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アウトサイド・モノクローム/6話

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―――――(30)―――――


高校最後の冬休み。同級生に先駆けて進路の決まった恭仁は、自動車学校に通って学科教習を順当にこなす一方、技能教習には苦戦させられていた。

「ギヤを上げるのが遅い! ちゃんと回転計(タコメーター)見て、音にも気を配って! 吹かし過ぎる前に変速しないと、エンジンが可哀想だよ!」
「は、はいッ!」

教習所内の運転コース。教習車の運転席に恭仁が座り、回転計で跳ね上がる針を横目に、覚束ない足取りでクラッチを踏んでギヤレバーを2速に変える間にも、車は慣性で走り続けて、助手席では教官が前方を指差している。

「交差点の信号、赤! ちゃんと前見て、前!」
「はいッ!」

恭仁が教官を横目にブレーキへと踏み変える間にも、教官が補助ブレーキを踏み切り、教習車が力なくエンスト。恭仁はステアリングを手に項垂れた。

「エンストしたら、早くエンジンをかけ直す。後ろの迷惑になるよ!」
「はいッ!」

ギヤレバーをニュートラルに戻し、キーを捻ってエンジンを再始動。信号が青に変わったのを確かめると、ギヤを1速に繋いで半クラッチのアクセル。

「交差点を通る時は、青信号でもちゃんと右左を確認!」
「すいませんッ!」
「また1速のまま走ってる。2速、3速は早めに上げてスピードに乗る!」
「はいッ!」

恭仁は自転車の乗り方を覚える子供のように、教習車の運転席にしがみつき拙い操作と一兵卒じみた返事で、老齢の教官の鞭撻に必死に食らいつく。

「……はい、今日はここまで」

そうして毎回、配車位置までどうにか教習車を戻す頃には、恭仁は運転席でへとへとに疲労困憊していた。座学でどれだけ知識を溜め込んでも、実際に運転すると状況変化の早さに心身が順応できず、思考が吹き飛んでしまう。

「いつも言っているけど、倉山さんは慌て過ぎですよ。もう少し落ち着いて運転しましょう。心にゆとりを持って、もっと周りに目を配りましょうね」
「自分では、頑張ってるつもりなんですが。気を付けます」
「余りガチガチに緊張していると、見える物も見えてきませんからね」
「はい。次回は気を付けます」

教官はバインダーに挟んだ紙にサラサラと記入し、恭仁を横目に見た。

「お疲れ様です。次はもっと頑張りましょう」
「ありがとうございました……」

恭仁は這う這うの体で運転席を降り、後部座席からトートバッグを取り出し肩にかけると、逃げ出すように教習車から離れて校舎の玄関をくぐった。

「僕、車の運転に向いてないのかな……」

恭仁は独り言ち、トイレで用を足し手洗い場に立った。鏡を見ると、背後に血濡れた海老原の亡霊が佇み、澱んだ瞳でこちらを見つめる。蛇口の水音が雨音に変わり、トランクの闇と雨の道路を駆けるタイヤ音が思い出された。

目を閉じ、蛇口を捻り、深呼吸して目を開く。亡霊の姿は無い。落ち着きを取り戻した恭仁がドアをくぐると、教室へ歩みつつスマホを取り出した。

「あれ、伊集院さんから着信が来てる。何だろう」

チャットアプリに新着のメッセージ。伊集院とは部活の連絡のために何度かやり取りしたきりで、恭仁は番号を登録していることすら忘れていた。

「そういえば、伊集院さんと長く話してないな。元気かな」

恭仁は部活時代を思い出して懐かしくなり、スマホを操作する。伊集院とは冬休み前から何となくギクシャクして、そのまま休みで離れ離れになった。

『元気? 最近会わないね。私は毎日元気で受験勉強頑張ってるよ』

文面を読んでいると、彼女の声が聞こえてくるような気がして、恭仁の顔が自然と綻ぶ。スマホの画面を手繰り、溜まったメッセージを読んでいく。

『もう直ぐクリスマス。恭仁クンは予定ある? 私はずっと受験勉強かな』
『勉強、勉強……毎日ずっと勉強してると、息が詰まりそう』
『気分転換にどこか行きたいな。時間があったら一緒にどこか行かない?』
『用事があったら、無理しなくていいからね。返信待ってます』

恭仁はスマホに映る文面に目を瞬き、思考が凍り付いた。胸の動悸が激しく浅い呼吸を繰り返す。恭仁は指を彷徨わせ、返信を書きあぐねた。伊集院に会いたくないと言えば嘘になるが、文面から窺える彼女のナーバスな感情に恭仁は一抹の不安を覚えた。僕は伊集院さんを受け止める覚悟があるか。

鬼と出るか蛇と出るか、彼女とは決着をつけねばなるまい。恭仁は深呼吸を一つして、心にささめく不安と葛藤を手懐けて、スマホをフリックする。

『僕はクリスマス空いてるよ。受験勉強、お疲れ様だね。僕も自動車学校でビシバシしごかれて何とかやってます。息抜きは大事だよね。頑張って』

送信ボタンに伸ばした指が、一瞬震えて躊躇った。得体の知れない恐怖心が頭に靄をかける。怖いのは彼女も同じはず。自分を強いて、最後の一押し。

チャイムの音で我に返った恭仁が、スマホをスリープさせかけた時、返信がチャット画面にポップ。恭仁はボタンを押しかけた指を止め、文面を見た。

『クリスマス、楽しみだな。また連絡するね』
『よーし、勉強頑張るぞー!』

恭仁は動物のデフォルメ絵のスタンプに微笑み、スマホをバッグに収めた。


―――――(31)―――――


夕刻の倉山家の門前に、古いイギリス車を模したセダン、光岡・ビュートが停まっていた。恭仁が普段着姿で門を出ると、艶やかに黒光りするセダンの助手席に乗り込んだ。運転席には、叔父の善吉が革ジャン姿で座っている。

