの?」
 彼の質問の意味が理解できずに、私は思わず口を閉ざす。
「君がこの祭りを毎晩取り憑かれたように見に来るのは、お母さんに会いたいからだと思う。でも、それって亡くなったお母さんにとって嬉しいことなのかな。君は今の家族だっているじゃないか」
「そうじゃないの」
 私は言い返しながら、こぼれ落ちた涙をふいた。
「今の家族に会うために、この町に帰省してきたんだろう」
「違うわ、そういうことじゃない」
「とにかく、今日はもう帰ろう」
 田村君は私の右手を引っ張り、公園沿いの坂道を下り始めた。
 私は公園を振り返り、賑やかな灯りを遠くから眺めながら、田村君に引きずられるように坂道を歩いた。さっきまで手の届く場所にいた母も、幼い裕子も、私からどんどん遠く離れていく。家に帰ったところで、そこに私が望む家族はいない。家族は、公園の祭りの中にしかいなかった。角を曲がって公園が視界から見えなくなっても、祭りの太鼓の音だけは、いつまでも耳の中でこだました。
 実家に帰りつくと、裕子は私を送り届けてくれた田村君を見て驚いた表情を浮かべた。廊下の先の台所に、父が冷蔵庫からビールを取り出す後ろ姿が見えたけれど、父は田村君になにも言わず、濡れた髪をタオルで拭きながら居間へと引っこんだ。裕子は私のことなど見向きもせず、田村君に何度も頭をさげて謝った。ちょうど遊びにきていた春子叔母さんだけが彼を見るなり、「ちょっと、いつお店に行ったのよ」と嬉しそうに私の脇腹を肘で突いた。田村君は家族に挨拶をすませると、商店街の店に急ぎ足で戻っていった。
 台所の流し場には、夕飯を終えた食器が水に浸って溜まっていた。食卓には、ラップをかけた一人前のパスタと、煮物を分けた小鉢が残されている。ミートソースが冷たく固まって、麺は水を吸って伸びきっている。裕子は玄関の壁にもたれかかり、こめかみを左手で軽く押さえていて、私は妹の背中を静かに見つめた。
 居間の壁にかかった日めくりのカレンダーは、十六日を指している。
 明日が終われば、翌日の朝に実家を出て、東京へ戻らなくてはいけない。パソコンのメールには、上司から仕事の連絡がいくつも溜まっていた。途中までやりかかけた仕事の引き継ぎは、机の上にメモを貼り付けてきたけれど、できるなら今すぐにでも会社に連絡をして、早く修正を送らなければならなかった。頭では理解していたけれど、なぜだか一向に返事をする気分にならない。
 東京の一人暮らしの家に、私は本当に戻るのだろうか。
 朝になれば会社に出勤して、休暇中のやり直しの仕事を片付け、深夜遅くにアパートの部屋に帰ってくる。休みの日は溜まった洗濯物を洗い、空になった冷蔵庫に中身を足すだけで、特別に出かける用事もない。友達と会う約束もしていなければ、常に連絡をとりあう恋人もいない。仕事終わりに時々飲みにいく同僚くらいはいるけれど、それは職場の付き合いに過ぎなかった。私は故郷から離れた町で暮らしながら、家族に近いほど親しい人は一人もできなかった。本当は仕事だって、田村君の言う通り選ばなければ、地元で働くこともできるはずだった。
 先週まで当たり前に送っていたはずの日常が、故郷に戻ってきた今となっては、まるで本の中に書かれる、見知らぬ登場人物の人生のように遠く感じられた。それは途方もなく物悲しいものとして、今、私の目に映っていた。

 私にとって、母は子供の頃から一番の身近な女性でありながら、憧れの存在でもあった。
 母は家族の中でも、近所の人たちの前でも明るく振る舞い、そこにいるだけで周りを賑やかにする人だった。実際、英会話の授業に通う主婦の多くは英語を習いに来るわけではなく、母とのお喋りが目的だった。時には英語なんて一言も話さず、ヨーロッパから輸入した紅茶をいれて、甘い洋菓子を片手に雑談するだけの日も多かった。話の内容は、テレビドラマの感想や育児にまつわる笑い話が多かったが、時には深刻な相談も混ざっていた。母はそんなときでも、どういうわけか話の最後になると、教室の中を必ず明るい声で満たすのだった。
 もちろん、母の良いところだけを見ていたわけでもない。
