『本日、酉の刻…』

第8話

※消えたと思ったら、マガジンから外れていました。「そうさくのーと その2」に格納しなおします(笑)。何はともあれよかった^^;。


「もしもし、朋子?あたし、うん、今日の天文部(同好会)休むから。ノゾミ先輩に伝えといて。双眼鏡探しに裏山に行ってみる。大丈夫!暗くなる前には帰ってくる。…車?いいよ、歩いていく。うふ、ウォーキングよ、ウォーキング。じゃね…。」
瑠珈はスマホの通話を切ると、テキストやノートを片づけてバックに仕舞い、講義室を後にした。
11月も下旬になり、外気はかなり冷たくなってきている。そろそろ雪がちらつくかもしれない。今日は朝から空は厚い雲に覆われており、気温もあまり上がることはなかった。大学の裏門を出ると、瑠珈はコートの襟のボタンを閉めた。
曇り空であったが、午後3時を過ぎたばかりの空は十分に明るい。
相変わらず沢山のカラスが裏山を飛び交っていた。いつもの小さな神社の前では放課後の小学生たちが今日もわいわいと小さな輪を作っている。風も吹き出した。でも、瑠珈は明るい心持ちで裏山に向かってぐんぐん歩いていた。
何故か心が弾んでいる。足取りも軽い。曇り空は嫌いではなかった。星の観測にはこれほど邪魔なものはないけれど、この雲の上には澄みきった青空が広がっているのだ。それに曇り空の空の色は、目をこらせばこらすほど、灰色の微妙なグラデーションが美しく、淡い白から濃い墨色までの様々な色合いが歌を歌っているように瑠珈には見える。
風が吹けば雲は踊り、流れる雲は壮大な音楽のようだった。こんな気持ちになるのは、やはりあの事があったからだろう。一週間ほど前のしし座流星群のあの夜にあった不思議な出来事がなければ、こんなに心が躍ることはなかったに違いない。
思えばまるで夢のような出来事だった。あの男との出会いは本当に起こったことなのか、夢でも見ていたのか、よく分からなかった。
瑠珈は歩きながらバックの中に手を入れ、水色の手拭いの包みの感触をその外側からそっと確かめた。唯一の手掛かりらしいこの割笄の片割れさえなければ、瑠珈もあの夢のような一瞬のことを信じることはできなかっただろう。それもまだこれがあの男のものなのか、それとも大昔からあの山のどこかに落ちていた物なのか、まったく分からないままなのだ。笄のことも気になれば、あの男のことも何故か妙に気になる。心の中から払いのけることができない日々が続く。それはとても不思議な感覚だった。
そして、こんな沸き立つような奇妙な思いはあの時以来だ…と、瑠珈は歩きながら、十数年前のある出来事を思い出していた。
それはまだ瑠珈が6歳の半ばを過ぎたころのことだった。

