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アウトサイド・モノクローム/5話

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―――――(24)―――――


明け方のマンションの暗く殺風景な部屋。物言わぬ死体と化して崩れ落ちた海老原を見下ろし、恭仁は跪く。彼女の手にした38口径リボルバーの銃口に血がこびりつき、貫通銃創の穿たれた両側頭部から、鮮血が溢れ出ていた。

「また死に損なった」

呟く恭仁の全身を駆るアドレナリンの緊張が切れ、痛みと疲労を思い出して死体のように床へ横たわる。視線の先にある、薄目を開けた海老原の美貌が血塗られていく。最早、美しいとは言い難い死に顔に、恭仁は調布の祖父を思い出した。押し潰されそうな無力感。恭仁は思考を放棄し、目を閉じる。

乾いた破壊音が遠くに聞こえた。何かが近づいてくる。窓ガラスが破られて何かが転がり込み――爆発。閉ざした瞼の裏の暗闇に眩い閃光が焼き付く。

「何だ……?」

恭仁は鼻につく焦げ臭さに訝しみ、目を開けた。大窓が開かれ、閉ざされたカーテンを跳ね飛ばし、白煙の立ち込める室内に眩い電光を投じて、朝日を背負う亡霊めいた濃紺の影が連なり、ガラスを踏み砕く音と共に突入する。

「海老原朱璃!」
「抵抗を止めろ!」

恭仁は朧に霞む視界の中、光を放つMP5短機関銃と、無骨な防弾盾を見た。

「死んでるぞ!」
「クソ、遅かったか!」

ブーツの重厚な足音を響かせ、シールドヘルメットとボディアーマーで身を固めた戦闘員たちが歩み寄ると、倒れた海老原にウェポンライトを照射して死亡を確認する。顔を照らされた恭仁が半身を起こし、閃光に目を細めた。

「人質は生きてるぞ!」

恭仁の感応を確認した戦闘員の1人が腰を落とし、ごついグローブを嵌めた手で恭仁を助け起こした。周囲で他の戦闘員たちが歩みを進め、片っ端から部屋のドアを開ける。玄関が開かれ、大窓から早朝の空気が流れ込んだ。

「倉山恭仁クンで間違いないね。怪我は無いか」

防弾シールドで顔を覆った男の呼びかける声に、恭仁は力なく頷いた。

「もう大丈夫だ、安心しろ。人質を確保!」
「クリア!」
「容疑者の死亡を確認!」

戦闘員たちが素早く部屋を確保すると、電灯を点けてその姿を露わにした。

「突入部隊より本部へ、制圧完了。容疑者1名は死亡、人質を確保。人質の命に別状はないが衰弱している。救急車を1台要請。繰り返す、容疑者1名は死亡、人質を確保。人質の命に別状はないが衰弱している。救急車を――」

戦闘員の無線通信に耳を傾けながら、恭仁は目を閉ざして意識を失った。

土曜日の朝。病院で目を覚ました恭仁は、全身の打撲で精密検査を受けるも重大な身体損傷は見られず、退院のお墨付きをもらったところで刑事たちに出迎えられる。刑事に付き添われて病院の玄関を出ると、報道陣のカメラが夥しいフラッシュを焚いて出迎えた。壮年刑事が先頭に立ち、慣れた様子で人波を捌いて歩き、中年刑事と若い刑事が恭仁を守るように左右から挟んで駐車場に向かう。一向は銀色のセダンに乗り込み、市街地へと走り出た。

渋滞する繁華街の大通りから裏道を抜けて、車は竜ヶ島中央署へと向かう。

鉄格子の嵌められた窓、壁の一面に大きなマジックミラー。中央には簡素なスチール机が置かれ、机を挟んで椅子が2つ。鉄格子の窓を背にした椅子へ恭仁が腰を下ろす。部屋の隅に、壁を向いた小卓。見上げれば、天井の隅に監視カメラ。初めて来た義父の仕事場を、倉山一族のDNAに刻みつけられた生業の空間を、どこか既視感を覚える世界を、恭仁は興味深そうに見渡す。