「改まってお祝いの食事って言うと、何だか照れ臭いですね、叔父さん」
「恭ちゃんもこれから大人の仲間入りだからな、今日はシックに行こうぜ」

善吉は小太りな腹を叩いてエンジンを始動させると、澱みなくギヤを1速に入れてサイドブレーキを外し、危うげない半クラッチで車を発進させた。

「上手いですね」
「何だ、恭ちゃん。そういや最近、自動車学校に通ってるんだったか?」
「これが上手く行かなくて。落ち着いて運転しろって言われるんです」
「ガッハッハ! まあ最初はそんなもんよ。そのうち慣れてくらぁ」
「そんなもんですかね」

善吉はシフトダウンして徐行し、脇道から大通りに車を乗り入れて再加速。

「あれやれこれやれって、頭で考えているうちはまだまだだぞ。人間の脳が同時に処理できるタスクの数には限りがあるからな。こんな時は何をすると身体に覚え込ませて、上手に手抜きしなきゃ疲れちまうだろ。いつも全力を出してちゃいかん。急な事態に備えて、心と頭に余白を確保するべきだ」

善吉は巧みなシフト操作とアクセル加減で、星ノ宮の渋滞がちな電車通りを軽快に駆け抜け、路地に曲がると徐行し、十字路の度に最徐行で左右の道に目を光らせ、狭い道を通行する歩行者や自転車、信号や死角を恭仁に示す。

「道路において一番気を付けにゃならんのは歩行者、それも子供。その次は年寄りの歩行者だ。次に注意するのは自転車の子供と、年寄りの自転車だ」
「どの道、子供と年寄りってわけですか」

恭仁が言いかける前で、学生らしき少年が自転車で路地を斜め横断。善吉がしたり顔でアクセルを抜いて減速し、安全に回避すると恭仁を横目に見た。

「連中は注意力散漫な上に、ルール無用な無敵の存在だからな」
「向こうが飛び出して事故になっても、車の運転手が悪いんですよね」
「それもまたルールさ。嫌ならルールを変えるか、車を降りるしかないな」

善吉はあっけらかんと笑顔で答え、下町の小料理屋の駐車場で車を停める。

「和食ですか、叔父さんらしくないですよ」
「おっちゃんだって、肉以外の食い物もちゃんと食うんだよ!」

善吉が苦笑交じりに恭仁の肩を小突き、2人は車を降りる。善吉が先導して小料理屋の引き戸を開け、着物に襷掛けしてカウンターに佇んだお上さんに片手を挙げて店内に歩み入る。善吉とお上さんが何事か親しげに話しながら恭仁を視線を向けた。恭仁は思わず目を逸らし、引き戸を静かに閉じる。

「こっちだ、恭ちゃん」

善吉が恭仁を手招きし、2人はテーブル席の片隅に対面して腰を下ろす。

「……予約席?」
「まあな。今日のスペシャル料理は、飛び込みじゃ用立てられん食材でな」

善吉がテーブルのおしぼりで顔を拭う様に、恭仁は怪訝な表情を向ける。

「よく分かりませんけど、A5ランクの黒毛和牛とかですか?」
「だから恭ちゃん、肉から離れろって!」
「楽しそうじゃない、善ちゃん」

お上さんが善吉と恭仁のテーブルに急須を置き、気安い笑みで声をかける。

「ぜ、善ちゃん?」

恭仁が目を瞬いてお上さんと善吉を交互に見ると、善吉が急須に手を伸ばし湯呑に焙じ茶を注いで飲むと、お上さんを見ずに彼女を親指で指差した。

「こいつ、俺のいわゆる幼馴染」
「付き合ってた頃もあったけどね。もうずっとずっと昔にだけど」

善吉が誤魔化すように咳払いすると、お上さんが口に平手を添えてウフフと意地悪い笑みをこぼし、恭仁にニコリと微笑みを向けてテーブルを離れる。

「恭ちゃん。あのオバサンに妙なこと吹き込まれても、真に受けるなよ」

腕組みして念を押す善吉の真顔がやけにおかしく、恭仁は拳で口元を隠してクスリと笑った。善吉は恭仁の反応にムッとしして片手の湯呑を呷る。

「何がおかしいんだよ?」
「いえ。気心の知れたお友達というものも、いいものですね」
「気心が知れ過ぎて、お互い脛の傷が何本あるかまでお見通しの腐れ縁さ」

お上さんが素知らぬ笑顔で、2人分の角皿をテーブルに置いていく。前菜の煮凝りだ。善吉が割り箸を割って、3つ並んだ煮凝りを2つ同時に口へ放る。

「今日は魚料理ですか。いいですね」

恭仁もまた割り箸を手に煮凝りを抓むと、淡く澄んだ出汁と白身魚の風味が口の中にじんわりと広がった。食べ慣れている魚とは違った美味しさだ。

「それで、彼女とは上手くやってるのか?」
「彼女ですって?」
「恭ちゃんが入院してた時、見舞いに来た子だよ。おっちゃん覚えてるぞ」

善吉がニカリと笑って指差すと、恭仁は視線を逸らして赤面し、口ごもる。

「よく分からないです」
「よく分からないってどういうことだ。まさかまだ付き合ってないのか?」
「僕たちがそういう関係になるのが、お互いのためになるのかなって」
「ハァ……煮え切らんヤツだな……とは言ったものの……そうだな」

お上さんの持ってきたホッピーの小瓶を、善吉が手酌で呷って息をついた。

「余り深く考え過ぎると、人付き合いはやり辛いぞ。自分が思っているほど相手は深く考えてないってこたぁざらにあるし、その逆もまた然りだ」
「どうすればいいんでしょう」
「答えはないが、行動してみるのが一番手っ取り早くはある。やった後悔とやらなかった後悔、同じだけあるとして、恭ちゃんがどちらを選ぶかだ」

善吉が3つ目の煮凝りを咀嚼して語り、恭仁も頷いて煮凝りを口に運んだ。

「恭ちゃんの問題は、他人に優し過ぎることだな。もっと自分本位に生きて他人を振り回して、多少は傷つけるぐらいで可愛げがあるってもんだ」
「難しいですよ、叔父さん。それ、僕が一番嫌いなことです」
「分かるよ。恭ちゃんならそう言うと思った。まあ、無理強いはできんさ」

