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ぐっちのキャリアとこれからの仕事

皆さん、こんにちは。コーチとして活動している坂口佳世です。皆さんには"ぐっち"と呼ばれていますので、ぜひそう呼んでください。

2022年12月に夫と会社を創業することになり、改めて今後わたしが取り組みたいお仕事と、その背景にある今までのキャリアをお伝えします。

この3つを主な事業として活動していきます。
なぜ、この3つなのか?それは、今までのキャリアが背景にあります。

今までのキャリアストーリー

来年40歳になります。まだ20代後半な気持ちですが、あっという間に大学を卒業して18年が経ちました。改めて今まで歩んできた道のりを振り返りながら、今後の活動の背景にあるキャリアをお伝えします。

1|リクルートで経営者に会いにいく期

大学卒業後、リクルートでHR領域の法人営業として、熊本の地場企業の採用業務から私の社会人キャリアはスタートしました。

熊本の地場企業の経営者に話を聴き、提案し、受注する。WEB広告を通して新卒採用と中途採用の支援をすることが仕事でした。

新卒採用は既存顧客の通年フォローでしたので、クライアントの採用戦略を経営陣や人事と握り、社員へインタビューなどを通して採用ページを作り、通年の採用プロセスを運用します。

中途採用は営業目標数字を追いかけながら新規の会社にアタックして、提案して受注する。このプロセスが仕事の流れでした。

社長に会いに行け!決裁者に会いに行け!これが当時の私のミッションで「トップアポをとる」が合言葉のように繰り返され、楽しく刺激的であり、たくさん怒られ悔しがる日々でした。

新卒ペーペーの私は、毎回緊張しながら、「リクルート」という看板のおかげで、たくさんの熊本の地場企業の社長さんに会わせていただきました。話が噛み合わず、力不足を思い知り不甲斐ないことも多々ありましたが、提案が刺さり「よし、君の任せた!」という最高の体験もありました。

自動車部品のネジのメッキ加工のメーカーや、福祉用具の貸与や介護予防に関する商品を取り扱う商社から老舗菓子のメーカー、全国区の基礎化粧品メーカーなど、さまざまな企業の社長・創業者の話を伺って、社長のビジョンや願いに私がファンになって帰ってきて原稿を作る。そんなことをしていました。

どんな思いでこの会社を創業したのか、もしくは引き継いだのか。会社の売りは何か?今後何を実現したいのか?
さらに突っ込んで、今感じている課題を聴きます。すると、「実は最近〇〇の領域が売り上げが下がっていて…」など経営課題が出てくるので、「だとしたら社長、××な人材がいたら、御社はどうなりそうですか?」「なるほど… そういう人いるかな… いたらすごく欲しいね」「では、そんな人を採りにいきましょうよ!うちで広告出しましょうよ!」と。

そんなことを3年くらいやっていました。

2|ジュエリーを学びブランド創業を目指す期

リクルートで経営者に直接、会社のビジョンやものづくりの話を聞いているうちに、子どもの頃から好きだった"ものづくり"を私もやってみたいという衝動が抑えられなくなり、26歳の時、彫金職人(ジュエリーを作る人)を目指して退職しました。今考えると、よくあんな無謀なことをしたなと行動力に驚きますが、「私もやってみたい!」という思いが抑えきれなくなりました。

退職することを伝えにお世話になった社長さんに「おっきくなって帰っておいで」という言葉を胸に、熊本をあとにしたことを今も忘れません。

何もわからず飛び込んだジュエリー製作の世界。実家に戻り、ジュエリーブランドを創業することを目標に先生のもとで学びながら、資金稼ぎのため、通販コールセンターにアルバイトで入社しました。彫金の学びと並行して、マネジメントや顧客対応をしましたが、コールセンターにはたくさんの夢を持った人が集まっていました。

洋服ブランドを作るために定期的に展示販売会をしている人、居抜き物件をDIYしたカフェを一人で週末営業している人、イラストレーターとして独立している人。バンドマンもしましたし、海外で宝石を買い付けて宝石商の勉強をしている人もいました。「自分で何かしたい、この熱を形にして伝えたい」そういう方々とたくさん知り合ったことは、この期間の財産です。

お金はないけど、夢やビジョンはある。そんな人たちと一緒に私もジュエリー製作をして、受注販売会を企画したり、アパートの一室を借りて”工房”として、デザインの打ち合わせをしたり、時々指輪制作体験ワークショップもやっていました。あれこれトライしてわかったことがあります。