 たとえば、母の発音の教え方はいささか大げさで、舌を飲みそうなほど巻いたり、前歯の裏に舌をつけたりと、生徒たちとお互いのみっともない顔を見せ合って練習することがしばしばあった。その授業を父の塾の生徒が面白半分に覗いては、私は学校でからかわれて嫌な思いをした。
 家にいるときも、ロンドン市街地がテレビに映るたびに、母はこの郵便局の近くには評判のレストランがあるとか、日本人観光客に優しいガイドがいるとか、知っていることを口にする。父はこの手の話に決まって聞こえないふりをするから、私と裕子だけが何度も付き合った。たった数日間の珍しくもない一人旅を自慢気に話す母のことが、私は少しだけ恥ずかしかった。
 私の母は、たしかに完璧な人ではなかったと思う。
 それでも母は、私たち家族にとって欠かすことのできない存在だった。父の塾の経営が立ち回らず家計が苦しくなると、生徒を増やすためのチラシをつくって配ったり、近所の主婦に友達を紹介してもらったりと、思いつく限り手を打った。あるいは、裕子が生意気な口を聞くようになると、頬が真っ赤に腫れるほど叩いて説教をして、私と裕子が喧嘩をしたときは二人の言い分を聞いてから判決を下し、父の機嫌が悪くなると私たちに当たらないよう早めに二階へ避難させるなど、母はいつも家族の間をとりもってくれた。
 母は、家族の間に見えない糸を張り巡らせて、私たちを繋いでくれていた。だから母が亡くなった後、私たちを繋ぐ糸は切れても修復されることなく、途絶えてしまったのだと思う。実家を離れている間に、家族の間に知らないことが少しずつ増えていき、気づけば見知らぬ他人のようになった。だから、私にとって家族と言えば、母が繋ぎ止めていた頃の家族だった。
 私は、子供の頃から母みたいに強い人になりたかった。どんなことがあっても、自分の家族を守れる人。そのことは母にはもちろん、裕子にも友達にも、だれにも言ったことがない。

 翌日の晴れた昼下がり、父に頼まれて和室の洋服箪笥に眠る、母の衣類を整理することになった。
 小学校の入学式に着てきたベージュのジャケット、授業参観のときにだけ出てくる丸襟のワンピース。病院に入院したときに毎日着ていた毛玉だらけのカーディガン。母の服は季節ごとに分けられ、どれも丁寧に畳まれている。私は見覚えのある服を取り出し、父が用意した新しい衣類ケースに一枚ずつしまっていった。箪笥の空いた段には、すべて父の寝間着と下着、靴下を詰めて、それらを入れていた和室の隅に置かれた、別の収納棚を処分することになった。
 最後に一番下の段の奥を引くと、他の洋服の隙間に、見慣れない箱がふと目に入った。箱は底の浅く、長方形の平たいかたちをしている。母のよそ行きの鞄か靴だろうかと開けてみると、そこから出てきたのは、母の浴衣だった。
 浴衣は薄紫色の地に、華やかな大ぶりの花柄があしらわれている。花びらの先は淡い黄色が散って、地の色に明るく映える。浴衣の上に、深紅の帯も折り畳まれていた。それは遺影となった母の衣装であり、真夜中にある公園の盆踊りで母が着ている浴衣と同じものだった。葬儀の前、私と裕子が火葬のときに着せるために探したけれど、どこからも出てこなかった。箪笥の引き出しも開けたつもりだったが、他の服に紛れて見落としたのだろう。私は箱を開けると、母の懐かしい浴衣に思わず手を伸ばして持ち上げた。
 居間からちょうど出てきた父が、箪笥の前に座りこむ私を覗き見た。それから、父は私の手に持つ浴衣を見るなり慌てて目をそらし、わずかに足を後ろへ引いた。
「母さんの浴衣が出てきたのか」
「うん」
 父が確かめるように呟くと、私は黙って頷いた。
「そんなところに隠れていたんだなぁ」
 父はなにか言いにくそうに咳払いをし、わずかに口ごもる。唇の端が乾いて、開いたときに唾がねばつく奇妙な音を立てた。父は居間のカーペットの上に立ち尽くしたまま近寄らず、母の浴衣を見つめていた。
「美和子。悪いんだけど、それだけは見えないところにしまってくれないか」
 父は掠れるような声で呟くと、短い前髪を両手でむしり取るように握りしめながら居間から出ていった。
