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【アンという名の少女】

9月13日にNHKにて放送が開始されたドラマ「アンという名の少女」は、あの有名なモンゴメリ「赤毛のアン」を原作にしたドラマシリーズだ。SNSでも話題になっており、すでに高い評価を得ている本作だが私は原作も読んだことがないし、傑作と言われる高畑勲の「赤毛のアン」も見たことがない。赤毛のコンプレックスのあるおしゃべりな女の子が成長する話というイメージだけを抱いて第1回目の放送を見たところ、自分でもわけがわからないくらい涙がにじんでしょうがなかった。そこでなぜこんなに私が目を腫らしているかについて書いてみたい。

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1、別に「おしゃべり」に生まれただけではない
いや、おしゃべりな性格はもともと持っていたのかもしれないけれど、アンのアン"らしさ"はこれまでの成長過程での環境的要因が大きいのかもしれない思える演出だった。効果的なタイミングで差しはさまれるフラッシュバックは、ぼーっと立ち尽くす直後の一瞬だけでなく、激しい感情の起伏、突発的に走り出したり働きだしたりする衝動の強さにも影響しているように感じさせられる。アンのいわゆる普通の感覚をちょっと飛びぬけている感じは、孤児という抑圧的な環境や経験が発達にも影響して彼女の持ち前の特性にドライブをかけている。その可能性を踏まえると、アンを単に「変わった子」と捉えるだけでは済まなくなる。原作がどうなのかはわからないけれど、社会的背景による貧困や虐待が子供の発達に影響を及ぼすという点が描かれているような気がした。
あと混乱した時やショックを受けた時に、視界がぼやけて周りの音が遠のくのも、本人の目線なのは素晴らしい。ファインディング・ドリーでも同様の描写があったように、傍からみたら「どうしたの?」と怪訝な顔をされそうな様子でも本人からしてみるとこれだけ不安定になっているのだということが直感的に伝わる。

2、「あなたも自分が無能だとおもわないでしょ?」に刺される
グリーン・ゲーブルズに到着してすぐに絶望のどん底に突き落とされたアンだが、男の子を望んでいたマリラに対して、ぐいぐい詰め寄るシーンがある。マリラのような厳めしい女性相手に、自分の理を通そうとなんて出来ないよ、と私なら思ってしまうけれど、アンは行ける人だ。さっきまでどん底だったのに今は食い下がるという急なマインドの切り替えもすごいのだけれど、アンは「女の子だから」なんて理由で引き下がらない。「女に農場の仕事は無理」だと言われても女の子は「男の子より有能」だと返す。さらに、マリラに対して「自分が何も出来ないなんて思わないでしょ?」と詰め寄る。自分自身が女だからといって、そんな理由で自分には何もできないなんて思わないでしょ?グゥと唸ったのはマリラではなくて私だった。その通りだ。女、なんでも出来ます。しかも、マリラはどう見ても働き者だし、家も上手く切り盛りしているし、何か自負心とか信念といったものがある人なんだろうなと思わせる人物だ。そんなマリラに向けたこのセリフ、めちゃくちゃ刺さった。モンゴメリの孫娘へのインタビューを読んだら、当時はそんな言葉なかったけど(モンゴメリは)今でいうフェミニストだったと思う、と語っていて、やはり。と思った。最高だ。

3、言葉を与えること
人と人が関わる、関係を築くというのはなんと尊いことだろうと思わせる最初のシーンは、マシューが戸惑いながらもアンを馬車に乗せ家に向かうところだ。最初はどうしたもんかと強ばった表情のマシューだが、アンのおしゃべりが彼の心をこじ開ける。
アンはとめどなくあふれる想いを口にする。ブレーキという存在を忘れたように。アンが喋りすぎることに対してマシューが「構わんよ」と言えば「自由に話せるって幸せ」と胸いっぱいに草原の空気を吸い込む。孤児として育ってきたアンにはこれまでそのような機会があまりなかったこともうかがえると同時に、彼らを包む自然は美しくて、マシューもきっと心が解けているのかと思うと涙腺がやられる。なんだって自由に話していいんだよアン。
寡黙なのもいいけれど、言葉を与えると世界が鮮やかで立体的になる。マシューも視聴者もその体験をしたのがこの最初の馬車のシーンではないだろうか。「感動には大げさな言葉」が必要だといってアンはなんでも言葉にしてくれるし「喜びの白い道」だとか「輝きの湖」とか言って、いろんなものに名前をつける。それが見てる私もホントに大げさだな、とはじめは思うのに、次第にその通り、その通りだよ、アン。となっていく。大人にとっては慣れ切った日常の風景を大げさに言葉にする。嫌なことも嬉しいことも悲しいことも。辛くてどうしようもないことも多いから、アンは想像する。現実も想像もどちらもアンにとっては現実だ。彼女は彼女の現実を生きている。そんなアンを見ているとまた目から水が…。

4、切り取られていない自然。まさにこの目に映る自然。
アンが家に桜を飾りたいというと、花は咲いてる場所に咲かせておくものです(的な)とマリラが言ったように、本作の映像では崖と草原と海と馬車道と草むら湖に境目はない。つまり注目を求めていない佇まいなのだ。鮮やかでビビットな色合い、デザインされたスタイルの美しさではない。駅の傍らの白い桜。野生のピンクのバラ。窓辺で手折った桜。喜びの白い道。淡い色合いだけれども、自然の中で際立つように感じさせるのはなぜだろう。ただそこに咲いているだけ。風景の一部として、ただ風に吹かれているだけなのに。無数のものの中であるものの美しさを発見する喜び。そんな喜びを思い出させられた。本作に映し出される花や自然は、まさに自分の足で歩き見つけるこの目に映る自然そのものの姿であって、自ら発見したもののように美しい。

5、わが娘かと思う
思いついたことを衝動的にやるし喋るし、喜怒哀楽がめちゃくちゃ激しい娘はうちにもいる。だからアンが癇癪してぶち切れてても、それが結構正論だったりするし、その気持ちもわかるから、マシューとマリラが「うっ」って立ち止まって静かに動揺する感じに共感しかない。アンもうちの娘も良くも悪くも感情のひだを全部逆立たせてくれるし、せっかく疲れたくないから省エネで抑えてるのに、むりやり感情を拡張してくるパワーがある。「うるせー!」ともなれば「よくぞ言ってくれた!」ということもある。静かに暮らしたい大人にとって世界は鮮やかにはなるけど、大変だ。だけど、マシューがマニラに「お前の話相手になるだろう」っていってたように本当に心強いカンパニー(英語ではそう言ってた)になるのは確実だと思う。希望だ。

※NHKで放送された第1話とNETFLIXの第1話を視聴しました。

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