「瑠珈、暗くなる前に帰ってくるのよ…。」
台所から母の声が聞こえた。「はぁい。」と答え、瑠珈は家から飛び出していった。
今日のように風の強い夕方だった。近所の川沿いの堤防の上を瑠珈はひとり走っていた。
木枯らしが吹き始めた秋だったと思う。夕暮れの空はとても高く、空気は冷たくとても澄んでいた。
走って10分程の川沿いの公園に併設されている図書館の分館へ借りていた本を返し、新たに数冊の本を借りて、瑠珈は元来た道を同じように走っていた。
堤防の上にある遊歩道のベンチの前を通り過ぎたところだった。
とても透明な美しい虫の音が聞こえた気がした。これはどこから聞こえてくるのだろうと急に辺りを見回したせいで、瑠珈はバランスを崩し、おまけにほどけた靴ひもまで踏み、その場で勢いよく転んでしまった。
手のひらと膝小僧を擦りむいただけで、あとはどこもなんともなかった。バックから小さなタオルを取り出し膝の血をぬぐうと、落ちていた本を拾い、瑠珈はよしと立ち上がり、バックを持って再び走り出した。
堤防の上の遊歩道には誰もいなかった。瑠珈は膝小僧の痛みも忘れ、全力で走った。風が強く吹き、堤防と川岸を覆う秋の草が気持ちよくざぁざぁと音を立てている。追い風を背中いっぱいに受けて、瑠珈はこのまま空を飛んでしまうのではないか、と思った時だった。
――瑠珈……。――
と、名前を呼ばれた気がした。
瑠珈は立ち止まり、後ろを振り返った。
「これは、君のものだろう?」
と声が響き、そこには背の高い黒い服を着た男が立っていた。男の手には先ほど瑠珈が使っていた小さいタオルがあった。
「落とし物だ…。ベンチの所に…」
「あ、ありがとう、ございます…。」
男は少し身をかがめ、瑠珈にタオルを差し出した。
瑠珈はその男がとても澄んだ鳶色の眼をしていたので、すぐにお礼を言ってタオルを受け取った。
「あたしの名前を知っているの?」
瑠珈が聞くと、男はタオルを指差した。
「そこに書いてあった。」
「そう…。」
「無為が…。」
と男はふと空を見上げた。
「無為たちが、君と友だちになりたがっている。」男は唐突に瑠珈に向かって言った。
「ムイ…?」
「そうだ、君のまわりに、いつもいる…。」
「え……?」
と瑠珈はあたりを見回した。男が言った“ムイ”というものが何だか分からなかったが、瑠珈は色々な所を目を凝らして一生懸命見回した。
「手を……、こうやるんだ。」
男は手の甲を自分の方に向けて手のひらを手前に差し出した。
瑠珈が同じようにすると、彼女は小さくあっと声を出した。手の先の指の一本一本のその外側の1㎝ほどの所に、薄いヴェールのような膜が見えたのだ。手のひらを取り巻く空気の層に違いが見えた。内側はよりはっきりと光を通したように見え、外側はほんのわずかにぼんやりとして見えた。まるで透明な手袋をはめているようだった。
「見えたか…?じゃあ、今度はあの林の上を見てごらん。あの木々の上だ。」
男が指差す方のちょうど堤防に沿って連なる自然堤防の上の堤防林を瑠珈は見た。
すると、先ほどの手袋と同じようなヴェールの層が林の上部の1.5m位の部分にもあり、その領域を分ける空気の層の違いが瑠珈にはくっきりと見えた。堤防林の木々が揺れると同じように林を取り巻く空気の層の輪郭も大きく揺れた。層の輪郭の外部にはキラキラ光る小さな光の粒が無数に飛んでいて、その光の粒子は層の縁に当たると内側には入れず、輪郭の部分で反射し、それぞれ別の方向へふわふわと散らばっていた。