 私は、父に見えないことを確かめて、母の浴衣を胸に抱き寄せた。浴衣の襟元を両手で広げて、顔にそっと近づけてみる。期限切れの防虫剤の匂いに混ざって、わずかに母の好きだったお香の匂いが残っている気がした。何年も経っているうえに、私もほとんど忘れかけているから思い違いかもしれないが、それはまさしく母の匂いだと思った。私は目を閉じて、浴衣に残る匂いを吸いこみ、母がこれを身に纏い、長い手足をのびのびと伸ばして踊る姿を思い出した。
 そのとき、背後に人の気配がして思わず振り返る。裕子が片付けの様子を見にきたのだと思った。しかし、和室の入口に立っていたのは、公園の祭りで何度も見かけた、浴衣姿の少女だった。
 少女は顔にお面を被り、素足は砂まみれに汚れている。肩まで伸ばした髪が蛍光灯に反射して光り、深爪した指は襖の端をつよく握りしめていた。彼女は何度見ても、やはり幼い頃の私にそっくりだった。
 私は少女が現れたことに戸惑い、手に持っていた浴衣を箱に戻し、素早く床に置いた。少女は私を一度見やると遠慮なく和室に上がりこみ、私のすぐそばまで近づくと、畳の上にしゃがみこんで、母の浴衣に手を伸ばした。浴衣を両手で持ち上げると頬をなすりつけ、母の匂いを嗅ぐように抱きしめる。少女はしばらく身動き一つせず、母の浴衣から離れまいと、力強く握っていた。
「それは、私のお母さんの浴衣よ」
 私が言うと、少女はようやく私に気がついたみたいに顔をあげ、不思議そうに首をかしげてみせる。彼女の唇を開けて呆然とする様子を見るうちに、私は腹が立ってきた。
「あなたはもう充分一緒にいたでしょう。もう、私に代わってちょうだいよ」
 私はおもむろに立ち上がって少女に近づいた。彼女は怯えたように後ずさり、慌てて浴衣を畳の上に落とす。私は足を一歩踏み出して、少女が顔に被るお面を剥ぎ取った。少女は、私をきつく睨みつける。彼女は頬を赤らめて、下唇を悔しそうに噛みしめながら、私の瞳から視線をじっと離さない。
 私は少女のお面を顔に当てて、目の位置を合わせると、彼女を穴越しに見ようとする。すると、さっきまで目の前にいたはずの少女が、どこにもいないことに気がついた。お面を外してみても、彼女はやはり見当たらなかった。
 夜の公園で私の家族を見るたびに、母の隣で愉しげに笑う少女のことが、私は羨ましくてたまらなかった。少女は、時に母からほどけかけた浴衣の帯を締め直してもらい、また時に後ろについて振り付けを教わりながら踊ることができた。母に声をかければ返事が返ってきて、両手を広げておねだりをすれば抱きしめてもらえる距離にいる。私が公園の外側から眺めることしかできない光景の中に、少女は実際に入って、母の温かい体に触れていた。そのため、少女のお面を剥いだとき、彼女の睨んだ瞳を目にして、私は幾分晴れやかな気持ちになった。
 母の浴衣を畳んで父に見えない場所に隠すと、私は箪笥の引き出しを元に戻した。その後、二階の部屋に戻ると、私が箪笥から見つけたはずのお面がなくなっていることに気がついた。お面は、少女から奪った一つだけが手元に残されたのだった。
 部屋を出て階段を下りると、廊下の電気はまだ消えたままだった。居間から明るい光が漏れて、テレビの音が騒がしく聞こえてくる。台所に入って居間を覗いてみると、裕子がソファの右端に座って、膝の上でぐっすりと眠る実香の髪を撫でていた。私が入ってきたことに気がつくと、裕子はテレビのボリュームをちいさく落とした。
「お姉ちゃん、もう夜中に外を出歩くのやめてよ」
 裕子はテレビの画面に顔をむけて、呆れたように溜め息をついた。
「え?」
 私が突然の質問を理解できずに聞き返すと、裕子は眉をひそめて、こちらを振りむいた。
「私、ちゃんと知っているんだからね。お姉ちゃんもういい歳なんだし、ご近所から見ても恥ずかしいんだよ」
 裕子は実香の頭に乗せていた右手をこめかみに添え、視線を床に落とした。
「でもね」
 私は裕子に途中まで言いかけたところで口を閉ざす。盆踊りのことは、なにも知らない裕子には言わないほうがいいかもしれない。裕子は実香をソファに寝かせると、黙ったまま答えない私に痺れを切らして立ち上がった。
「それ、いつも手に持っているお面なんなの。子供のときの玩具よね。なんでそんな物を未だに持ち歩いているの、信じられない。お父さんだってお姉ちゃんのことを心配しているの。おかしなことするのは、もうやめてちょうだいよ」
