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最も澄んだ人 最澄

皆さんは最澄という人に、どのようなイメージをお持ちだろうか。
静かで穏やかな佇まい、懐深く慈悲深い僧らしい僧。
私の中では、そういった最澄像が浮かぶ。

伝教大師最澄の7歳年下であり、ほぼ同時代を生きた弘法大師空海と比べると、何となく地味な存在、というのが正直なところであった。

しかし最澄について学ぶにあたり、彼が19歳で山に籠る時に書いたと言われる願文を読み、いきなりそのイメージが覆された。

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悠々たる三界は純ら苦にして安きことなく、擾々たる四生はただ患にして楽しからず。牟尼の日久しく隠れて、慈尊の月未だ照さず。三災の危きに近づきて、五濁の深きに没む。しかのみならず、風命保ち難く、露体消え易し。草堂楽しみなしと雖も、然も老少、白骨を散じ曝す、土室闇く迮しと雖も、而も貴賤、魂魄を争ひ宿す。彼れを瞻己れを省るに、この理必定せり。仙丸未だ服せず、遊魂留め難し。命通未だ得ず、死辰何とか定めん。

ここにおいて、愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄、上は諸仏に違し、中は皇法に背き、下は孝礼を闕けり。謹んで迷狂の心に随ひて三二の願を発す。無所得を以て方便となし、無上第一義のために金剛不壊不退の心願を発す。

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四六駢儷体という、六朝時代の漢文によって書かれたものだ。
前半で「人生は儚く、どんな人も、やがて死の運命が待っている」という『涅槃経』の思想を示し、後半で「自分は狂ったうちで最も狂った人間、愚かな人間のうちで最も愚かな人間で、何もできない無能力な人間だ」という自己反省を、激烈な言葉で語っている。


最澄の俗名は「広野」という。
近江の国の生まれである。
幼い頃から秀才の誉れ高く、庶民であったにも関わらず、12歳で近江国分寺に入った。

当時、国分寺の僧というのは世捨て人ではなく、現在で言うならば国立宗教大学教授ともいうべき大変なエリートであった。
広野の師は行表といい、近江の大国師(学長)である。
12歳の広野は、行表から礼儀作法、経文の暗誦読誦、筆写等を習う。
15歳で、法華経一部、最勝王経一部、薬師経一巻、金剛般若経一巻、他数巻の経典を諳んじていたという。
その頃、近江国分寺で最寂という僧が亡くなり、その闕を補うものとして広野の得度が認められ、名を最澄と改めた。

15歳の沙弥、最澄が19歳で比叡の山に籠る決心をした背景には何があったのか。

時代は激変の最中だった。
称徳女帝が崩じ、法王の地位にあった道鏡は失脚。
天皇の血統は天智系に戻り、白壁王が天皇の位につく(光仁天皇)。

問題は光仁天皇の後を継いだ、桓武天皇である。

天武の血統が絶え、天智の血統に戻ったというのは、いわば革命といえる。
中国の『緯書』という予言書によれば、辛酉は革命の年であり、その思想を積極的に取り上げたのが天智だった。
天智の即位は661年、まさしく辛酉の年である。
そしてその血を享けた桓武が120年後の辛酉の年に即位した。
桓武自身、これを偶然だとは思わなかっただろう。

桓武が次に目指したのが、建都である。
「泣くよ(794)坊さん、平安京」という語呂合わせを覚えている方もいらっしゃると思うが、まさに僧侶達が泣きたくなるような内容の建都であった。
(始めの建都は長岡京だったが)

平城京の寺院は軒並み旧都に取り残された。


このような時代の流れを、最澄はどのような目で見ていたのだろうか。
これまで順調に僧侶としての道を歩んできた最澄だが、将来に一抹の不安を抱き始めたのではなかろうか。