「ジュエリーブランドを自分で作ることは甘くない」

資金も徐々に尽きてきますし、自分の中から「本当にできる?」「うまくいくの?」「他にもっと上手い人いるのに、成功すると思ってるの?」という声が強くなります。

ものづくり仲間はいましたが、創業の相談はできせんでしたし、歳を重ねるにあたり、「結婚は?いつまでそんなことやっているの?」という声も聞こえてくる気がします。幸い両親はあまり言いませんでしたが、それでも「いつまでもこんな売れないことをやっていて、この子は大丈夫なのかしら?」「結婚できるのかしら?孫には会わせてもらえるのかしら…」そんな親の心の声を察するようになり、徐々にあれほど燃え上がって退社した情熱はなくなり、もう私はやめたほうがいいんじゃないか、という弱気になってきました。

あの時、私が定期的にコーチング受けていたら、また違った今があると思います。

これが29歳の時です。そしてリクルート1年目から激動の20代をずっと共にした人に、30歳になるまでには結婚したい!と強く迫り、7年目に結婚しました。「お母さん、心配かけてごめんね。私まっとうになるよ。彫金からも距離をおくね」そんな気持ちで、工房を畳みました。

3|創業者やメンバーと共に過ごすスタートアップ期

結婚と同時に東京へ。マンションの一部屋に、彫金机や工具は揃えながら、せっかくの東京だからどこかでもう一度、ちゃんと働こう!そう決めました。前職のような営業もいいなと思いましたが、「創業者のビジョンに惹かれてこの人と一緒に働きたい!この人のそばで思い切り仕事をしたい」と思いたいと、この軸のアンテナをはり巡らせました。すると創業3年目のスタートアップで「ものづくり」と「日本の優れたものを」というコンセプトを掲げ、「本当の意味で職人や生産者と仲間になりたい」と語る創業者を見つけました。私も仲間になりたい!とアポを取り、300坪の巨大店舗がオープン10日目のとき、社員としてJOINしました。ルールも曖昧でマニュアルもない。私たちで決める余地だらけ。めまぐるしく変わるやり方や仕入れ先、陳列をゼロイチで作っては、変えていく毎日。

フラッと訪れる社長を「ちょっと待ってください!」と捕まえて、「これとこれ、やっていいですか?」「おっけ!任せるよ。好きにやっちゃって!」「承知しました!」と、猛ダッシュしながら選択して決断して実行する刺激的な日々でした。終電ギリギリや、重たい棚を動かしての売り場チェンジは日常茶飯事でした。周年祭当日は、法被を着てメガホンを持って、ベンチを担いで場所を作り、担当企画の呼び込みなど、何でもやりましたし、当然お客様への接客もしていました。

まさにハードな日々でしたが、語られる明確なビジョンがあり、私もその世界を実現したい!一緒に叶えたい!会社を大きくして、生産者さんや作り手さんの販売チャネルを増やし、たくさんの人にこの場から優れた商品を知ってもらいたい!と、内発的動機に突き動かされ、スタートアップの醍醐味を存分に味わい働きました。

副店長を経て、食品買い付けや地方自治体との地域活性がミッションとなり、行政の町おこしや魅力創出の催事や企画のPMとなりました。社長が運転する車の助手席で、片道4時間かけて公共交通機関では行きにくい町へ何度も行き、役場の方との商談や事業者説明会をしました。往復8時間の道のりでは、創業の経緯や今後実現したい社会や未来… 車の中だから聴ける話に、胸が熱くなったことを強烈に覚えています。そして私も描く未来を語りました。当時、結婚していたのは私だけでしたので、「子どもを産んでも働きたいです。女性が多い小売業で今後たくさんの方が出産して戻ってきます。その時、ロールモデルになっていたい。働きながら、この会社で自分の夢も叶えて、一緒に社長のビジョンを叶えたいです。そのためには今後、こんなトライをしたいです」と。

そんなことを語り合いながら、東京までもどり、年末ジャンボ宝くじの最終日の売り場に2人で並んで買ったことも良き思い出です。

4|仕事と妊娠に揺れる期

仕事はとても楽しく、まもなく着工する新店舗の責任者の話も出る頃。滋賀出張の途中なんか変だなと調べて、妊娠がわかりました。つわりがひどく、全ての仕事をストップさせ、新店舗の責任者の話は当然なくなりました。