 裕子は私の声など耳に入らないみたいにまくし立て、悲鳴に似た声を出す。私は裕子の辛辣な言葉に、息をぐっと呑んだ。
「裕子、昔はそんなにきつい言い方しなかったのにね。小学生のときは、あんなに私について回ってばかりだったのに」
 裕子は私の言葉を聞いて、はっきりと聞こえるほど大げさに溜め息をついた。肩の力をわざとらしく抜いて落とし、首を斜めにもたげている。
「お姉ちゃん、家に帰ってきてから子供の頃の話ばっかりだね。私、お姉ちゃんは会社の仕事も頑張っているみたいだし、実家に帰ってこないのも仕方ないと思って許していたの。それなのに、どうしてこんな大人になって、子供みたいなことばかり言うの?」
 裕子は実香の汗で濡れた髪を撫でて、片耳に流して整える。
「いつまで子供のままでいる気なのよ」
 裕子は私の目を見据えて、堪えきれないように唇を歪ませるとテーブルの端を拳でつよく叩いた。卓上カレンダーが床に落ち、がたん、と思ったよりもおおきな音がひびく。その音に驚いたのか、実香が目を覚まして泣き出した。裕子は泣きじゃくる実香をソファから抱きあげ、和室の奥のベビーベッドに連れていった。私は裕子に言われたことを頭の中で反復しながら、食卓の椅子に座ってもたれかかる。私が子供に見えるのは、きっと私が一人身だからで、裕子が昔の家族のことが気にならないのは自分の家族がいるからだった。
 閉めきった窓に耳をすませると、ちょうど太鼓の音が聞こえてきたところだった。

 夕方近くになると、田村君から電話がかかってきて、赤提灯の居酒屋へ出かけることになった。明日の夜に東京へ戻ってしまうから、今日のうちに挨拶をすませておきたいと思っていたところだった。私は着替えて支度をすませると、すぐに家を出た。
 店の入口を開けようとすると鍵がかかっていて、窓から中を覗いて見るとだれもいないようだった。しばらく入口に立って見回していると、上から声が聞こえてきた。
「二階にいるよ。ちょっと上がってきて」
 田村君は二階の窓から顔を出し、右側の階段を指さした。店の脇には田村君の自宅に続く階段がある。私は階段を昇り、玄関の扉を数回ノックした。
 玄関をあがると、右手には広い台所が見えた。壁沿いには業務用らしい巨大な冷蔵庫が二台置かれている。シンクには下ごしらえを終えた具材がラップに包まれていて、冷蔵庫の横にも瓶づけにした酢の物も整然と並べられていた。正面に続く廊下の先に向かい合わせの部屋が二つあり、田村君はそのうち左側の部屋に入り、私に手招きをする。古い造りの家は傷んでいるのか、歩くたびに床がみしりと軋む音がした。
 和室の中を覗いてみると、そこには田村君のお父さんが横たわっていた。六畳の和室には、窓際の壁に小型のテレビが置かれ、中央に布団が一組敷かれている。他は、反対側の壁に箪笥が二つと座卓があり、机の上に畳まれたままの新聞が何枚も重なっていた。部屋を見渡す限り、どうやらお父さんの寝室らしかった。
 田村君のお父さんは瞼を半分開け、つけっぱなしのテレビに顔をむけていた。おじさんがほとんど身動きをしないので、眠っているのか起きているのかはわからない。手足はすっかり細くなっていて、パジャマから伸びる足の甲は血管が浮き出ていた。子供の頃によく見かけた元気なときと、同じ人だとは思えないほど痩せていた。
「父さん、川村さんがきたよ」
 田村君が隣に座って声をかけると、おじさんの目線がわずかに動き、私と目が合った。私が頭をさげると、顔を動かさずに窓のほうに視線をもどした。
「ごめんな。きっと驚かせただろう。川村さんは俺たちが小学生の頃、まだ元気だったときの親父の姿しか覚えないよなぁ。親父もすっかり歳を取ってしまって、今じゃ思うようにも動けないんだよ」
 部屋の机の上には、飲み薬と水を入れたコップ、貼り薬が並べて置かれていた。薬は一つずつ切り分けられ、曜日を記したピルケースに入っている。そばに空になった薬のゴミが散らばり、コップは唇の跡がわずかについていた。
「田村君が面倒をみているの?」