近江国分寺で得度し、その後東大寺で具足戒を受けるまでの4年間、最澄がどう過ごしたかは謎である。

ここで、最澄の師である行表が、大安寺の伝灯法師位を兼ねていたところに注目したい。
大安寺というのは、始めは百済大寺、藤原京では大官大寺と呼ばれた官立の大寺で、平城京に移ってから大安寺と呼ばれるようになった。
行表は、優秀な愛弟子最澄に、ここで学ぶことを勧めたのではないだろうか。

大安寺は、律と唯識に重きを置く、研究機関であった。
律の注釈書で最も権威あるものの一つ、法励著の『四分律疏』の講義が度々行われており、当時疎かになりかけていた戒律の復興を唱える僧侶も少なくなかった。
唯識は、奈良仏教の主流である。
「我々がものを知るのは、そこにものがあるからなのか、それとも、知る働きを我々が持っているからか」
これを出発点に、ものとは何か、知るとは何かを徹底的に追及していく。
高度に哲学的、論理的な学問である。
他にも「たとえばAを真実とすると、こういう矛盾が出てくる。ゆえにAは真実ではない」という消去法を用いた議論が蜿々と続く。
法相数学とも言われる。

勉学に明け暮れる最澄は、運命の一巻に出会う。
『天台小止観』
天台の宗祖、智顗(ちぎ)によって書かれた止観、いわゆる禅定の手引書である。
これに感銘を受けた最澄は、天台の典籍を片端から読んでいった。
天台大三部の『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』を始めとする、天台教理の土台が全て揃っていたことに、若き日の最澄は、真に自ら欲するところを見つけ、胸を熱くしたに違いない。


最澄が東大寺で無事に戒を受けた頃、近江国分寺は火事で焼失していた。
しかし、自分がまだ僧侶としては若輩者であるという事実を思い知った最澄は、迷わず山籠もりの道を選んだ。
当時は官僧も、その身分のままで山林で修行することが許されていた。
比叡山での厳しい修行が始まった。


一方、時の王者桓武は、蝦夷討伐軍の大敗、日照り続きの上に天然痘が流行し、相次ぐ身内の死、皇太子の病弱等の災厄続きで、打ちのめされていた。
新都長岡京は大洪水に見舞われ、機能停止に陥った。
追い打ちをかけるように、これらの災いは、かつての皇太弟で非業の死を遂げた早良親王の祟りであると、陰陽師から報告を受ける。

桓武は遷都を決心した。
葛野の地が風水において四神相応であるとして、ここに都を置くことに定める。
この時代の風水とは、最新のテクノロジーである。
怨霊から逃げる為の、いわばシェルターとしてこの地が選ばれた。

偶然か必然か、新都平安京の鬼門にあたる東北の方角に、最澄の籠もる比叡山があった。
桓武が最澄に期待した一番の目的は、鎮護国家である。

しかし30歳という若さで桓武の内供奉として取り立てられた最澄が見たのは、立て続けの災厄でやつれた桓武の姿であったろう。
そして最澄は、疲れ果てた桓武を救う術も持っていた。

天台大師智顗にまつわる伝説がある。
智顗に帰依していた陳王室の太子が落馬して死にかけた時、智顗の弟子によって救われた話。(観音懺)
智顗の兄が50歳で死ぬ相があったにもかかわらず、智顗の力で15年生き延びたという話。(方等懺)

懺法というのは、過去の罪を悔い、罪障を除くものである。
「一切の仏法とは懺悔にほかならない」と智顗は言う。

最澄は桓武に語り掛ける。
大懺悔は魂の浄化であり、過ちを認めた時はじめて怨念を逃れ、自由で高度な精神の世界に進むことができる、それこそが真の王者である、と。

そして遂に桓武は詔を発した。
「朕思ふ所有り、宜しく故皇太子早良親王を崇道天皇と追称すべし」
勇気ある決断であった。


もう一つ、最澄がやり遂げた大仕事がある。
桓武と南都(平城京)仏教勢力の融和である。
叡山の一乗止観院の法華十講に、南都の学僧十人を招いたのを機に、桓武と南都の長年の対立は軟化した。

そうした功績を買われて、最澄に又とない話が舞い込んできた。
最澄の憧れの地、唐へ行くことを許されたのだ。
入唐にあたり、最澄には義真という僧侶が通訳としてつけられた。