壮年の刑事が、恭仁と対面する椅子にどっかりと腰を下ろした。若い刑事が隅の小卓についてペンを握り、中年刑事は壁に背を預ける。3人の誰も口を開く気配がない。刑事たちは視線を逸らし、物憂げな表情で押し黙っている間にも時計の針が進む。恭仁は手持ち無沙汰に空きっ腹を撫ぜ、重い身体を椅子の背に預けた。空腹と睡眠不足で、精神が鋭敏に研ぎ澄まされている。

取り調べられる気配が無いので、恭仁は自ずから取り調べることにした。

「……知っていたんですか」

刑事たちが一斉に険しい表情で恭仁を見遣り、弛緩した場の雰囲気が一瞬で張り詰める。まるで仕掛け罠の張り巡らされた密林だ。恭仁が視線を送ると若い刑事と中年刑事は目を逸らし、壮年刑事は拳を握ると、机を殴打した。

「俺たちぁ他の誰よりも倉山さんを尊敬してる。この男ならついて行けると惚れ込んでる。刑事として、人として。その気持ちがお前に分かるか!?」

誰に対しての何の意思表明なのか。壮年刑事が涙すら滲ませて、何度も机を叩き訴える姿とは裏腹に、恭仁は無表情で訝った。人を酔わせるカリスマも過ぎれば、心を釘づけにする劇薬だ。甘く心を解き解し、致死量は紙一重のニトログリセリンだ。胸の苦しみに耐え兼ねて採り過ぎれば、その末路は。

「海老原朱璃さんもそうだった、ということですか」
「ダッテメナニガワカッダコンガキャオラァ!」

壮年刑事が言葉にならない怒声を放ち、椅子を蹴って腰を浮かせテーブルに身を乗り出すと、恭仁の襟首を掴み引きずり起こした。シャツの下に筋肉の張り詰めた刑事の身体が、小刻みに震えている。恭仁は壮年刑事の激怒した顔を見遣り、それから首を傾いで、マジックミラーの向こう側を見据えた。

中年刑事が仲裁しようと一歩踏み出した時、取調室のドアが開かれ、恭仁と刑事たちが同時に振り向く。逆三角形の顔を疲労に窶す壮年男が入室した。

「倉山さん」
「……課長」
「く、倉山課長」

利義は片手を挙げて3人の刑事に応え、壮年刑事に歩み寄って肩を叩いた。

「交代だ。悪いが、3人とも外してくれ」

壮年刑事は慌てて恭仁の胸倉から手を離すと、利義に椅子を譲った。利義が溜め息がちに重い腰を下ろすと、3人の刑事たちは顔を見合わせて頷き合い次々に退室する。恭仁は乱れたシャツの襟を正しながら座り、ふわりと漂う甘い香りに目を細め、袖を鼻に近づけた。利義は机上に肘を突いて手を組み顎を乗せて、隈の浮かんだ目尻と濁った眼差しで、恭仁を不穏に射竦めた。

「お前、あいつの部屋で何をした」
「貴方のせいです。僕はこれから一生、朱璃さんを背負い続けるでしょう」

恭仁は感情を押し殺した機械的な口調で答え、取調室をぐるりと見渡す。

「丁度こんな感じの部屋でした。安らぎとは程遠い、牢屋みたいに殺風景な住まいで、朱璃さんは今まで一体どんな人生を送ってきたのでしょうね」

恭仁は片膝に手を突き、机に片肘を突いて顎を乗せて身を乗り出し、利義の暗く澱んだ眼に問いかける。利義は目を閉じ、椅子の背に深くもたれた。

「……俺が警部補に昇任して、交番(ハコ)長を任された時だ。同じ交番に配属された新人の1人が、朱璃だった。呑み込みが早く仕事熱心で、弱音を吐かず勇気がある。俺はあいつの仕事ぶりに目をつけ、刑事に推薦しようと根回しした。刑事課から異動してきた部下の巡査部長を使ったり、俺自身があいつの相談や愚痴を聞いたり。お前も刑事になれと言ったら二つ返事さ」
「その時からですか」