「あの光の粒はなに…?」
「君にはちゃんと見えているんだな。あれは無為の足跡だ。ここに無為が現れたという無為の時力の痕跡だ。」
「足跡…?きれいね、キラキラ光ってる。」
「うん、では、今度は足元を見てごらん。」
瑠珈が言われるがままに自分の足元を見ると、そこには地面から湧き立つ何かが蠢(うごめ)いていた。それらはくるくると小さく渦巻く白い靄(もや)のように見えた。
「わぁ!踊っているみたい!」
「それが、無為だ。」
男はそう言って、手のひらを地面に向かって撫ぜるように動かした。すると、無為と呼ばれたそれらは途端に元気に動き出し、大きく湧き上がると煙のように男の背丈ほどに立ち上がり、再び渦を小さくし地面の中へふわふわと沈んでいった。あたりをよく見ると、小さな渦巻きたちは地面から常にシュウシュウと湧き出してくるくる回ったり、立ち上っては消えたりしていた。4つ位固まって大きく一つになったかと思えば、そうした一つが細かく分裂したりしている。瑠珈はなんだか嬉しくなって、靄のような渦たちの中に駆け込んでいった。渦は瑠珈の周りに一気に集まってきた。渦は様々な形に変化し、時に見たことのないような動物の形になったり、飛び上がって空高く飛んでいったり、また舞い戻り、地面に潜ったと思うと再びひょっこり地面から顔を出したり、薄くなったり濃くなったりした。
「こんばんは、はじめまして、楽しい無為さんたち。」瑠珈はそう言い渦たちに笑いかけた。
そして、瑠珈は何か思い出したようにバックの中から本を取り出し、その間に挟んであったものをその渦の一つに差し出した。
「さっき、図書館のお姉さんと一緒に作ったの、折り紙、綺麗にできたから一個あげる。」
すると渦たちは途端に勢いを増した。瑠珈が渡した折り紙をくるくると回したかと思うと、次々に渦同士リレーするように運んでは空高く放り上げ、あっという間にそれは見えなくなって消えた。
「ありがとう。無為たちがとても喜んでいる。」
男はそう言い、瑠珈に向かって小さく笑い返した。そして男は瑠珈に向かってゆっくりと手を差し伸べた。
瑠珈は堤防を駆け上り、男の元に走った。そして、男と同じように手を差し伸べ、男の右手をしっかりと握った。瑠珈は男の鳶色の瞳をまっすぐに見つめた。
「握手…!」
「うん、握手だ、…これでいい。」
男は瑠珈の手を強く握り返した。瑠珈はにっこり微笑むと、堤防の下へ駆け下りて、無為と呼ばれた地面から湧きたつ渦巻きたちとしばらく夢中になって戯れた。しばらくして、ふと最初に聞こえた美しい虫の音のような透明な音が、再び瑠珈の耳の中にかすかに響いたような気がした。瑠珈ははっとして堤防の上を見上げた。そこにはもう男の姿はなかった。陽炎のように男の姿は消えていた。あたりを見回しながら、気がつくと、先ほど転んで作った手のひらの擦り傷が不思議なことに綺麗に治っている。
瑠珈が手のひらから顔を上げた時には、川岸に沢山いた無為たちも一匹残らず消えていた。あたりをよくよく見回しても、彼らの姿はどこにも見当たらなかった。瑠珈は傷の治った手のひらをもう一度見つめた。そこには先ほどの男の手の感触が強く残っているだけだった。
瑠珈はバックを肩にかけ直すと、川の向こうの燃える夕焼けを見た。そして堤防の遊歩道に上がり、自分の家へ向かってまた走り出したのだった。