一回目の渡唐は失敗だった。
難波から出た船は瀬戸内海で暴風雨に遭い、故障してしまう。
翌年、再度船出して間もなく、今度は暴風雨が宮中を襲い、崩れ落ちた殿舎で牛が圧死したという報告を受けた桓武は、「朕、利あらざるか」と弱気な発言をしている。
桓武は丑年の生まれだった。
67歳の老帝は、遂に病に倒れてしまう。

その頃、やっとの思いで唐に辿り着いた最澄は、まず明州の役人に来唐の趣を申請し、天台山に行く許可をもらう。
最澄は天台山で念願の、法華三昧と、法華懺法を体得した。
それから台州で道邃の教えを受け、翌年の春、師から菩薩戒を授けられた。

帰国の船を待つ間、最澄は越州の竜興寺で、高僧順暁から密教の法文を学び、灌頂を受けている。

平安京に戻る途中、最澄は初めて、桓武の病が篤いことを知らされた。
7月に帰京した頃には、桓武の病状は回復の見込みもない状態であり、8月、最澄は殿上で悔過読経した。
桓武の病気が平癒しないので、宮廷は密教の秘法を催促する。
密教は現世利益を第一とする宗教である。
最澄が苦心して身に付けた法華懺法も、日本ではもはや顧みられなくなっていた。

翌3月17日、桓武は崩御した。
最澄の秘法は桓武を救えなかったという事実だけが残った。


桓武崩御の後、皇太子安殿が皇位に就くが、わずか3年で退位し、平城京に戻ってしまう。
後を継いだ神野親王(嵯峨天皇)は平安京に留まり、「二所の朝廷」という異例の状態になったが、結局上皇が剃髪出家して政界から身を引くこととなった。

激動の5年間、最澄は叡山での弟子養成に専念していたと思われる。
しかし気懸りなのは、密教の存在だった。

最澄と同じ船で入唐した空海が、長安青竜寺において、恵果から真言密教を学び、印可を授けられた。
密教関係の法文を多量に集め、華々しい『請来目録』を携えて帰国する。

最澄も密教の灌頂を受けたとはいえ、伝授に費やした日数は十日ほどであり、手に入れた法文類もごく僅かである。

そんな最澄が、空海の『請来目録』を読み、驚きと共に頼もしささえ感じたかもしれない。
自分の弱点を補って余りある人材である。
しかしこの空海という人物は、最澄の予想をはるかに上廻っていた。

密教に関しては空海の足元に及ぶべくもないと素直に思った最澄は、空海の所蔵する経典の借用を申し込むと共に、高雄山寺で、空海から改めて灌頂を受け直した。
空海も、飾り気のない率直な最澄の人柄に、始めは好感を持ったのであろう。

しかし時が経つにつれて、二人の食い違いが現れてくる。
高雄で授けた灌頂は、結縁灌頂といって、言うなれば入門的儀式であり、本格的な密教の僧侶になるには、秘法・奥儀を伝授される為の伝法灌頂を受けるべきなのである。
それには最低でも三年の修行が必要だと、空海は主張する。
しかし叡山で天台教学の指導などで多忙な最澄が、長期間本拠を空けておくわけにもいかず、代わりに最澄の信頼する弟子を空海の許に派遣して、密教を学ばせようとしたのである。

空海がこれを警戒したのも無理はない。
いわば産業スパイ紛いの手法である。最澄にその気は全く無かったにしてもだ。

宗教観の差も、最澄と空海の手紙のやり取りの中に現れている。
最澄は、空海の許に送り出した弟子が、いつまで経っても戻ってこないことを嘆き、手紙を書く。
「真言も天台も同じ教えであるから、私のところに帰ってきてほしい」
という手紙の一節を読み、空海は反論する。
「真言は自利の教えであり、天台は利他の教えである」
最澄は人の情にすがり、空海は理論で最澄を突き放すのである。