「そう。俺は親戚で唯一の一人っ子だったから、親の面倒は自分で見るって昔から決めていたんだ。だから、いずれは親父の店を継ぐことも考えていたし、大学を出た後、関西に残れなかったことも仕方ないと思っている。でもなぁ、ちょっとだけでも良いから、親父から仕事を習う時間が欲しかったな」
 田村君は目を伏せて話しながら、お父さんのはみ出た手足に布団をかけ直す。
 部屋の窓際では、古びた薄緑色の扇風機がぎこちなく音を立てて回っている。店の周りは随分賑やかになってきたようで、窓から外の騒がしい声まで入りこんでくる。
「どうして私にお父さんを会わせてくれたの?」
「川村さんには知ってもらいたかったんだ。公園の盆踊りにいる人たちは、過去の人なんだってこと。今、俺たちの目の前で寝ているのが、本当の親父なんだ。うちの親父は、最近ずっとこんな感じで外にも出られないんだよ」
 田村君は部屋の中をぐるりと眺め、一度目を伏せた後、隣に座る私の顔を見つめた。
「川村さんがこれでもまだ見に行きたいなら、俺はもう止められない。もちろん、俺だって気持ちはよくわかるよ。でも、目の前の家族を見捨てることは違うと思うから」
 田村君は喋り終えると静かに口を閉ざし、畳の上に座ったまま動かなくなった。さっきまで饒舌に話していたのが嘘みたいに、一言も発さなくない。田村君は手足の指先も、唇も動かさず、瞬きすらほとんどしなかった。額のタオルにかかる茶色い前髪だけが扇風機の風で揺れていて、まるで彼が死んでしまったようにさえ思えた。田村君の隣にしばらく座っていたけれど、私は足が痺れてきて立ち上がった。
「私、もう帰るね」
 部屋の襖を引いて声をかけたが、田村君はなにも言わなかった。

 店の外に出てみると、さっきまで明るかったはずの空は日が落ちていた。辺りの景色は徐々に青みがかかり、まもなく夜を迎えようとしている。私は大通りに引き返しながら、呼吸を整える。空気が熱と湿気で重たくなっていて、息を吸うたびに苦しくなって何度も吸い直した。
 商店街の大通りに差しかかったところで、コンビニの入口に父の姿を偶然見つけた。私は声をかけようと右手をあげたけれど、父を見ているうちに、思わず下ろしてしまった。
 縦長く狭い店内は混み合っていて、父はレジでなにかを買おうとしているようで、後ろには数人の若い客が並んでいた。父は財布の小銭を出すのに手間取って、余計に焦ったのかいくらか落としてしまったらしかった。店員は父から目を逸らし、後ろに並ぶ数人の客の様子を横目で見ながら、支払いを待っていた。父は申し訳なさそうに店員と客に何度も頭をさげ、床に落ちた小銭を拾い、画面の支払金額を確かめて出していた。白髪交じりの短い髪にサンダルを突っかけた父の姿は、夜の公園で見ていた父と比べて別人のように私の目に映った。
 母が生きているとき、父が外で買い物をしている場面をほとんど見たことがなかった。近所のスーパーに食材を買いにいくのは母の役割で、父は時々酒屋で酒を頼んで買ったり、家電製品や、誕生日プレゼントなどの高い買い物をしたりするときに出てくるだけだった。外食にファミレスへいくときも、盆踊りの祭へいくときも、母が半ば強引に父を引っ張って、家族がスムーズに動けるように率先して動いていたのだ。子供の頃、帳簿を前に険しく眉を寄せていた父は、いつの間にか町中でよく見かける頼りない年寄りの一人になっていた。
 もし母が生きていたら、母も父みたいに歳を取っていたのだろうか。子供の頃、私は自分の両親が老いることなど一度も考えたことがなかった。母の見た目は、同年代の保護者と比べて若かく見えたし、隣にいる父も同じだった。しかし、実香をあやす父の姿はそれそのもので、私は父を見るたびに、母が生きていたら同じだったかもしれないと度々考えた。
 母は入院している間、毎日できないことが一つずつ増えていった。初めは、ペットボトルのキャップを開けることから始まって、箸を使ってご飯を食べること、自力で体を起こすことと続き、最期の二ヶ月は診察室までの長い廊下を歩くことさえできなくなった。私は母に手を貸しながら、目の前にいるのは私の母親ではないと、心の内で思うようにしていた。今は母によく似た別の人の世話をしているだけで、私の母は以前と同じ元気な姿でどこかで暮らしていると考えた。そう思うだけで、私の心は一時的に静まるのだった。