善吉が神妙な顔つきで何度も頷くと、目を逸らして顎を突き出した。恭仁が視線を追うと、お上さんが大皿を持ってくるところだった。眼前に置かれた皿に白身の薄造りが菊花のように盛られ、傍らの薬味が彩りを添えていた。

「お、叔父さん!? これってまさか」
「鉄砲だ。俺と恭ちゃんの2人で食うには相応しいだろ」

善吉が笑顔で恭仁を一瞥し、刺身(てっさ)を箸でかき分け、5枚ほど抓みポン酢を塗すと咀嚼した。鉄砲……当たれば死ぬ……つまり、フグの刺身だ。

「何てったって、下関直送の天然トラフグですからね。質も鮮度も抜群!」

恭仁はお上さんの自信満々な顔を見て、薄い刺身に箸を伸ばす。口に放るとハリの良い筋肉質の白身の奥に微かな甘味を覚えて、恭仁は何度も頷いた。

「美味しい! フグ刺し、初めて食べましたけど、食感が最高ですね!」
「遠慮は要らんぞ。かき氷みてぇに気前よくかっ食らうのが粋ってモンだ」
「大人のかき氷ですか。風流ですね」
「だろ。恭ちゃんもこれから大人の仲間入りだからな。祝いの門出だ」

恭仁と善吉はフグ刺しを平らげると、みぞれ煮に白子のグラタン、唐揚げにフグちり鍋に雑炊と、息をもつかせぬフグ懐石の波状攻撃に舌鼓を打った。

「すいません、こんなに色々食べさせてもらって」

善吉はお替りのホッピーをグラスに注ぐと、テーブルに肘を突いて苦笑い。

「そういう時は、すいませんじゃなくて、ありがとうって言うもんだぞ」
「はい、ありがとうございます」

恭仁は気恥ずかしそうに答え、湯呑の焙じ茶を飲み干して、空になった底をじっと見つめた。善吉もグラスの半分ほどを呷り、座椅子に深くもたれる。

「本当はな、おっちゃんは恭ちゃんに大学に行ってほしかったんだがな」
「射撃は、警察に行っても出来ますから」
「そりゃそうだがよ。おっちゃんが言うのも何だが、警察も楽じゃないぜ」
「覚悟は出来てますよ。ご先祖様に恥じないよう、精一杯頑張ります」
「……いいか恭仁、これだけは覚えておけ」

善吉のいつになく真剣な声に、恭仁は真顔で向き直った。善吉はずり落ちた眼鏡を片手で正し、グラスのホッピーを飲み干してから恭仁と正対する。

「家族や先祖がどうあれ、お前の人生はお前の物だ。そこは履き違えるな」

恭仁はシュンとして湯呑に顔を戻すと、急須から茶を次いで一息に呷った。

「オリンピックの表彰台で恭ちゃんの面を拝むの、楽しみに待ってるぜ」

善吉はお茶目な笑みで再び恭仁に目を向けると、そう言ってウィンクした。


―――――(32)―――――


クリスマスの朝、バスの最後尾。恭仁は窓際の席に押し込められ、伊集院と隣り合って座っていた。伊集院の膝横に大きなキャリーケースがあり、車が路面の凹凸で揺れるたび、キャスターが音を軋ませる。伊集院はどことなく硬い表情をしており、恭仁は会話のどう切り出したものか思い悩んでいた。

「あのさ、伊集院さん……」
「摩耶でいいよ」
「伊集い……」
「摩耶」

振り向いた伊集院の強張った顔つきに、恭仁は笑みを引き攣らせ、二の句が継げず口を噤んだ。彼女の押しの強さはいつものことだが、今日はいつにも増して圧が強く感じられる。真剣(ガチ)な戦闘モードに恭仁は萎縮した。

「……摩耶さん」
「さん、か。今日のところはそれで許してあげる」

恭仁の生殺与奪を握る閻魔じみて、摩耶の艶やかな唇が蠢き宣告し、余裕を取り戻したように微笑む。恭仁は山猫に睨まれた兎のように身を縮こめた。

「で、どうしたの?」
「折角のお休みに射撃場って……」
「悪い?」

窓際に押し込められるように座った恭仁が、形容し難い表情で降車ボタンに手を伸ばすと、摩耶が身を乗り出して恭仁を押し退け、ボタンを押した。

「次、停まります……」

恭仁の顔を摩耶の髪が擽り、鼻先にふわりとシャンプーの匂いが漂う。

「あれ。摩耶さん、ちょっと髪伸びた?」
「やっと気づいた?」

摩耶はボタンを押す姿勢のまま、恭仁にしなだれかかってクスリと笑う。

「ねぇ恭仁クン。今日は2人で真剣勝負しようよ」
「勝負って、ピストルとライフルでかい?」
「得意分野で全力を出した方が、お互いに後腐れないでしょう? 準備から本射の60発まで2時間で終わらせる。空撃ちと試射は無制限。だけど本射を撃ち始めたら、練習には戻れない。遊びには丁度いい緊張感でしょう?」
「何がしたいかは分かるけど、何のためにするのかは分からないな」

恭仁が溜め息がちに言うと、摩耶が身を引いて恭仁の耳元に口を寄せた。

「勝負に負けた方が、勝った方の言うことを聞くの。どんなお願いでもね」
「えぇっ!? それってお願いじゃなくて最早、命令だよね!?」

鄙びたワインディングでバスが停まり、摩耶は恭仁に構わず席を立つ。

「ちょっと、摩耶さん!」
「約束だからね、恭仁クン」

摩耶が恭仁を振り返らずに告げ、キャリーを引いて先を歩む。恭仁は戸惑う顔で腰を上げ、彼女の背中を追った。摩耶の片手が、パスケースを運賃箱の非接触端末に翳す。彼女は大きなケースをひょいと片手で持ち上げ、歩道に降り立った。恭仁は運賃箱に小銭を投じて運転手に会釈し、バスを降りた。