恭仁の追求に、利義は天井を仰いで目頭を揉み、深い溜め息をこぼす。

「始めはそんな積もりじゃなかった。下心じゃなく打算だった。いい部下を引っ張って来れたら、経歴に箔が付くからな。利用できるヤツは男だろうが女だろうが誰でも利用する。あの頃の俺は野心に満ちてた。そうとは知らぬ朱璃は綺麗な目をして、俺に一生ついて来ると誓った。駄目だと思いながら気づいた時には、沼に嵌まってた。偽りの愛を囁き合う都合の良い関係に」

恭仁は利義から顔を逸らし、マジックミラーを見遣った。机越しに向き合う2人の姿が映し出され、窓の向こう側には海老原朱璃が立っていた。恭仁は目を瞬いた。海老原は鏡に映る恭仁の背中を抱き締めていて、拳銃を喉元に突きつけていた。何でこっちに憑いてくる。あんたは利義さんの女だろう。

「可哀想な人ですね」
「……お前に何が分かる」
「僕に分かるはずもありませんよ。死人に口なしです、お義父様」

恭仁は目を瞬いた。朱璃の姿はどこにもない。香水の残り香が漂っていた。

「せめてお前には話すのが、朱璃に対する俺の弔意(ケジメ)だ。この話は他言無用だぞ。ブン屋どもに集られて質問攻めに遭っても、何一つ喋るな」

利義はほとほと草臥れた様子で恭仁に命じ、重い腰を上げて腰を叩いた。

「有耶無耶にするお積もりですか。貴方に良心というものは無いのですか」

恭仁が立ち上がった瞬間、利義が拳を突いて、恭仁の顔に一撃を浴びせた。

「良心? そんなもの、お袋の胎(ハラ)の中に置いてきたさ」

利義が吐き捨てると、恭仁に背を向けてドアを目指し、大股で歩いて行く。


―――――(25)―――――


それから恭仁は、メディアの取材攻勢に追われながら、その全てを無視して何事も無く学校へ通い続けた。周囲の見る目が変わった。同級生も射撃部の仲間も教師までもが、TV番組や新聞の野次馬根性に溢れる報道や、週刊誌のゴシップで思い思いに妄想を膨らませた。多くの者は恭仁を遠巻きに眺めて噂話に舌鼓を打ち、少数だが対面で恭仁から話を聞こうと試みる者も居た。

恭仁は一切の事情聴取に無言を貫き、さりとて逃げも隠れもせずに、今日も射撃部の部室でピストルを握り、標的に向かった。構えと空撃ちを繰り返し狙いの安定感を鍛錬する。射撃に集中している間だけは雑念を忘れられた。

部室の奥に2つ並んだピストル用の射座で、恭仁と隣り合う1年の女子生徒が構えたピストルを机上に置き、お下げ髪を揺らして恭仁を振り向いた。

「倉山先輩、以前に増して気合い入ってますね」
「夏で挽回しなきゃ、福崎さんに追い越されちゃって先輩が形無しだから」

恭仁もまたピストルを置き、後輩女子の福崎に振り向いて苦笑を返す。

「私なんてまだ始めたばかりで、先輩を追い越すとか想像も出来ないです」
「福崎さんスジがいいから。案外あっさり僕より上手くなっちゃうかも」
「ウフフ、そんなおだてられたら調子に乗っちゃいますよ、もう!」

福崎が含み笑いで目を細め、一歩踏み出して照れ隠しに手を振るう。思わず恭仁が背を逸らし、福崎の指先がペシィと額に触れると、彼女が狼狽えた。

「あーッ、すいません! もう、先輩が変なこと言うからですよ!」
「もうちょっと先輩を大事にしようね、福崎さん」

恭仁が額を押さえて溜め息がちに諭して振り返ると、射座の片隅で伊集院が冷ややかな顔でこちらを見ていた。彼女と目が合った恭仁は、複雑な表情で目を逸らしてピストルを握り、電源を入れると装填し、標的に照準した。