ようやく授かった子どもへの喜びと同時に、大好きな仕事ができなくなること、必要とされなくなるのでは?という不安。突然の戦力外通告のように感じてとても苦しく、不甲斐なく思っていた頃、赤ちゃんの心拍が確認できず流産しました。

私が仕事をしたいって望んだから死んじゃったんだ
あの時走ったから…
今はちょっと困るな…って一瞬でも思ったから
わたしのところ、嫌って思ってお空に帰っちゃったんだ
当時の日記より

今改めて思うと、そう思ったことが原因ではありませんし、8週の初期流産は"よくあること"だということはわかります。医者にも、「よくあることですよ、手術しましょう」と淡々と日程を決められました。でもあの時の痛み・悲しみは今でも忘れられません。おそらくずっと忘れることはないでしょう。

1ヶ月ほど、毎日泣いてたくさんの人の支えをいただきました。なんとか3ヶ月目ぐらいに日常の暮らしができるようになってきました。でもそんな状態でしたので、仕事の量も随分減らしてもらい、ほぼ定時で帰るような日々でした。その半年後くらいに、長女を妊娠しました。

妊娠9週を超えるまでは、毎日が不安でした。また心拍が止まるんじゃないか…また帰っちゃうんじゃないか。

初期の頃は特につわりが酷く、起きるのもやっとで出社できる状態ではまるでなく、傷病手当という制度を会社にリクエストして初めて1ヶ月休職しました。1ヶ月も休むなんて申し訳ないと思いつつ、妊娠した社員は私が初めてだったので、もし私が無理に出社して「つわりがあっても無理すれば働ける」という前例を作ると次に続く女性たちにとって迷惑だ。だから未来のために私は休む!とか、少しでも自分が許せる理由を作り休職しました。

安定期に入り、どんどんお腹が大きくなって動きにくくなり、重たい段ボールが持てなくなります。特に1人目のことがあるので、気をつけながら無理を避けながら仕事をしつつ、産休育休に向けて今まで大切に育んできた取引先をメンバーに引き継ぎました。社内で任された責任を手放し、出張に行くこともなくなり、たくさんあった私のやりがいはどんどん離れていきました。仕事は失っていくけれど、お腹の中で育つ命は胎動が強くなります。母親になるんだ…私は仕事を手放してお母さんになっていくんだ、と実感しながら。

夫と出会って12年。結婚して5年目。ようやく授かった我が子です。嬉しくないはずはありませんし、ようやく赤ちゃんがやってきたと大喜びでした。でも母になる喜びの裏側には、社長と共に握った夢やビジョンを手放し、今まで自分の裁量で動かしていた権限は手離れ、誰よりも自由に体も動かしながら売り場を作っていた私は、誰かにお願いして手伝ってもらわないとできない自分の無力さなど、喜びと哀しみが混ざり合う複雑な心境でした。

34歳の妊娠・出産・育休は、今まで大切にしていた価値観がガラガラと変わっていく言葉で言い難い経験でした。

5|母親になって娘と家で過ごす期

遡ると高校ぐらいから、"目標に向かって一直線に駆け抜けるタイプ"の私には、新生児育児は慣れない日々でした。全てが思う通りに進まない、寝てくれない、寝かせてもらえない。1人でゆっくり本を読むことさえできない。自分の体からでる母乳を愛おしそうに飲む、うっかり踏み潰してしまうんじゃないかと思うほど小さい赤ちゃん。24時間の感覚は狂い、仕事や同僚との飲み会で終電で帰った頃が遠い遠い昔になっていく感覚でした。

新生児の怒涛の日々が落ち着いて生活のリズムが整ってくると、暇で暇でたまらなくなりました。娘がコロコロ動き回る様子を眺めながら、空を見て、かわいいな、暇だな…と思っていました。何かしないと落ち着かない性分です。よく寝る娘のおかげで、5年ぶりくらいに彫金を再開し、ほったらかしになりつつあったジュエリーのWEBサイトを作り替えました。それでも時間を持て余し、ミシンで自分や子どもの洋服を作りはじめ、徐々に上手くなりハンドメイドサイトで販売したりもしました。それでも退屈で早く復帰したいけど、娘は可愛いし、まだ一緒にいたい、どうしようと不安定な時期でした。