「寒いね、摩耶さん」
「お陰で目が覚めるよ。行こ!」

バスが重々しく走り出す横で、摩耶がキャリーの取っ手と恭仁の袖を別々の手で引いて歩き出す。恭仁は片手で上着の襟を閉じ、白い息を吐いて歩く。

穏やかな日差しと、冬の朝の冷たい峻烈な空気。道路沿いの民家の木立から小鳥の囀りが聴こえ、2人が曲がった坂道を上ると22口径の甲高い発砲音が寒空に轟く。竜ヶ島ライフル射撃場の開かれた門を潜り、だだっ広い敷地に入ると。摩耶は足を止めて両手を広げ、冷たい空気を胸一杯に吸い込んだ。

「よーし、撃つぞ!」
「摩耶さん、気合充分だね。ちょっと怖いぐらい」
「恭仁クンも射撃はご無沙汰でしょ。たまには撃たないと腕が鈍るよ!」

摩耶が恭仁の袖を引き、早く早くと彼を急き立て歩く。入口を潜って受付に挨拶すると、禿げ頭の射場主が受付の小窓を開き、室内の暖気が溢れ出た。

「お早うございます」
「どうも倉山さん。年の瀬にもピストルですか。射座なら空いてますよ」
「ビームピストルを1人と……」
「ビームライフルも1人、お願いします!」

恭仁を上体と腰で押し退けて伊集院が言うと、射場主は微笑んで頷いた。

恭仁が普段着で射座に立つ一方、伊集院は別室でお洒落着から射撃ウェアに着替えて、不自由そうな足取りで射場に歩み入り、恭仁の隣の射座に並ぶ。

「摩耶さん、僕に勝ったら一体何を命令するつもりなの?」
「まだ教えない。嫌なら恭仁クンが勝って、私に命令すればいいだけだよ」

伊集院はビームライフルの重厚な木製銃床を両手に抱え、挑発的に微笑んで恭仁に告げた。恭仁は苦笑いで応え、ビームピストルを手に標的へ向かう。

「私、まだ全国を諦めてないから。ううん、全国どころじゃない。大学ではもっと上手くなって、いずれ世界にだって行ってやる。恭仁クンはどう?」

恭仁は考え込むように首を傾げて唸り、ピストルを構えて双眸を細めた。

「どうかな。僕は射撃を、示現流と同じ武道の延長線上にある、自己鍛錬の一環と見做してるから。型を学び、業を修め、道を究める。武士道の実践がまず先にあって、点数という結果はその後に自然とついてくると思ってる」

恭仁は自己問答じみて言いつつ、ピストルを標的に構えては下ろして、再び構えては下ろしと、据銃の鍛錬を示現流の型稽古じみて繰り返す。装填して標的を狙い、パチンと空撃ちするピストルの照準は、僅かもぶれなかった。

「……要するに、初めから私なんか眼中に無いってこと。そうなんだ」

ぞっとするほど冷たい声に、恭仁は恐る恐る隣の射座を振り向いた。摩耶は悔しげに奥歯を噛み、刺すような眼光で恭仁を射抜くと標的に向き直る。

「えぇ……そんなこと言ったわけじゃないんだけど。何でそうなるの?」
「絶対に負けない。その澄まし顔を剥ぎ取って、私に振り向かせてみせる」

摩耶はライフルの構えと空撃ちと残心を繰り返しつつ、恭仁を振り向かずに決断的な顔でそう言った。恐ろしいまでの意思と意志の強さ、彼女が発する圧倒的な覇気に恭仁はたじろぎ、緊張の面持ちで標的にピストルを構えた。

「本射はコンマ単位まで計測して。撃てるのは60発だけ。その後は撃ってもカウントしないから。記録用紙に印字された最初の60発が勝負の全てだよ」
「分かったよ」
「じゃあ、本当に真剣勝負だよ。私を本気で叩き潰すつもりで、来て」

それきり2人の会話は止み、2挺の発砲音と息苦しい緊張感に取って代わる。

据銃、空撃ちと残心。照準器を調整し、構えからの見出しを完璧に近づけて照準のストレスを最低限に抑える。同じように構えた時、同じ位置で狙いが見出すのが理想の調整だ。不特定多数の人が触る射撃場の貸し銃は、自分に見合う照準を調整し直さねば、上手く狙えない。そこまで含めての勝負だ。

恭仁は大方の照準を調整し終えると、ピストルを下ろして銃口カバーを被せ射座から退き、準備運動を入念に行って、全身の緊張を解した。隣の射座を見遣ると、摩耶が脇目も降らず、試射を繰り返している。恭仁は射場を出てトイレで用を足すと、手洗い場の鏡を見遣り、亡霊の海老原朱璃に苦笑いでウィンクを返した。射場に戻ると、摩耶が満足げな顔でライフルを下ろして集計機械を設定変更した。本射を始めるのだろう。恭仁もピストルを握る。

恭仁は最後の試射を行うと、点数の微妙さに違和感を覚えた。弾着が僅かにズレている。恭仁は反射的に摩耶を一瞥した。摩耶は自分のリズムを掴んで淀みなく射撃している。恭仁は溜め息をつくと、無言で照準を再調整した。

一般論として、ライフルはピストルより精密に狙えるため、ピストルよりもライフルの方が高得点を出せる。恭仁の最高記録は60発の535.3点。対する摩耶は40発の359.6点で、60発に換算すると539.4点。合計点数は同水準でもピストルの恭仁は全国2位で、ライフルの摩耶は地区大会の強豪止まりだ。

恭仁は否応無しに摩耶を意識させられ、彼女を繰り返し横目に見た。キミは何を考えているんだ。ダーティな手段に訴えてまで勝つことが、キミの言う真剣勝負なのか。そんなことして僕に勝って、キミは本当に嬉しいのか。

恭仁は心の中で摩耶に問い、照準の調整を終えたピストルを試射して結果に満足すると、彼女に十数分遅れて本射に入った。恭仁は己の武道と武士道を侮辱されたように思えて、摩耶に負けたくない気持ちが心に沸き上がった。