部室の引き戸が音を立てて引き開けられ、部員たちが俄かにざわついた。

「あ、地頭園先輩だ」

福崎が意外そうに呟き、恭仁の握るピストルの銃口が僅かにブレる。足音が恭仁たちの射座に近づいてくる。恭仁は目を細め、引き金を絞りかけて銃を下ろすと、心の中で平常心と自分に言い聞かせて銃を構え直し、撃った。

「よう福崎ちゃん。元気でやってるか」
「地頭園先輩、お疲れ様でーす!」

点数盤には8点の表示。恭仁は溜め息がちに頭を振り、地頭園を振り返る。

「先輩、お疲れ様です」
「よう倉山。おいおいお前、8点なんか撃って、調子でも悪いのか?」
「まだ修行中ですから、地頭園先輩みたいには行きませんよ」
「ちょっと貸せよ、手本を見せてやる」

地頭園がニヤついて恭仁を押し退け、奪うようにピストルを掴んだ。恭仁は福崎と顔を見合わせて後退り、地頭園の小柄な身体の背後で、彼の手並みを拝見することにした。地頭園は3発を続け様に撃ち、いずれも10点だった。

「流石に上手いな。格が違いますね」
「当たり前だ。これが才能の差ってヤツだよ、倉山」

地頭園が自己顕示欲を剥き出して嘯き、ピストルを置いて恭仁に歩み寄る。

「まあ事件があって間もないから、お前が集中できないのも仕方ないか!」

地頭園は下世話な笑みで、部室の全員に聞かせるようにわざとらしい大声で告げると、無言の冷笑で応じる恭仁に身を寄せ、労うように背中を叩いた。

「おい倉山。気丈に振る舞ってるが、事件のせいで本当は夜も眠れないほど不安なんじゃないか? 心配事があるなら、先輩の俺に相談しろよ。何でも聞いてやるって。本音を洗いざらいぶちまけてみろよ。実際どうなんだ?」

地頭園の野次馬根性丸出しの詮索に、部室が静まり返る。それは部員たちが恭仁を気遣って質問を避けてきた話題であり、この場の誰もが恭仁の言葉を聞き逃すまいと押し黙り、固唾を呑んだ。恭仁は溜め息がちに頭を振った。

「面白半分で誰かに話すことじゃないんですよ。分かってください」
「人が折角お前を気遣って言ってやってんのに何だその態度は手前よォ!」

地頭園が態度を豹変させて激昂するも、恭仁は冷ややかに彼と相対する。

「止めてください、地頭園先輩。僕は不幸自慢をしたくないだけです」
「うっぜーな、口答えしてんじゃねーぞ! 手前の不幸がどうとかんなもん誰も興味ねえんだよ! ちょっと注目された程度で自意識過剰だ馬鹿が!」

地頭園が拳を振りかざして語気鋭く詰め寄ると、恭仁は左手で地頭園の肩を掴んで押し戻す。狼狽する地頭園の頭に、右手で象った拳銃を突きつけた。

「先輩は本当に聞きたいんですか? 本物の拳銃で頭を撃ったらどんな風に穴が開いて、どんな風に血が出てどんな風に人が死ぬのか。そんな話を」

恭仁は感情を押し殺した声で地頭園に問うと、部室の随所で悲鳴を噛み殺す声が聞こえた。地頭園が怒りに肩を震わせて恭仁の手を振り払うと、恭仁は拳銃を象った右手を自分の側頭部に構え、撃鉄めかして親指を動かした。

「結局、どう言い繕っても銃は人殺しの道具ですよ。僕たちが楽しむ射撃は命の安全と引き換えに、ルールに縛られたままごと遊びです。弾が出る銃に持ち替えれば、それは命懸けの火遊びに変わるでしょう。僕たちは自制する暴力装置だ。銃口と引き金で命を弄ぶスリルを求めているんだ。その本質の危うさと業の深さに気づいてもなお、僕は射撃が好きだと分かったんです」