一体あれは何だったのだろう?不思議なものを見てしまったとドキドキしながら、一目散に自宅まで駆け戻った。瑠珈は息せき切って台所で夕食を作っていた母親に今起こったことをすべて話した。しかし母親は一笑しただけで、瑠珈の話をまったく取り合う気配はない。転んですり傷を作ったと膝小僧を見せたが、そこには傷がなかったし、タオルも綺麗になっていた。母親は「はいはい、分かった分かった…。昔はおかーさんも、そんなお話を沢山“空想”したものよ。」と笑いながら言ったきりで、それ以上なにも言わなかった。びっくりして、すごいものを見たねと喜んでもらえると思っていたので、そんな母親の反応に瑠珈はとてもがっかりした。
年の離れた兄はとうに家を出ていたし、会社員の父は帰りが遅かった。だいたいそんなおとぎ話のような不思議な出来事は、家族であっても大人たちはけして信じることはないのだと瑠珈はこの時、子どもながらに悟った。それ以来瑠珈は長い間、その時の体験を誰にも話すことはなかった。

そんな瑠珈が、ある時その6歳の頃の不思議な思い出を唯一語った相手が朋子だった。
大学に入学し、高校時代から天文部と美術部を掛け持ちしていた瑠珈が、大学入学の記念にと父親からプレゼントされた対空双眼鏡をかかえて扉をたたいた部室が天文同好会だった。
朋子は瑠珈より二日ほど早く天文同好会に入部を済ませていた。
瑠珈が、そのほんのりと薄暗い部室を訪れた時、部室の角に山のように積まれた古い天体望遠鏡のケースを腰に手を当ててじっと見上げていたのが、朋子だった。
入部したてのある日、ふたりしてホコリをかぶっていたそれらの古い古い天体望遠鏡を掃除していた時、瑠珈は長い間、忘れていたその思い出を朋子に話したのだった。
いったいどうして、話す気になったのか、今となってはその時の自分の気持ちを思い出すことすらできないが、瑠珈はその時、堰を切ったようにあの日の思い出を朋子に話したのだった。
きっと朋子にとっては、この子はこの年になっても夢見がちな、なんとも奇妙な面白い子と映ったのかもしれない。
後になって分かったことだが、朋子は映画やSFや空想伝奇小説が大好きな、想像力の逞しい(時に逞しずぎる)子だった。そんなところも、“夢見がちな面白い”この子とはなんとなく馬が合うと思われたのかもしれなかった。
てっきり昔の母のように笑い飛ばされるかと思ったら、そうではなかった。朋子は分解した望遠鏡のレンズを専用のクロス(布)で磨く手を一瞬止めて、ちょっと懐かしいものを見るような眼を、瑠珈にむけた。
「――まぁ、空の星を眺めていると…、時々思うことがあるよ。瑠珈の感じたそれは特別珍しいことではなくて、結構沢山あることの現われの、一つなのかもしれないって…。」
朋子はふふっと声を出して笑った。
「世界中の星座を見てみなよ。そしてそれらにまつわるお話、神話や伝説。世界中に溢れている星々の昔話はみんな、そんなのばかりだよね。」
「う~~ん、確かにね。」
「もしかしたら、ヒトの長い長い歴史を紐解くと、きっと今の時代の方がとっても珍しい時なのかもしれない…。何千年もかけて、毎晩毎晩、天空に広がる夜の星々を眺めながら語ってきた星の物語の方が、人々にとってははるかにリアルだった時があって、そうじゃない現代のあたしたちの、何も見えない、何も感じない時代の方が、とても特殊なんじゃないかって…。」
朋子はレンズをカチャリと望遠鏡の本体にはめた。
「日本の昔話だって、本当に沢山あるじゃない。…っていうか、不思議な話ばかりだよね。妖怪だの、お化けだの、もののけだの、鬼だの、妖精だの、あやかしや精霊とか……。こういうのがヒトの目に見えない、それらの存在がヒトの生活の中から追いやられてる時代っていうのは、ヒトの歴史から見れば案外ほんのちょっとの間だったんじゃないかしら…。
もしかしたら、今は伝わっていない、消えてしまったお話も実は沢山あって、その中には、もっともっと沢山の目には見えない、何だか分からない生きものたちとヒトと関わりが語られていたのかもしれないよ…。」
「確かにそれはあり得るかも……。」
瑠珈が真面目な顔をして朋子を見ると、朋子はいたずらっぽく笑い返した。
「みんなどこに行っちゃったんだろうねぇ~。結構まだあたしたちのすぐそばにいるのかもしれないよ。ほら、こういう古い望遠鏡だって、よーく磨いてやったりすると、ニカニカ笑って喜んでいるような気がしない?なんだっけ?古い道具に宿る、何とかっていうの、で、あんまり手入れをしなかったり忘れちゃったりすると、化けて出るってやつ…。」
「…えぇと、ツクモガミ?」
「あぁ、そうそう、それよそれ。そう思うとさ、何だかちょっと楽しくない?生きているものや生きてないものや、身の回りにある、目に見えてるすべてモノや、そうじゃない見えないモノに対しても、何かが宿っていて、それらに、こう、息吹を感じられるのって……。」
「そうだね、そうかもしれないね…。」
と、瑠珈は答えながら、少し笑った。何だか自分という存在を間接的に認められた気がして、朋子と話していた瑠珈は、心がほんわり軽くなったことを、今でもよく覚えている。
そんな話をして以来、学科やコースは違うけれど、同じ天文同好会同士、つかす離れず、朋子とは行動を共にすることが多くなったのだった。
「でもね、今の時代はそーゆーのが見えちゃうっていうのはね…」
分解した望遠鏡を組み立てて、木製の古いケースにきちんと仕舞い直しながら、朋子は話を続けた。
「一種の現実逃避、疲れすぎ、見間違い、それから何かの欲求不満っていうことに置き換えられちゃうのよ。」
「あぁ、そうか!今ではそういうコトバに置き換えられちゃうのね。ますます彼らが説明しづらく、見えづらくなっちゃうわけね。」
そうして瑠珈は再び真剣に頷き、朋子をまたクスリと笑わせたのだった。


――続く――


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