暇そうな私を察してか、会社の友人が2ヶ月に1回ぐらい定期的に遊びにきてくれて、店舗の話や自分の未来の話をしてくれました。浦島太郎の私は、社内で活躍する友人たちの話は嬉しくもあり、羨ましくもあり。友人は様々な愚痴や不満、プライベートな悩みを話して、スッキリした表情で帰っていきました。

この育休期の体験が私にとってのコーチングへの興味に繋がり、組織開発・チームコーチングを学んでいた夫の誘いもあり、職場復帰の直前にCTIというコーチングスクールの基礎コースに参加して、コーチという今に至る一歩を踏み出しました。

6|母親と仕事のバランスに悩みながら働く期

娘が1歳の4月に復職したので、育休は1年半。妊娠期間は10ヶ月。第一線で働く頃から約2年半が経っていました。9時半から16時半の時短で働く私には、店舗のシフト制は適用できず、必然的に早番のみとなることで、任される仕事が限られました。メンバーは大きく入れ替わり、ガツガツ働いていた当時を知る人はほとんどいない元の職場への復職でした。会社は少し安定期に入り、制度も社内の雰囲気も随分変わっていました。激動のスタートアップにとっての約2年半は想像した以上に変化が大きく、それと同じくらい私の価値観も家族環境も変わっていました。

母になる前と全く同じように働くことはできず、仕事内容も入社半年のスタッフとほぼ同じことに、虚しさや切なさを抱くと同時に、この状況は仕方のないことだと理解していました。でも、このまま漫然と勤めることに危機感もあり、コーチングを自分のスキルの一つとして持つことを少しずつ本気で考え始めました。もう1人子どもが欲しいと思っていましたので、次の産休育休を見据えて、社内育成や1on1の業務の開拓にシフトできないかと模索している中で、2019年8月に第二子の妊娠がわかり、また会社の中での私のキャリアはストップしました。

このままでは、何のスキルもない時短社員になることへの危惧から、第二子の産後4ヶ月の頃からCTI上級コースに参加し、CTI認定プロフェッショナルコーチの資格と、国際コーチング連盟の資格を取得しました。これをもって、人材の育成に課題を感じていた小売店の中で、社内コーチや研修をしたい!やっと腰を据えて開拓するんだ!と鼻息荒く復職しようとするも、私は本物の浦島太郎でした。いわば私の社員としての全盛期は4年も前。右腕のように風を切っていた頃は遠い昔。いつまでも過去の何かを引きずった人が戻ってきた…そんな風に感じるほど、新しく変わっていました。

コロナの影響で小売業は大打撃を受け、上場企業の子会社となり、創業者は代表権を手放し、経営陣は全く変わっていました。そこには、車で片道4時間かけて未来を語り合った当時の居場所はありませんでした。40ページほどの社内コーチの必要性を訴えた企画書を、本社からやってきた敏腕社長に届けたい、伝えたいと訴えるも、聞き入れられることはなく、わたしの桜はあっけなく散りました。

7|個人事業主のプロコーチとして活動する期

心のどこかでこうなることを何となく予感していた気もします。とてもお世話になった会社には、2回も育休を取らせていただきましたが、退社することを選択しました。さまざまな経験をさせていただいたたくさんの感謝と、若干の虚しさと、もっとやれることはあったはずだという無力感と、新たなコーチングの仕事への魅力。その間で随分葛藤しましたが、個人事業主として2021年4月に独立し、今日に至るまで、コーチとして少しづつ経験を重ねています。

そこからの日々も、葛藤と失敗と喜びだらけで、このnoteにたくさん書いてきました。様々なことを始めてみては、頓挫したり進んだり、あっちこっちぶつけながらも、ようやく今は、コーチングと彫金を組み合わせたワークショップや、コーチングプラットホームの登録コーチや、少しづつ企業へ向けての研修やワークショップ開発を仲間としています。さらにイベントの企画・プロデュースもいくつか手がけています。

これからの仕事の私のビジョン

冒頭の3つの主な仕事に集中する理由は、ここまで語ったわたしのキャリアが背景にあります。

①創業者へのコーチングと企業研修・ワークショップ

ご自身のビジョンや社会に届けたいインパクトを、自分のコアと繋がり言葉にし続けることの大切さと難しさを、リクルートから学び、自分で体感し、スタートアップでは言葉のパワフルさと、語られなくなったときに起こる分裂を見てきました。