恭仁は懇々と説き、右手で象った銃の照準を、地頭園の額に合わせる。

「地頭園先輩は、もう直ぐ弾の出る銃に手が届きますよね。自分の持つ銃がいつか誰かを傷つける可能性、先輩は考えたことがありますか。空気銃でも人を殺せないわけじゃない。それでも射撃が好きでい続けられますか」
「う、うるせぇーッ! そんな気色悪い話、俺に聞かせんじゃねェーッ!」

地頭園は青褪めた顔で半歩後退って背を逸らし、恭仁を指差して絶叫した。

「俺の射撃を侮辱すんじゃねぇ雑魚が! 手前さっさと射撃やめちまえ!」

地頭園は口角泡を飛ばして喚き散らし、傍らのテーブルにあった鉛粒入りのペットボトルのダンベルを掴むと、力任せに恭仁へと投げつけた。反射的に恭仁がクロス腕で上体を庇い、衝突したポリ容器が撓んで両腕の骨が軋む。

ドサリと重厚な音を立てて、ペットボトルが床に落ちる。恭仁は腕の痛みに歯を食いしばり、脂汗を吹いて蹲る。地頭園が我に返って立ち尽くした。

「倉山先輩ッ!?」
「大丈夫、福崎さん。ちゃんと右腕は下にしたから」
「そういう問題じゃないですよ! いくら何でも酷過ぎる!」

恭仁は違和感のある左腕を庇いながら、顔面蒼白で駆け寄っておろおろする福崎を微笑んで宥める。他の部員がどよめき、伊集院が地頭園を指差した。

「あんた、先輩だからってやって良いことと悪いことがあるでしょ!」
「うるせえ黙れ、俺はピストル3段だぞ! ハーッハハハ! これでお前の射撃人生も一巻の終わりだな! バーカバーカ! ざまあみろ倉山!」
「何ですってあんた! もう我慢できない! 先生に突き出してやる!」

伊集院が豹じみた身のこなしで飛びかからんとすると、地頭園は脱兎めいた跳躍力で彼女の突撃を身軽に躱し、哄笑と共に部室から逃走して行った。

嵐が過ぎ去った部室で、恭仁が射座に戻って右手にピストルを持ち、左腕の痛みを堪えて何事も無く射撃を再開しようとしたところで、他の部員たちに集られ静止される。1年生の部員がコーチへの伝令に走らされ、恭仁は腕を心配する伊集院や福崎の付き添いを断ると、独りで保健室へと向かった。

病院での診察の結果、恭仁の左腕は折れていた。海老原朱璃の打撲で負荷の蓄積した腕に、鉛入りペットボトルのブラックジャックめいた一撃が止めを刺した形だ。地頭園は暴行を問題視され自宅謹慎となり、夏の大会を目前に射撃部を退部させられる。彼が持つピストルの段級、ライフル射撃協会員の資格すらも査問の対象となり、高校の選手生命を自ら断つ結果となった。


―――――(26)―――――


雨の夕暮れ。帰宅した恭仁が、玄関の上り框に学生鞄を置くと、傘を片手に門へ取って返し、郵便受けを検めた。ギプスを嵌めた左手で傘を抱え、肩に預けるようにして持ち、右手で郵便物を引っ張り出す。片手が使えないのがこれほど不自由だと思っておらず、恭仁は日常生活に悪戦苦闘していた。

もし折れていたのが右腕だったらと思うと、ぞっとする。恭仁は内心で呟き郵便物をパラパラとめくる。有象無象のDMに混ざり、宛名の無い茶封筒を見つけた。恭仁の脳裏に過る不穏な直感。彼が玄関に引き返そうとした時。

