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同棲

 

 冷蔵庫からビールを取り出して、後ろを振り返ったときだった。

 さっきリビングのソファに座ってお笑い番組を見ていたケンイチは、豚になっていた。いや、そんなわけがない。あの人は豚を身代わりに、どこかに行ってしまったのかもしれないと思って玄関を見るけど、使いこんだスニーカーは脱いだ跡のまま斜めにずれていて、ソファにいる豚はこちらを見つめて、まるで私を呼ぶように鳴き声をあげた。ブヒ。ブヒヒ。私が出した二本のビールのうち、一本を開けて皿に注いであげると、豚は鼻をつけてご機嫌に飲み干した。

 ケンイチは学部時代からの同級生で、大学院で同じ研究室になったことで親しくなった。私たちが同棲を始めたのは一年半前のことで、私の住んでいたアパートが更新月を迎えて引っ越そうかと考えていた矢先、友人とルームシェアをしていたケンイチが「それなら、二人で暮らさない?」と言い出したからだった。え、まだ結婚もしていないのに早すぎるんじゃないの、と悩んだけれど、一緒にいる時間を増やしたいのは私も同じだった。そうと決まると、両親には友達と住むと嘘をつき、都内でも家賃の高くない各駅停車しかとまらない駅に、一LDKのマンションを借りた。

 最初のうちは、楽しいことだらけだった。共通の趣味であるお笑い番組を欠かさずチェックして、好きなコンビはDVDをまとめて借りてきて一緒に観たし、なにより家事の分担もちょうどよかった。料理が苦手な私は掃除と洗濯をし、ケンイチは料理を担当する。同棲に定番のたこ焼き器も購入して、友達を呼んでみんなでたこ焼きパーティーをしたこともある。すべてがうまくいっていたし、家に帰ってだれかがいることは、長年一人暮らしを続けてきた私をなにより安心させてくれた。

 私たちがすれ違い始めたのは、三ヶ月前の春のことだ。
 ケンイチは博士課程に進んで大学に残ったけれど、私は今年、社会人になった。通勤電車、オフィスカジュアル、ヒール、電話の受け答え、会議の議事録、それに加えて連日の飲み会。会社では気が休まるときが一時もなく、マンションに帰る事にはろくに頭も回らないほどくたくたになっていた。そんなとき、ケンイチは一日中大学にも行かず、部屋にこもって論文を読むくらいで、しかも夕飯をたまにつくる以外にほとんど家事もしてくれないものだから、間抜けな顔を見るたびに腹が立ってきた。なんでこの人はこんなに楽をして生きて、私だけが辛いの。生きて食べるだけなんて、豚と同じじゃない。私はケンイチのつくる油っぽい炒飯を食べながら何時間も仕事の愚痴をこぼし、社会のイロハも知らない彼にもっともらしく説教した。

 それから、ケンイチと喧嘩をするようになった。
 食事の後にフライパンや食器を洗わずに放置することとか、テーブルを拭いてくれないとか、バスタオルは一度使ったらすぐに洗濯機に入れてってお願いしたのにしてくれないとか、そういった些細な生活習慣の違いはずっと気になっていたけれど、できるだけ口に出さず、彼のやり方に合わせてきた。けれど、そのときはもう我慢ができなかった。加えて、親の仕送りとわずかなアルバイトのお金で暮らす彼がどれだけ周りに甘えているのか、自分でも驚くほどの言葉のバリエーションを使って責めた。その間、ケンイチは薄い唇をへの字に曲げて、居心地悪くなったときに必ずやる貧乏揺すりをし、ただじっと私が喋り終わるまで耐え続けた。彼は怒らなかった。私のことを殴り飛ばしたり、物を投げたりもしなかった。なぜなら、ケンイチは弱虫のくせに誠実だったから。

 だから、今日はひさしぶりに仕事も定時に終わったことだし、二人分のビールを買って帰って、ケンイチと一緒にお笑い番組を見ようと思っていた。やっぱり料理をするのは面倒だし、洗い物が増えると揉めてしまうからコンビニのお総菜をつまみに、今日は仕事の愚痴も、怒るのもなしにして、ただ一緒に笑い合いたかった。それならきっと、ケンイチも少しは前みたいに笑ってくれるかもしれない。そう思っていた。

 ケンイチが豚になったなんて、きっと嘘に違いない。

 私はビールを飲み干すと、熱めに設定し直した湯船に浸かって考えた。そうだ。お風呂からあがったら、彼にマッサージをしてあげよう。私は昔から他人の足のつぼを的確に押すのが得意で、ケンイチはそれを痛がりながらも喜んでくれた。痛い、痛い。ああでも効きそう。そのお返しに私も肩くらい揉んでもらって、それで、今夜は別々にしたマットレスをくっつけて抱き合って寝よう。ついこの前、もう触られるのも嫌だって彼の手を払ったとき、さすがに気まずくなってケンイチが寝る場所を分けてしまったから。あのときは本当に良くなかった。隣にいないから、私は謝るタイミングさえつかめなくなった。

 髪を乾かして部屋に戻ると、ケンイチの姿がなかった。でも、さっき酔っ払って眠りこんだ豚もいなくなっていた。代わりにソファに座っていたのは揺り起こし人形だった。人形は笑っている。笑顔とまでいかないけれど、微妙に口角をあげてキープしている。指でついてみると、人形はぐらりと揺れて元通りに戻る。腹が立ったから思い切り殴ってみると、今度は勢い良く跳ね返ってきた。そっか。そうだったね。先週、私が初めて彼に暴力を振るってしまったんだ。ろくに研究室にも行かず部屋にいて、春なのにストーブつけて、スマホゲームばっかりして無駄に電気使いやがって。あんたなんて生きている価値ないんだから。そう言って、私はケンイチの背中を蹴り飛ばした。生まれて初めて、人のことを足で蹴った。今までだれにもしたことないのに。彼のことが嫌いだったわけじゃない。好きで、好きで、どうしようもないほど憎かったのだ。でも、ケンイチはそのときなにも言わなかった。どうして無反応なわけ、それじゃ人形と変わらないじゃない。ほら。立ちなさいよ、ほら、と詰め寄っても、反論することも、怒ることもなかった。彼はただじっと唇を噛みしめて、泣きそうになるのを我慢しながら、私の機嫌が直るまで待ち続けていた。

 部屋の電気を消すと、私は揺り起こし人形になった恋人を抱えて、寝室に入る。別々のマットレスを真ん中にぴったりくっつけて、左側に人形を置き、右側に体をよこたえた。人形のからだはニスを塗っているせいでやたらとつるつるしているから、足のツボを押してあげたけれど、これじゃ効き目がなさそうだ。

 私は彼のことを抱きしめて、力いっぱい抱きしめて、今まで全部ごめんねって正直に呟いた。本当にごめん。それから、付き合いたての頃みたいにお互いの頬をくっつけて、抱き合ったまま眠りについた。今はなにも答えてくれないけれど、どんなカップルにだって倦怠期はあるわけだから大丈夫。明日の朝になったら、きっと、ケンイチは私を許してくれるはずだ。


 

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