 しかし、母が病気にならなかったとしても、父と同じように歳を重ねると、やはりできないことは増えたのだろう。体が言うことを聞かないならまだしも、母とは思えないことだって口走るかもしれない。私は瞼をぎゅっと閉じて、祭りの中で踊る母の姿を思い浮かべた。私はあの頃の母に会えるなら、当時の幸福な家族の中に戻れるなら、夢でも良いから叶って欲しかった。
 父に声をかけず、私は実家までの道のりを歩いた。

 子供の頃、テレビのニュース番組で、海外のミサイル実験やテロによる爆撃が報道されるたび、私と裕子は決まって母のそばに寄り添った。テレビの中で映し出される光景は、私たちの住む町からは遠い場所のことだったが、その生々しさはテレビの映像を通して伝わってきた。明日、もしも地球が滅んだら、ミサイルが落ちてきたら、テロに遭遇したら。そのときの私と裕子は、テレビや学校の授業で知る「もしも」を口にしては、母にとりなしてもらうのだった。
 母はその度、居間のソファの真ん中にどすんと腰掛け、両隣で怯える私たちに微笑みかける。それから、両手を広げて二人を胸に引き寄せると、よく聞こえるように耳元でこう答えた。
「もし二人になにかあってもね、ママがこうやって守ってあげるから。美和子も裕子も怪我をしないように、無事でいられるように。ママがちゃんと庇ってあげるから安心しなさいよ」
 母の声はしっかりとしていて、体につけた耳の奥までよくひびいた。
「ママの肩が広いのは、あんたたちを守るためなの。だから、二人ともちゃんとママのそばにいるのよ。どこにいるか分からなくなっちゃうから、絶対に離れないでちょうだい」
 母の口元は、冗談を言うときみたいに笑っていたけれど、その落ち着いた声色から、至って真剣に答えていることが窺えた。
「じゃあ、お母さんがもし死んじゃったら、私たちはどうなるの?」
 臆病な裕子は、母の腕を揺すって聞き返す。
「なにを言い出すのかと思ったら」
 母は裕子の言葉に、天井を見上げて吹き出した。
「私はたとえ天国に行ったとしても、いつでもこーやって目を見開いて、二人のことを見守っているわ。天国ってたしかそういう場所なのよね。絵本でも読んであげたでしょう。好きなときに好きなところにいけて、好きなだけ家族が見ていられる。それなら、もし早く死んでも悪くないわよねぇ」
 母はふざけて両目を指でおおきく広げてみせて、最後は独り言のように、しみじみと呟いた。裕子は嫌そうに母の肩を両手で叩きつけ、瞳を潤ませた。
 あのとき話したように、母は今どこからか私たちを見ているのだろうか。私のことも、裕子と実香のことも、母と暮らす頃より随分歳をとってしまった父のことも、その目で見ているのだろうか。
 母が息を引き取った直後、私は目に見えない母の愛情や視線を全身で感じることがあった。それは母が生きているときには味わえない、不思議な感覚だった。会社の昼休みに休憩室のパイプ椅子に座ってお弁当を食べているとき、一人暮らしの部屋で眠れずに本を読んでいるとき、急に心細くなったときなどに、私は時々そこにいないはずの母の気配を、肌にひしひしと感じた。今回帰省して夜の公園で母と出会い、輪の中から手を振られたとき、私は同じことを感じたのだった。
 公園の中に見えるのは、母が見えない糸でうまく繋いでくれていた頃の家族だった。私がまだ小学生で、裕子の背丈が私よりずっと低い頃、私たちをまだ家族と呼ぶことができた、幸福な過去の時間だった。普段は目に見えないけれど、母が帰ってくるお盆の間だけ、きっと私にもあの頃の家族が見えるのだろう。

 夜を迎えても、空は不思議と明るくなっていた。
 私は二階の部屋で浴衣に袖をとおし、鏡を見ながら帯を締める。さすがに丈が短く、腕も足も出てしまう。紐が解けてしまわないように、きつく結ぶと、襟元を正して窓の外を眺めた。
 薄暗い紺色に包まれた夜景に、明るい黄色の光がまっすぐ道沿いに伸びている。灯りは公園のほうから坂道を下って、長々と続いている。あたりには太鼓と鈴の音がひびいて、陽気なうたが聞こえる。お揃いの白い浴衣を身にまとい、片手をひらひらとあげながら、踊りの列が行進している。私は窓に駆け寄って行列を見つめた。