伊集院摩耶は倉山恭二に喧嘩を売ったのだ。良かろう、全力で受けて立つ。

1発目は10.5点。悪くない点数だ。否、この水準を維持できないと勝てない。

撃つ、撃つ、また撃つ。ボルトを、装填レバーをコックして、幾度も撃つ。

射撃場は不思議な空間だ。射座に並び立つ個々人は、同じ空間を共有しつつスタンドアローン。ピストルとライフル、隣り合う射座で、同じ方向を見てそれぞれの銃を構える恭仁と伊集院との心は、宇宙の果てより離れている。

しんしんと冷える射撃場、互いの吐息すら聞こえる静寂の至近距離、2人は触れ合うことも言葉を交わすこともなく、迂遠長大で孤独な時を共有する。

心拍を意識する。呼吸を整える。身動きを御し、指先を意識し、狙い撃つ。

安っぽい電子の発砲音がリズムを刻み、時が溶け、10点の表示が明滅する。

眠りながら目覚める、意識と無意識のあわい、禅行じみた忘我無我の反復。

自我の殻を脱ぎ捨てた精神の深淵に、亡霊の死と甘い香りが息づいている。

貴方が刺さなかった止めを、僕が撃って終わらせる。何度でも、何度でも。

恭仁は亡霊に意識の腕を伸ばして、彼女を掴み、己の内に引きずり込んだ。

この勝負、絶対に勝つ。それも正々堂々と。そのためなら僕は悪魔になる。

海老原朱璃の美しくも血濡れた裸体のシルエットが崩れ、摩耶の傲岸不遜な射撃フォームへと摩り替わる。幻影の摩耶はライフルを構え、恭仁の心臓に狙いを定めていた。恭仁はピストルを下ろし、深呼吸して標的に再び銃口を構えた。面白い、ここから先は本気の殺し合いってわけか。覚悟はいいな。

恭仁は表情に殺気を漲らせ、摩耶の幻影に狙いを定め、躊躇わずに撃った。

張り詰めた空気の中で発砲音が連なり、互いを乗り越えようとせめぎ合う。

……9.3点、10.1点、9.7点。恭仁は呼吸を整え、最後の1発を撃ち……10.6点。

60発。泣いても笑ってもこれで終わりだ。恭仁は銃を下ろし、電源を切って銃口カバーを被せると、集計機械のボタンを押し、記録用紙に合計を印字し千切り取る。合計539.6点。非公式だが最高点を更新した。言葉通り全力だ。

「……恭仁クン、怖い顔してるよ」

摩耶の声で我に返った恭仁が、隣の射座を振り返る。彼女は見てはいけない物を見てしまったように、どこか恐れるような、あるいは畏れるような顔で恭仁から目を逸らし、自分の記録用紙をぎゅっと握りしめた。目を凝らすと彼女の手は小刻みに震えていた。恭仁は驚き、自分の頬を両手で摩った。

「そうかな?」
「点数、何点だった?」

摩耶が声を震わせて問うと、恭仁は自分のロール紙を見直し笑みをこぼす。

「今回は自信あるよ。摩耶さんには悪いけど、最高記録、更新したもん」
「実は、私もそうなんだ。じゃあ、2人で同時に言ってみない?」
「オッケー。じゃあいっせーのーで……」
「570.1点」
「539.6点」

恭仁は鼻高々に自分の点数を言った直後、光の速さで摩耶を振り向いた。

「ハァッ、570点!? 嘘でしょ!?」
「びっくりだよ……こんな点数、今まで一度も撃てたことないのに……」

摩耶は点数用紙を落とすと、身体を揺すって強張った笑みをこぼす。恭仁は狼狽えて駆け寄り、彼女の足元から紙を拾い上げた。確かに合計570.1点だ。

「どっひゃー。ライフルの最高点が、いくら600点を超えるとはいえ……」

恭仁はしみじみ呟くと、クスクスと笑った。やがて腹を抱え、大笑いする。

「御免ね、恭仁クン。私、ズルしちゃった」
「気づいてたよ。だけど僕は、ちゃんと直して撃って、結果だって出した」
「怒ってないの?」
「怒ったさ。割と本気でキミをぶちこ……のめそうと思ったけど、ここまでボロ負けしたらいっそ清々しいね。許す許さないの次元の問題じゃないよ」

恭仁が据わった双眸で笑い、摩耶の手を取り、彼女の点数用紙を握らせる。

「おめでとう。摩耶さん、世界も夢じゃないよ。大学でも射撃、頑張って」

恭仁の両手が摩耶の片手を包み込み、恭仁は半目で彼女を励ました。彼女の手をガラス細工のように握り潰してやりたい衝動を、内心で必死に抑えて。

己の武士道を侮辱された上に、ケチの付けようもなく完膚なきまでに実力で叩き潰された。余りに無様で情けなく、怒りのやり場も無い。恭仁の心中に懐かしい感情が込み上げた。これほどの屈辱と悔しさを味わうのも久々だ。

忘却したはずの幼い頃、祖父の剣道場で大人や義兄弟や義姉と戦い、全力で立ち向かっても誰一人として勝てずに、侮辱を甘受して泣き腫らした記憶。

「……それで、僕は摩耶さんのどんなお願いを聞けばいいのかな?」

恭仁は自分でもぞっとするほど冷ややかな声で、にこやかに摩耶へ問うた。


―――――(33)―――――


2人が射撃場を後にして向かった場所は、クリスマスに浮かれる街でなく。

「どうして僕の家なんかに」
「大荷物を持って、お洒落なカフェに行くわけにも行かないでしょ」
「そりゃそうだけどさ。まあいいや、どうぞ上がって」
「お邪魔します」

恭仁が促すと、摩耶は気後れがちに玄関をくぐった。居間に通された摩耶はキャリーを開き、テーブルに勉強道具を引っ張り出すとソファに腰掛けた。

「摩耶さん、それ」
「お洒落なカフェじゃ、受験勉強に集中できないしね」

摩耶が笑顔で赤本を掲げると、恭仁は曖昧な表情で彼女に頷きかけた。

「そう。僕は、適当にお昼ご飯でも作ろうかな」
「恭仁クンが料理できるなんて、本当に意外だよね」
「お義母様の代わりに何度も作ってる内に、すっかり慣れちゃったから」