業績を上げ続ける経営者が、数字やロジックを分析することは当然ですが、なぜこの会社を作ったのか、何のために製品を作っているのか、社員にどんな思いがあるのか、などのWHYやWHATをご自身の言葉で語ることが、時にメンバーへの金銭的報酬を超えることを私は知っています。また、WHYやWHATで繋がった関係は、メンバー同士もそれぞれのWHYやWHATを語りあい、強い結びつきを作り、社員が自分の意思で主体的に動き出します。

しかし、どんなに強い思いや願いをもって創業しても、取り巻く環境の変化、ご自身のモチベーションや業績によって、信念が全く変わらず、ブレずに抱き続けることはとても難しいです。うまく進んでいる時は勢いがあり良いのですが、思い通りに進まない時にこそ、自分の言葉を自ら聞き、自分自身で原点に戻ってくる筋力が必要です。

「なぜこれをやるのか」
「どこを目指して進んでいるのか」

迷いは大切な岐路です。今この時代に会社・組織を動かす創業者、経営者はまさに、地図なき海を航海する船の船長に例えられます。ご自身が描く地図だからこそ、船を創ったとき、乗り込んだ時の意志を胸に抱き、言葉にし続け、脳に刻み、迷いや恐れが生じた時は相談する相手を、嬉しいときや想像を超える何かが起こったときは、共に喜び合うパートナーがいることで、船の速度も向きも変わります。船長が輝く目をして未来を語ることは、乗組員のモチベーションも変わり、船に乗り入れた乗客に与える乗り心地も変わります。

乗組員でも、乗客でもないけれど、船に乗り合わせてビジョンを語り続けるパートナーという役割を、私は"コーチ"としてやっています。

② "母親"としてパーパスを持って生きることを伝える活動

25歳を過ぎた頃から、漠然と感じていた「女性」「母親」「仕事」「働く」というキーワード。

妙にざわつく"結婚"や”出産”という言葉の深さを知っています。
自分の全てを使って思い切り仕事ができる喜びを知っています。
母親になりたいと願う哀しみと複雑な気持ちを知っています。
母親であること、仕事をすることの葛藤ともどかしさを知っています。

「私は働きながら母親をしています」

このメッセージが放つ様々なインパクトを知っています。

だからこそ、私はポジティブともネガティブともせず、戦うこともやめて「ただそうだ」と真っ直ぐに見て、「母親としてのパーパス」を持って生きることを提案する活動を、企業の中で、また行政への関わりの中でやっていきます。

1年前から仲間たちと丁寧に、少しづつ開拓しています。まさに大切な我が子を生むように愛しみながら育てています。"紛れもなく母親である私"を自らが受け入れ、主体的に「働くことと子どもと生きること」を選択したと納得感を持って生きていくことを伝えていきます。

この取り組みにご興味がある企業の方、プログラムをご提案いたしますので、ご連絡ください。

③彫金やものづくり・アートのワークショッププログラム "An Artist" を主宰

私の代名詞である彫金・ジュエリー制作とコーチング。この2つを掛け合わせて、ものづくりを通して自分のアート性を解放するワークショッププログラムも今後引き続き開催していきます。

現在は個人向けに、自らのビジョンや願いを"御守り"や"化身"にして、形にするプログラムを実施していますが、いずれは①や②の活動と繋がって、組織やチームが対話しながら、一つのシンボリックなデザインを作り、金属でみんなでおそろいのキーホルダーやブローチを作るようなワークショップ、創業者が自らのビジョンを形にして、社章を作ることもやっていきたいと思っています。

自分で語り、言葉にしてモノを作ることことは、とてもパワフルです。言葉にならない何かを言語化し、形にすることで、よりそのイメージはクリアになります。五感をより活用して、ビジョンの明確化と発信をアートやものづくりを通してお手伝いしていきます。

今後、企業のビジョン作成の際には、こんな提案もできますのでぜひお声がけください。

お仕事や研修、ワークショップのご依頼はこちら

最後までお読みいただきありがとうございます。約20年のキャリアを振り返って、私のビジョンを語りnoteの中に表現してみました。

もし、ここまで読んでご興味を持ってくださった方、以下からご連絡ください。丁寧に関係を作って、パートナーになりたいと思っています。

最後までお読みいただきありがとうございました。

パーソナルコーチ/An Artist 主宰
坂口佳世|ぐっち

数字で見える応援が、日々の励みとなります。一瞬でも、あなたの人生に何かハッピーをお届けできたらこれほど嬉しいことはありません。