空海も意地悪でそのような手紙を書いたわけではない。
性格の不一致とでも言おうか、俯瞰的に物事を見る空海と、愚直なまでに真面目で嘘の吐けない最澄。
違う視点ではあるが、どちらも仏教の真理を追究する姿勢は同じだからこその、二人の別離であった。


最澄と空海のすれ違いと時を同じくして、最澄と南都仏教(特に法相宗)との対立が激しくなる。
最澄は少しむきになり過ぎていたのかもしれない。
最澄の心の師、智顗は「執してはいけない」という言葉を残した。
何かを「絶対だ」と思い込むことは、仏教精神に反する、というのだ。
この時の最澄は、いささか天台に執しすぎていた感がある。

時代も変わり、詩文や書を好む嵯峨帝が求めるものは唐風文化だった。
その嵯峨の相手として活躍したのが、他ならぬ空海である。
しかし、かつての桓武と最澄との関わり方とは違い、嵯峨と空海の関係は洗練された文化面のみであった。

その上、嵯峨が最も重用したのは、法相の碩学、大僧都玄賓だった。
どうあがいても最澄の出る幕は無いのである。


唐突に、最澄は東国に旅に出る。
当時、最澄の弟子は6人、そのほとんどが東国出身である。
関東上野で鑑真ゆかりの緑野寺や、下野の小野寺を拠点に伝道を展開した。
最澄はこの旅で、自分の進むべき道を模索したようにも思う。

これに前後して、南都で法相数学を学んだ後、東国に下り、常陸や会津地方に多くの寺を開いたとも言われる僧、徳一が、最澄に論争を挑んできた。
まず『法華経』とは何か。
徳一の学んだ法相では『法華経』を最高の経典としてはいない。
何故なら『法華経』では全ての人間は悟りに到達することができる、と説くが、それは人々を教化する為の権の教えであり、正しくない。
これが徳一の言い分であるが、これに対し、最澄は反論する。
全ての人は悟れる可能性を持つ。つまり誰でも救われる、それこそが仏教の根本精神であり、これを説く『法華経』こそ真実の教えである。

この論争の中で、最澄の『法華経』に対する帰依はより明確に冴え渡っていく。
『法華秀句』では、もはや相手を論破するというより、最澄自身の裡なるものを見つめ、澄み切った趣さえ感じさせる。


都に戻った最澄は、新しい大乗戒壇設置を主張するにあたり、かつて自分が僧になる際に授かった具足戒を破棄した。
叡山の規則を定めると共に、法の改正を要求する文書を嵯峨に提出する。
後に『山家学生式』として伝えられているものである。
前文に「怪寸十枚、これ国宝に非ず。照千・一隅、これ即ち国宝なり」という有名な言葉がある。
「一隅を照らす」と読まれていたが、それは少し違うようだ。
『摩訶止観』の注釈である『止観輔行伝弘決』の中に「守一隅(中略)照千里」という言葉があり、最澄は「国宝」に、千里を照らす輝きと、一隅を守り抜く確かさの両方の意味を含めていたのではないか。

最澄の教育理念も興味深い。
天台宗で修行する学生は、12年間、山門を出さず、学問に専念させる。
最初の6年間は「聞慧」即ち学問を学び聞くのを主とする。
一日の3分の2の時間を仏教を学ぶのに用い、残りの時間は仏教以外の学問をするのに用いる。
あとの6年は「思修」即ち自分の頭で思惟し修行することを主とする。
私はこれは現代の教育にも応用できるのではと考える。

それは横に置くとして、最澄念願の大乗戒壇の設置は、南都六宗に大反対され、嵯峨もそれを無視できずに虚しく時は過ぎていく。
弟子は何とか嵯峨から勅許が下りるよう懇願するが、最澄は病に伏してしまい、病状は悪化の一途を辿る。

「心形久しく労して、一生ここにきわまる」

最澄は絶望の中で、もがき続けた一生を振り返る。

822年6月4日、最澄没す。(享年56)

嵯峨からの勅許が下ったのは、その一週間後であった。

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