 列の先頭は、小学校のときによく遊んだ同級生の女の子たちが並んでいる。中央に男たちが御輿を担いでいて、その上に幼い田村君が乗っている。男たちの盛り上がりに、田村君は御輿から時々振り落とされそうになりながら、必死で掴まって太鼓を叩いている。そこから三分の二ほど後列に、母の姿が見えた。隣には、以前いたはずのお面を被った少女の姿はない。裕子と父を連れ添って、母は家族を引っ張っていく。人々は四列に並んで踊りながら、陽気な声でうたっている。公園から抜け出した行列は坂道を下り、商店街の方角にまっすぐ進んでいく。
「お母さん、待って!」
 私は思わず、母にむけて叫んでいた。すると、私の声が届いたのか、母は周りをきょろきょろと見渡し、背を伸ばしては私のことを探し始める。お母さん、私はここにいるわ。私は慌てて家から飛び出して、坂道を上がり、行列が見えた方向に走っていった。
「お母さん、お母さん」
 私が母のことを口にするたび、私の手足は縮み、体はちいさくなっていった。行列を見つけると列の端を走りながら、母の姿を探した。すると、人波に紛れた中に母の顔がようやく目に入る。私は浴衣の人々を押し避けて、母のそばに駆け寄った。視線がどんどん低くなり、母の近くまで辿りつく頃には、母の顔は見上げるほど高くなっていた。
 私は列に並ぶ人たちの足に躓き、危うく転びかけたところで、母に助けを求めて右手を伸ばす。すると、母は私の顔を見るなりに踊りの手を止めて、私の手をぐいと引っ張った。
「美和子!」
 母が驚いたように目を見開いて、私の名前を呼んだ。私を引き寄せると頬を両手で包みこみ、自分の額をぴたりとつけた。母が私と目を合わせ、満面の笑みで微笑んでいる。ようやく触れられた母の手は、湿っぽくて温かい。それから、母は私を列の隣に立たせて、右手を指さして上にあげるように促した。
 どん。どん。どどん。
 どん。どん。どどん。
 手を左右に高くあげて、後ろに二歩下がる。
 それ。踊れ。踊れ。
 両手をぱんと叩いて、足を前に進める。
 通り沿いの家々の窓が開き、住人たちが賑やかな続々と顔を出した。彼らは踊りの行列を見るなり驚きの声をあげる。住人の中には、玄関から通りに出て行列の近くまで歩み寄ると、物珍しそうに携帯電話のカメラをむけて写真を撮る人たちも現れた。さっきまで私以外に誰もいなかったはずの通りに、祭りの賑やかな音と歌声を聞きつけて、町中から大勢の人々が集まってくる。
 行列の中で踊る私たちは、彼らに一層美しい踊りを見せようと、指先にまで力を入れる。私はふいに道路の脇に並ぶ観客に目をやり、そこに以前公園の祭りを外から一緒に眺めていた人たちが立っていることに気がついた。
「ちょっと、どこにいくつもりなの!」
 沿道から声を出したのは、先日公園の祭りのときに見かけた女性だった。
 女性は髪を振り乱して行列のそばに駆け寄ると、私にむかって振り絞るように大声を出した。女性の隣には、彼女とよく似た顔の娘らしき人が立っている。娘は女性の肩に手を当て心配そうに様子を窺っている。他に、公園の外側で一緒に見ていた男性たちも、女性の後ろに群がってなにか言いたげに叫んでいる。彼らの声は耳を塞いだみたいにくぐもって、こちらまでうまく届かない。
 私は彼らの言葉が聞こえないのでにっこりと笑いかけ、彼らのいる沿道にむかって手招きをする。こっちにおいで。見てみなよ、私たちがずっと望んでいた踊りの中にいるのよ。あなたたちも早く、一緒に踊りましょうよ。しかし、彼らは私の手招きには応じず、その場に立ち尽くしたまま、だれも踊りに加わろうとしない。
 提灯の灯りが道を照らす中、太鼓を叩く音が速くなる。
 笛と鈴の音がその上に重なって、盆踊りの盛り上がりは、いよいよピークに達しようとしていた。坂道を下りきって角を曲がり、私の実家の前の通りに出る。さっきまで静かだった住宅街に明かりがつき、寝癖をつけた人たちが窓から顔を出し、こちらを見ている。
 家の前にちょうど差しかかったとき、私は裕子の声に気がついた。
「お姉ちゃん、そこでなにしているの?」