濡れた路面で水飛沫を散らす足音が歩み寄り、倉山家の門前で立ち止まる。

「……あの、倉山恭仁さんでしょうか」

躊躇いがちに問う声。恭仁は傘を抱えて身を翻し、門の向こうに立っていた黒スーツを着た女の姿に、海老原朱璃を幻視し目を瞬く。黒のボブカットで背が低く、暗い目をした陰鬱な女が、消え入りそうな佇まいで頭を垂れる。

「竜ヶ島新報の海老原と申します」

女は目線を逸らして咳払いし、低く嗄れた声で告げる。恭仁は眉根を寄せて目を凝らす。雨中に立つ女の童顔は、魂を失った亡霊じみて無表情だった。

「ご足労いただいたところ申し訳ありませんが、取材はお受けできません」

恭仁のフラットな言葉に、気圧された様子で女が息を呑んで目を落とす。

「……そうですよね。こちらこそ突然お邪魔して申し訳ありませんでした」

女は今にも死にそうな顔でボソボソと呟き、深く腰を折って頭を下げる。

「本当に……申し訳ありませんでした……姉の愚かな行いで……ご迷惑を……」

女は声を震わせ、傘の外れた背中を雨に濡らして沈痛に侘びた。傘に隠れて身を震わせる様子から、悔恨や憤怒や屈辱を押し殺す様子が手に取るように分かった。自我を殺すことに慣れた人間だ。恭仁の胸の奥で痛みが疼く。

「どうして貴方が謝るんですか。顔を上げてください、お願いですから」
「……どうして」

女が恐る恐る上体をもたげ、畏れた顔に涙を浮かべ、恭仁を見返した。

「加害者の家族が、自分が犯したわけでもない罪を背負い、謝る姿を見ると胸が痛みます。貴方に罪を連座させて咎める権利など、僕にはありません」

恭仁もまた、犯罪者の家族という穢れた星の下に生まれたがゆえに。

「今は海老原さんたちも色々と大変なはずです。どうかご自愛ください」

恭仁が会釈を返すと、声を詰まらせる女の目から、止め処なく涙が溢れる。

「すいません……すいません。私が気遣うべきなのに、逆に気遣われるとか考えてもいなくて。こっちも色々あって……ちょっと涙が。すいません」

女は胸の前で拳を握り、両の瞼をきつく閉じて声を震わせた。海老原朱璃の妹を名乗る女の、姉とは正反対の朴訥な真面目さを帯びた空気。その奥から滲み出る病んだ魂を見た時、恭仁は彼女と海老原朱璃の間に例えようのない相似を感じた。暗く澱んだ心の奥底を映し出す、彼女の口調と息遣いから。

「大変失礼ですが、名刺を頂戴してもよろしいですか」

恭仁は眼前でグズグズと泣き腫らす女に、気後れがちだが用心深く問うた。

「えっ……あっ、はい、すいません」

女は両目から溢れ出る涙を手で何度も拭い、スーツの懐を探って名刺入れを引っ張り出す。涙に濡れた指先で名刺を摘まみ出し、閉ざされた門の格子の隙間から差し出した。恭仁が傘を抱えた左腕の小脇に郵便物を抱え、女から名刺を受け取る時、指差しが僅かに触れ合った。恭仁は名刺に目を落とす。

「確かに竜ヶ島新報ですね。お名前は海老原……弓月(ユミヅキ)さん?」
「ユヅキです」
「ユヅキさんでしたか。間違えましたね。申し訳ない」

恭仁の慇懃で用心深い言葉に、弓月は傘を両手で握り締め、身を縮こめる。

「辛い心中お察し申し上げます。加害者の家族である貴方が、いかに記者といえども僕の家までお越しいただいたことには、相応の事情と相当の覚悟があったものと推察します。取材はお答えできませんが、貴方の真心に敬意を表させてください。お互いに儘ならない事ばかりですが、どうかお元気で」

恭仁が名刺を胸ポケットに仕舞い、門の隙間から片手を差し出すと、弓月は呆然と手を差し出し、恭仁の右手を包み込む。彼女の生白い五指は冷え切り震えていた。弓月は奥歯を噛んで俯くと、前髪の翳りの奥で静かに泣いた。