恭仁がエアコンのリモコンを手に取り、居間の壁を見渡して言うと、摩耶が無言で俯いた。エアコンの起動音がやけに響いた。冷え切った居間に温風が吐き出され、キッチンに向かう恭仁の背後で、紙とペンを繰る音がした。

「その……恭仁クンって……片親なの?」

摩耶の躊躇いがちな問いかけに、恭仁は考え込むように唸ると、冷蔵庫から深ネギと鴨のロース肉を取り出した。刀のように大きなステンレスの包丁を手に取り、刃先を親指でなぞって顔を顰めると、台所下の戸棚を開く。

「そうだね。枝葉はもっと色々あるけど、それを話したら長くなる」

恭仁は淡々と答えつつ、台所の洗い桶に砥石を何個か入れて、水を張った。

「……聞きたいな」
「あんまり楽しい話じゃないよ。話す方も、聞く方も」
「それでも、知りたいな。無理に話してとは言えないけど」

恭仁は深い溜め息をこぼして、水に漬けた砥石を1つ引き上げた。中砥石に包丁を当て、慣れた手つきで研いでいく。両刃の片方を研ぐと裏側も研いで刃を指先でなぞり、目の細かい砥石に何度か変えて、刃を研ぎ上げ頷いた。

「僕が物心つくまで家族だと思ってたのは、本当は伯父様の一家だった」

俎の深ネギと鴨肉が、研ぎ立ての包丁に滑らかな音を立てて断ち切られる。

「本当のお父様もお母様も、全く記憶に無いね。僕は小さい頃から、母方の倉山という苗字と、警察官の一族という宿命を背負って厳しく育てられた」

恭仁は端的に言うと、アルミ鍋に水を張ってコンロの火にかけた。冷蔵庫を開いて、濃褐色の本かえしと淡い黄金色の合わせ出汁、2つの液体を詰めた瓶を取り出す。2つ目の鍋を火にかけ、油を引かず鴨肉のスライスを炒めて脂を出し、鴨を取り出すとその脂でネギを炒めて取り出し、今度は同じ鍋にかえしと出汁を、1対8の比率で注いで火にかける。かけ蕎麦に使う汁だ。

「伯父様も伯母様も義兄様も義姉様も、お祖父様も、尖った性格をしている人ばかりだ。歪んでるんだよ、ここの家系は。呪われていると言うべきか」

1つ目の鍋に湯が沸くと、恭仁は深大寺蕎麦の乾麺を投じて茹でた。2つ目の鍋の汁が温まると、鍋に鴨肉とネギを戻し、沸かさぬよう注意深く温めた。

「結局、僕は余所者なんだ。なら本当の家族はどうかと言えば、実の父親は警察官の殺人犯。しょうもない。世の中、どうにもならないことだらけだ」

恭仁はおどけるように語り、茹でた蕎麦をざるに上げて、凍るような冷水で滑りを洗い流す。汁の味を確かめて2人の丼に注ぎ、冷水で〆た蕎麦を鍋で温め直すと、丼に盛って上からネギと鴨肉をあしらい、仕上げに柚子胡椒。

「有り物で御免ね。年越し蕎麦には、まだちょっと早いかな」

恭仁が2人分の丼を盆に乗せて居間に運ぶと、摩耶がテーブルの勉強道具を脇に寄せ、深大寺蕎麦の鴨南蛮に目を見開いて、恭仁に笑顔を向けた。

「美味しそう。いい匂いだね。食べていい?」
「お口に合えばいいけど」

恭仁が頷いて箸を手渡すと、摩耶は箸を受け取って蕎麦を啜った。

「美味しい。凄く優しい味がする。恭仁クンらしい味だね」

恭仁の脳裏に善吉の箴言が過り、恭仁は開きかけた口を閉ざして息をつく。

「どうなんだろうね。優しい人には可愛げがないらしいけど」

恭仁は摩耶と対面するソファに座り、蕎麦を啜る。南方の醤油にありがちな甘い醤油でなく、甘味料を使わない醤油を選んで使っているので、かけ汁は辛口だ。辛過ぎないのは、かえしに粗糖と灰持酒を利かせているからだ。

「恭仁クン。怒ってるなら、ちゃんと怒って。嬉しいならちゃんと喜んで」
「何が言いたいのかな?」
「どうして自分の気持ちに蓋をするの? そういうとこだよ。自分で自分を傷つけるようなこと、言わないで。もっと有りのままの自分を出しなよ」

恭仁は摩耶の言葉に眉根を寄せ、暫し思案するように蕎麦を啜り続けた。

「……ねぇ、摩耶さん。キミの言葉を信じるなら、僕は今、ほんの少しだけ誰にも見せたくない自分の弱さを、キミに見せたんだ。それは有りのままの僕ってことじゃないかな。それすら否定されるなら、本当の僕って何?」
「違う、別に否定してるわけじゃないよ。そうじゃなくて!」

摩耶が慌てて弁解してしどろもどろになると、恭仁は静々と蕎麦を啜った。

「ハッキリ言っておきたいんだ、摩耶さん。僕は多分キミが思ってるような人間じゃないし、多分キミが望むような人間にもなれないよ。有りのままの僕を望んでいるなら、多分キミの目の前にいる人間だ。ちゃんと僕を見て」
「だから違うんだって! どうして分からないの、この意気地なし!」

摩耶が激高してテーブルを殴ると、恭仁は失望した表情で頭を振った。

「僕は、キミたちのそういうところが、心の底から大嫌いだよ。僕が本心で何を考えてようが、結局は知ったこっちゃないんだ。キミが僕を焚きつける気で言ったマッチョな言葉が、どれだけ僕を傷つけるか知ろうともしない」

