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二人の彦火火出見尊

皇孫 瓊瓊杵尊が鹿葦津姫(木花咲耶姫)を召して、一夜にして身ごもったのを、皇孫が怪しんで「私の子ではなかろう」と暴言を吐いた。
それに怒った鹿葦津姫は、出口の無い小屋に籠って火をつけ「この子が皇孫の子であれば傷つかず、そうでなければ焼け死ぬだろう」と言って、無事に産まれたのが火闌降命(海幸彦)、彦火火出見尊(山幸彦)、火明命の三人の御子である。

彦火火出見尊は海神の娘 豊玉姫を娶り、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊をもうけた。
彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊は叔母の玉依姫を妃とし、彦五瀬命、稲飯命、三毛入野命、神日本磐余彦尊の四人をもうける。
神日本磐余彦尊は、言わずと知れた神武天皇である。

『日本書紀』に、神武天皇の諱が記されている。
彦火火出見という。
祖父と全く同じ名前である。
今の天皇家の始祖である神武天皇は、何故 祖父と同じ名前を名乗ったのか。

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神武は始馭天下之天皇(ハツクニシラス)という別名も持っている。
第10代崇神天皇も御肇国天皇(ハツクニシラス)と呼ばれる。
どちらも国を統一し、人民を平和で豊かな暮らしに導いたとして贈られた名称である。

彦火火出見尊という名称も、これと同じことではないだろうか。
祖父の彦火火出見尊は、高千穂に宮を定め、国家の基礎を作ったとされる。

彦火火出見尊の正統な後継者であることを世に示す為だったと考えられる。

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彦火火出見尊という文字にも注目したい。

彦は日子であり、火は日に通じる。
祖先神 天照大御神の系統を正しく継承していることを表す名である。
日向三代の初代で、彦火火出見尊の父(神武の曾祖父)の瓊瓊杵尊は、別名を天津彦彦火瓊瓊杵尊という。
これも火=日に縁の深い名である。

火(ホ)は穂でもあり、農耕とも深く結びついている。
鹿児島県の鹿児島神宮の主祭神は彦火火出見尊(山幸彦)であり、伝承によれば、この地に高千穂宮(皇居)を営み給い、500有余歳の長寿に亘り農耕畜産漁猟の道を開拓し国家の基礎をつくられた、とある。

500歳というのはかなりの誇張があるだろうが、日本の地に初めて農耕を始めとする産業を伝え、定着させたのが彦火火出見尊であったのは事実だろう。
記紀ではいい所無しで弟に屈服したとされる火闌降命(海幸彦)も、隼人の祖とされているので、彦火火出見尊を支えた人物の一人と言えそうだ。
何故なら、この時代は末子相続が頻繁にみられるからである。

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世界的にみて末子相続は遊牧民族の風習、というイメージが強く、日本には関係ないと思われるが、記紀を読むとその考えが覆る。
神代から応神天皇の時代は末子相続が基本だった。

記紀には兄が死亡したり、怖気付いて弟に皇位を譲るなどの記述がある。
これは記紀編纂当時の天武・持統期に「天皇位は長子相続を基本とする」と定め、辻褄を合わせる為に編纂者が付け加えたエピソードとみるのが妥当であろう。

近代においては、近畿、瀬戸内、九州の漁村の一部や長野県諏訪地域などで末子相続がみられた。
子が労働年齢に達すると、海に漁に出る為に生命の危険が多く、末子に継がせるほうが安全であったことや、都会に出稼ぎに出る為に末子が田畑を相続し両親の扶助をおこなうことが背景にあった。
末子相続は、当時の事情に即した、合理的なものであったといえる。

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古代皇室の長兄には多くの子孫がおり、結果的に国を栄えさせることになった。
子孫にとっても、祖が皇室の分かれであることは誇りともなったことだろう。
記紀の記述には間違いや嘘が多いとされるが、読んでみると意外な発見があり、面白いものである。

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