「私……本当は死のうと思ってました。やっと出会った結婚相手が、事件でご破算になったんです。犯罪者の家族は嫁に取れないって。今まで真面目に生きてきたのが急に馬鹿馬鹿しくなって。被害者の方に一言お詫びしてから自殺しようと。御免なさい……貴方にこんなこと言うの、おかしいのに」

弓月の明るく虚ろな自暴自棄の言葉に、恭仁は押し黙る。手を引き戻そうと力を込めると、彼女の手が離されるのを拒んで強く握り込む。弓月が俯いて嗚咽を噛み殺す姿に、恭仁は途方に暮れつつ、間を持たせようと思案した。

「海老原さん、お姉さんのこと、好きでした?」

恭仁の問いに彼女は身を固くすると、決然とした表情で顔を上げた。

「……だいっきらいです」
「野暮な質問をしてしまって申し訳ありません。失礼します」
「倉山さん、貴方はどう思ってるんですか。私の姉を恨んでいますか?」

話を打ち切ろうとする恭仁に、弓月は土壇場で質問を割り込ませた。

「それはつまり、僕に対する取材と捉えて宜しいのですか」
「いえ、そうじゃなくて、御免なさい、私はただ……」

恭仁の居合抜きじみた鋭い言葉に、弓月が狼狽えて弁解する。彼女の手から力が抜けると、恭仁の右手がすり抜けて引き戻された。弓月が手を胸に当て花が萎れるように項垂れると、恭仁は自分が意地悪に思えて溜め息を吐く。

「海老原朱璃さんは……暴力的で、強迫的で、独善的で夢見がちで、本当は何がしたかったんだかさっぱり分からない、つくづく行き当たりばったりな人だったと思います。恨むというよりは可哀想でしたよ。手の届かない物を必死に掴もうと足掻いて。心の支えになれる誰かが必要だったんですね」

心の支えになれる誰か。例えば、倉山利義。彼が罷り間違って、倉山香織と離婚して海老原朱璃と再婚したら、あるいは恭仁の3人目の母となる未来も有り得ただろうか。恭仁は彼女の居る家庭を想像した。義父が不在の居間に暴力が蔓延り、不義が花開き、血で幕を閉じる。どうせ幸せにはなれない。

「……どうせなら、道連れにして欲しかったのに」

恭仁が握った右手を見つめ、ぽつりと低い声で呟く。弓月が息を呑む様子に気づいた恭仁は、我に返って取り繕うように、人差し指を口の前に立てた。

「この答えはオフレコということで。僕と海老原さんだけの秘密ですよ」

恭仁はこれ以上墓穴を掘らぬよう、弓月の返答を待たず、彼女に背を向けて小走りで玄関に戻った。小脇に挟みっ放しだった郵便物を思い出し、居間のテーブルにDMを放り出す。無記名の茶封筒の底をテーブルに叩いて中身を落とすと、封筒の口を折り返して慎重に千切り、封書を引っ張り出した。

「……もう限界だな」

恭仁は折り畳まれていた緑枠の書式を広げると、溜め息がちにテーブルへと横たえた。それは倉山香織の記名押印が既になされた、三行半であった。


―――――(27)―――――


義父と義母、利義と香織の破局は、いよいよ現実味を帯びつつあった。

利義は、別居状態にあった香織を呼び戻し、夫婦のよりを戻そうとどうにか手を尽くしていたが、事態は八方塞がりであり、何もかも後の祭りだった。

義姉の霧江は上京して大学に通う傍ら、事あるごとに電話をかけて夫婦仲を取り成そうと試みたものの、香織の翻意を促す策は終ぞ実を結ばなかった。

詰め腹を切らされて詰られたのは、独り家に残る末子の恭仁だった。恭仁は家の電話が鳴る度に溜め息をこぼし、時には着信を無視して、それでもなお諦めることを知らず鳴らされる電話を取っては、霧江の罵倒を聞かされた。