恭仁が無表情で忌々しげに淡々と吐き捨てると、摩耶は蒼褪めて沈黙した。

「他人から大事にされたいなんて、他人が聞いたら笑うだろうね。それでもキミなら分かってくれると思ったんだけど、僕たちは分かり合えないな」
「何それ! さっきから聞いてればグチグチウジウジ、自分のことばっかり喋くってみっともない! 私がどんなにあんたを心配したか知らないで!」

摩耶が丼の蕎麦をかっ食らうと、テーブルに平手を叩きつけ、恭仁を指差し叫んだ。恭仁は静かに睨み返した。本気の殺意がこもった眼差しだった。

「その話し方、懐かしいね。僕たちが会ったばかりの頃を思い出すな」
「茶化さないで! 私、冗談を言ってない!」
「つまり、それが摩耶さんの有りのままってことだよね」
「だから何が言いたいの!?」
「ねぇ摩耶さん、有りのままの僕が、キミは本当に見たいんだね?」

恭仁は不意に微笑みを浮かべ、摩耶が口ごもる。恭仁は真顔に戻った。

「分かった。お互いもう後戻りできないけど、キミが望むならいいだろう」

恭仁はそう言って腰を上げると、キッチンへと向かった。刀のように大きな研ぎ立てのステンレス包丁を取って居間に戻り、摩耶に対面するソファへと無表情で腰を下ろした。テーブルの中央、2人の間に包丁を叩きつける。

「これ、キミに預けるから。預けるっていうのはこの場合、僕の命をキミに預けるって意味だよ。僕はこれ以上キミと議論する気は無いよ。僕のことが気に入らないなら、それで僕を好きにすればいい。それで何もかも終わり」

摩耶は身じろぎ一つせず、注意深く視線だけで包丁を一瞥し、恭仁を見た。

「私を試してるの?」
「証明したいだけだよ」
「何を?」
「信用に値する人間などいないってことを」
「私が?」
「摩耶さんに限った話じゃない。世の中の人間全て……僕自身さえもだ」

恭仁は摩耶の双眸を見据えて断言した。静かな語り口には、有無を言わさぬ意思と意志の強さ、極北の白夜じみて底抜けに明るい絶望が滲み出ていた。

摩耶は強張った顔つきで包丁に視線を落とすと、ゆっくりと右手を伸ばして順手で握る。切っ先を恭仁の顔へ向けるも、恭仁は微動だにしなかった。

「腕、出して」

恭仁がおもむろに右手を差し出すと、摩耶が左手で掴んでテーブルの上へと引っ張り出し、包丁の刃を翳した。摩耶が恭仁の目を見ると、恭仁は瞬きも身じろぎもせず、摩耶を真っ向から見返していた。摩耶が包丁を滑らせる。

「痛い?」
「痛くないよ」

恭仁の右手首が僅かに切られ、血が滲んでテーブルにぽたりと滴り落ちる。

「嘘」
「嘘じゃないさ」
「本当?」
「本当だよ」
「信じていい?」

摩耶が包丁を置くと、お洒落着の袖を捲り上げ、左手首を剥き出した。

「摩耶さん、何をするつもり?」
「私、恭仁クンを信じるよ」
「ちょっと待って」
「どうして止めるの?」

摩耶はせせら笑うように言って包丁を手に取ると、冷や汗を浮かべて恭仁を一瞥してから、慎重な手つきで包丁を滑らし、自分の左手首を切り裂いた。

「……痛っ」

摩耶の左手が震えて握りこまれ、右手が包丁を置き、長く深い溜め息。

「恭仁クンの嘘つき。やっぱり痛いじゃん」

摩耶が血の滲む左手首を恭仁に見せつけ、悪戯っぽく笑ってそう言った。

「……僕の負けだよ、摩耶さん」
「じゃあ、これ舐めて」
「えぇっ!?」

何がじゃあなのか、恭仁にはさっぱり理解できなかった。猫じゃらしじみて摩耶が差し出す左手首を、恭仁は一瞥してから摩耶の顔を見た。目を細めた彼女の表情は彫像じみて恍惚の微笑みを帯びている。恭仁は観念して頷くと摩耶の左手首へ吸い寄せられるように顔を寄せ、傷口を舐めて血を啜った。

彼女の左手首がびくりと震え、今まで聞いたことのない甘い声が聞こえた。

「ちゃんと飲み込んで」

顔を上げた恭仁は摩耶の言葉に頷き、ごくりと喉を鳴らして血を飲み干す。

「よく出来ました」

摩耶は全能感に酔い痴れるような笑みで言い放ち腰を上げると、恭仁の隣に割り込んで腰を下ろし、恭仁の右手首を取って躊躇いなく血を舐める。

「ねぇ、恭仁クン。好きって言ってよ」
「それって、お願い? それとも命令?」
「私にお願いしてほしいの? それとも命令されたい?」

恭仁が言い淀む唇に摩耶が口付け、舌をねじ込みながら恭仁を押し倒した。


―――――(34)―――――


年が明け、冬休みが終わり、3学期。同級生たちが大学受験の荒波に揉まれ悲喜こもごもの結果で、それぞれの進路を選び取る様を恭仁は傍観した。

恭仁は仮免許試験や卒業検定で幾度となく躓きながらも、運転免許試験場の学科試験はどうにか一発で合格、普通自動車のマニュアル免許を取得する。

春休みを目前に迎えたある日、恭仁は久々に祖父の家に顔を出した。祖父はいつものように作務衣をまとって納屋に立ち、何かを丹念に磨いていた。

「お祖父様」
「おう、恭仁か」
「車ですか。随分古いですね」

それはナンバーの無い銀色の旧車、スバル・レオーネの初代セダンだった。

「まあな。利義や善吉や早紀恵が小さい頃はな、俺と嬶と子供たちを乗せてこの車で家族5人、西へ東へあちこち行ったもんだ。遠い昔の話だがな」

鉄美は饒舌に語りつつ、大儀そうに身を起こしてゴキゴキ言わせた。

「もう乗らないのですか?」
「フン。乗ると言っても簡単には行かん。傷んだ部品を取り換えてやらねば碌に動きもしないさ。エンジンが動くかどうかも分からん、単なる置物だ」
「……勿体ないですね」
「何だと?」