 裕子は二階のベランダのフェンスに駆け寄って、私にむかって声をあげた。
「見ての通り、盆踊りよ。裕子も早くいらっしゃいよ。ほら見てよ、ここにお母さんもいるのよ!」
 私は裕子に聞こえるように、お腹の底から声を出して叫んだ。隣の母と目配せし、窓からこちらを見ている裕子におおきく手を振った。母は裕子の名前を呼んだ。裕子は声を聞いて母の姿に気がつくと、顔をゆがませて涙を流した。裕子は窓から身を乗り出し、涙を手の甲で拭いながら、母の姿を追っていた。
 一階の居間の窓からは、父も顔を出していた。
 父は私たちに気がつくと、窓枠に足をかけて落っこちそうなほど腕を伸ばし、母にむけて両手をふった。
「おい、どこにいくんだね」
「素敵な場所よ。家族をずーっと見られるところ」
 母は右手を唇に添えて返事をすると、みんなに見せびらかすように右手を高く伸ばし、父にむけて投げキッスを送った。一回ではなく、二回、三回も続ける。行列で踊る人々から冷やかしの歓声がどっとあがった。狐のお面を被った男たちは、ここぞとばかりに口笛を揃えて、高々と吹き鳴らせた。
「二人ともこっちにおいでよ。さあ、一緒に踊りましょうよ」
 私は裕子と父を踊りに誘ったけれど、二人とも私たちを部屋の窓から眺めているだけで家の外まで出てこない。父は首にかけたタオルで両目をこすり、目を凝らして母の姿に見入っていた。裕子は部屋から眠たげな実香を抱いてきて、実香の片手を握ると母にむかって手を振らせた。母は晴れやかな表情を浮かべて、おおきく手を振った。
 商店街に続く曲がり角まで着くと、美容室の前に田村君が立っているのが見えた。田村君は慌てて出てきたのか息を切らし、その場に立ち尽くしていた。私の踊る姿に気がつくと、行列に慌てて駆け寄って、列から半歩手前で足を止めた。
「川村さん、どうしてそこにいるの?」
 田村君は私にむけて声高に叫んだ。彼の声は太鼓と歌声に掻き消されず、私の耳までちゃんと届いた。
「私、この町も実家も、家族も大好きなの。だから、家族と一緒にいることにしたのよ」
「それなら、今の家にいる君の家族で充分じゃないか」
 田村君の言葉に、私は今度こそ首を振った。
「違うのよ。これが私の本当の家族なのよ」
 私は、最後までうまく伝えられなかった答えを田村君に返した。私の望む家族はここにいる。それから、私は両腕を広げて自分の家族を示した。隣にいる母と裕子も一緒になって、田村君に手を振ってくれる。田村君はそれを見るともうなにも言わず、私たちに手を振り返した。
 私を見送った後、田村君は列の後方で踊る、彼のお父さんを見つけたようだった。おじさんは蟹股の足を揺すって、おおげさにリズムをとって踊っている。太鼓のバチを両手に持って、頭の上で高く鳴らして音頭をとった。御輿の上で太鼓を叩く幼い彼と、おじさんが目配せをして笑い合う。そのとき、田村君が頭に巻いていたタオルを外し、顔を覆っているのが見えた。
 母は、私の隣に立って音に合わせて陽気に踊り続ける。母は炭坑節の歌を自慢の歌声でひびかせた。それは、昔からこの町で歌い継がれた故郷の歌だった。周りの人々の声が重なって、歌はやがて巨大な音の層になる。母は長い腕を宙にあげて、右へ、左へと舞う。私は母に目配せをして、後ろに通り過ぎた実家の方角に手を振った。さようなら、お父さん。さようなら、裕子。行列が進むにつれて、二階建ての実家が離れていき、視界の端から見えなくなる。祭りの太鼓は音を速めて、私は遅れないように必死でついていく。
 さあ、踊れ。踊れ。
 踊れ。踊れ。
 盆の終わりまで踊り狂おう。
 踊りの行進はまだまだ続く。道は次第に明るくなり、まるで真昼みたいに日が射してきた。まもなく海岸沿いに出ると日本海が目に入る。波が反射して眩しく光り、視界の中で提灯の灯りと入り交じる。さっきまで沿道にいたはずの町の住人たちはいつの間にか消えていて、道の先は見えなくなる。
 私たちは、町の外れにむけて歩みを進める。明るい光と太鼓の渦の中心にむけて、陽気に踊り続けていった。

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