恭仁はレオーネに歩み寄ると、チャーミングな4灯のフロントから流れ行くフェンダーミラーに手を這わせて、切り立つAピラーを人差し指で弾いた。

「見た目には全然ガタもないですし、僕が乗れるなら乗りたいぐらいです」
「馬鹿なことを言うな。エアバッグすら付いていない大昔の車だぞ」

恭仁は腕組みしてフムンと唸り、窓ガラスから運転席の中を覗き込んだ。

「ちょっと、乗ってみていいですか?」

鉄美は車を挟んで恭仁と反対側に立ち、ボディを磨く手を暫し止めた。

「……鍵はかけておらん」

彼がそうとだけ言って再び車を磨き始めると、恭仁はニコリと笑みを浮かべドアレバーを引き開けると、シートに腰を下ろした。車内の清掃がきちんと行き届いているからか、思ったより埃臭さはなかった。計器類のデザインはさすがに古臭く、プラスチックも色褪せているが、乗れないほどではない。

恭仁はシフトレバーを動かそうとクラッチを踏み込んで、奇妙な感触を覚え弄り回すことを止めると、シートからそっと腰を浮かせて運転席を降りた。

「気に入ったか」
「ええ、いい車ですね。確かに……色々と傷んでるようではありますが」
「クラッチが壊れて潔く乗り換えたが、今でも捨てるに捨てられなくてな」

あぁやっぱり。苦笑いして心の中で呟く恭仁の眼前、車を挟んだ向こう側で鉄美が腰を上げると、屋敷の軒先に停まったサンバートラックを見遣る。

「それから色々と車を乗り継いで、今ではあれが俺の終の車というわけだ」

恭仁は顎を摩り、軽トラとセダンとを交互に見遣ると、ガラス越しの祖父に視線を向けて車のテールからぐるりと回り込み、車の状態に目を凝らした。

「お祖父様。もし宜しければ、僕をこの車に乗せてはもらえませんか?」
「話を聞いてなかったのか。部品が無ければ動くに動かんさ」

鉄美が恭仁に背を向け、しゃがんで鉄チンを磨きながら投げやりに言う。

「はい。ですから、必要な部品を調達して、交換した上でです。僕も暫くは警察学校に缶詰ですから、車を持つことも出来ませんが、お給料がその内に溜まるでしょうから、この子の修理代金は何とか捻出できると思うんです」
「出世払いか。まだ働いてもいない青二才が良く言ったもんだな」
「今直ぐにとはとても言えません。僕が成人式を迎える頃までには、何とか迎えに来れたらな。それぐらいの気持ちです。何とかならないですかね?」
「さあな。俺がお前の成人式まで生きてたら考えてやる」

鉄美がホイールを磨く手を止め、ぽつりと呟くと、再び磨き始めた。

そして、春休み。竜ヶ島市の湾岸に浮かんで火を噴く活火山、椿島へと渡るフェリーの甲板上。恭仁と摩耶は並び立ち、冷たい海風に吹かれていた。

「摩耶さんが東京の大学を受けるって聞いた時は、びっくりしたよ」

恭仁が苦笑いで言うと、摩耶が手摺を握って体を揺らし、恭仁を振り向く。

「向こうでは一人暮らしだから、これからは好きなだけ会えるね」
「警察学校の最初の1か月は、凄く忙しくて缶詰めらしいよ。それから後も土日しか外出が許されないみたいだから、暫くは会えそうにないけど」
「それでも、同じ東京にいるじゃん。それだけで私、淋しくないよ」
「本当、摩耶さんは前向きだよね」

恭仁が摩耶を振り向いて、澄んだ冬の海の空を貫く陽射しに目を細めた。

「……竜ヶ島フェリーにご乗船ありがとうございました」
「ほら、到着だって! 行こう!」

艦内放送に摩耶が目を輝かせ、恭仁の手を引いて歩き出す。2人は甲板横の階段から船体下方の駐車スペースに降り、真っ赤なマツダ・ロードスターに乗り込んだ。恭仁は緊張の面持ちで運転席に座り、エンジンをかける。

「初めてのレンタカーなんだし、僕は軽自動車で良かったんだけどな……」

ロードスターの車体前方と後方には、初心者マークが光り輝いていた。

「まだ言ってる。折角の思い出なんだから、スポーツカーでいいじゃん」
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……ぶつけませんように、壊しませんように」
「喝ァッ!」

摩耶のチョップが恭仁の頭頂部にストンと落とされ、恭仁が目を瞬く。

「そんな緊張しないの! どうせオートマなんだから!」
「当たり前だよ! 背伸びしてマニュアルのスポーツカーを借りて、路上でエンストでもさせてみなよ! 通り過ぎる人たちのいい笑い物じゃない!」
「私的にはそういうトラブルまで含めて、一生の思い出なんだけどな」
「冗談! 僕にとっては一生物のトラウマだよ!」
「いまいち信用されてないなあ。私がついてるから平気だよ」
「本当に信用していいのかなあ?」

言葉を交わす2人の前で、フェリーのランプウェイが下ろされていく。前に停められた車が、誘導員に従って次々と走り出した。恭仁は溜め息をついてシフトレバーをDレンジに動かすと、ステアリングを握り、前を見つめた。

「本土最南端を目指すなんて、卒業旅行にしてはささやかだよね」
「本土最北端まで走らせるなんて言ったら、恭仁クン死んじゃうでしょ」
「うん。冗談だと分かってても、言われた時は摩耶さんの正気を疑ったよ」
「恭仁クンさえ良ければ、私は宗谷岬でも良かったんだけどなあ」
「ペーペーのドライバーが真冬の宗谷岬なんて、殆ど自殺行為じゃない」

恭仁がうんざりした顔でそうこぼすと、カーナビが正しく設定されているか横目に確認してから、アクセルをゆっくりと踏み込んで車を走り出させた。


【アウトサイド・モノクローム/6話 おわり】
【次回へ続く】

From: slaughtercult
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