「この薄情者! 冷血漢! 恭仁だって、散々お父さんとお母さんに今まで世話になってきたはずでしょ! どうしてもっと真剣に説得しないの!?」
「僕が香織さんに嫌われていることは、霧江さんもご存知でしょう」
「そんなこと言ってる場合じゃないわよ! あんただけが頼りなのよ!?」
「僕よりお義兄様たちに頼るのが、筋ってもんじゃありませんか」
「貞兄ぃや隆兄ぃは、自分の事しか考えてないじゃない!」
「それなら、霧江さんも自分の事だけ考えれば宜しいでしょう」

違う。いや寧ろ、そうなのだ。霧江もまた自分の事しか考えていないのだ。

「お父さんとお母さんが離婚したら、あんたのせいだからね!」
「もう何とでも言ってください。僕の出る幕はとっくに過ぎてるんですよ」
「あんたいつからそんな生意気になったの!? 今度帰ったら殺す!」
「霧江さん」
「何よ!?」

ヒステリックに喚き散らす義姉に、恭仁は電話口で溜め息をこぼした。

「そうやって大声で自分を押し付けるところ、香織さんにそっくりですね」

スピーカーの向こうで霧江が押し黙る。暫くして彼女は、感情を抑えられず声を上げて泣き出し、意味不明な言葉で恭仁を罵倒し、母の名を呼んだ。

「お身体に気をつけてください」

恭仁はやるせなさとうんざりした気分をない交ぜに溜め息をこぼし、電話に言い添えて一方的に受話器を置く。彼女は子を持つ親になった時、果たして善き母になれるだろうか。それこそ恭仁が心配するのは筋違いだった。

暫くしてまた電話が鳴った。恭仁は無視して台所に立ち続け、夕食の調理を優先させた。電話はきっかり10コールで鳴り止み、恭仁は不思議そうな顔で手を止め、肩越しに振り返る。霧江からの電話だとすれば、20~30コールは平気で鳴らすものだ。別の人からの電話だったかも知れないと恭仁は咄嗟に後悔したものの、近頃の霧江の電話攻勢にはノイローゼ気味で、正直言って電話線を引っこ抜きたいぐらい憂鬱だったので、恭仁は忘れることにした。

2人分の夕飯を作り終え、1人分の夕飯を食べ終えた頃、再び電話が鳴った。

恭仁は思わず身構え、廊下の電話機の前に渋々足を運ぶも、受話器に伸ばす手が止まる。着信を7コール、8コールと鳴り止まないことを確かめ、やはり出ないでおこうかと気後れしたが、9コール目で観念して受話器を上げた。

「はい、倉山でございます」
「おおーやっと出た。恭仁か? 親父、居る?」
「利義さんなら、今日も遅くに戻って来られると思いますよ」
「んーそうかそりゃ残念だ。折角いい知らせを持ってきたんだがなぁ!」

恭仁は電話口の若い男の笑い声を聞きつつ、これはどちらの義兄だろうかと思案した。恭仁の疑問を察したように、スピーカーの向こうで男が笑う。

「隆市兄ちゃんの声を忘れたか? 薄情だなぁ恭仁クン。ククク……いかん笑いが抑え切れん。つか俺、実はさぁ。受かっちゃったんだよ、警察庁!」

義兄の報告に、恭仁の脳がフリーズする。暫くして、恭仁は目を輝かせた。

「つまり、キャリアになれたってことですね! 凄いじゃないですか!」
「そうだよ! いやーここまで本当に長かった! 頑張って来たよ、俺!」

隆市は底抜けな明るさで鼻高々に言いつつも、鼻を啜って涙ぐみ始める。

「やっと……祝って貰えた……兄ちゃんに電話したらキレられたし……霧江に言ってもヒステリー起こしてたし。俺……誰にも祝って貰えないかって」

恭仁はしゃくりあげる隆市に呆然と口を開け広げ、苦笑いで溜め息をつく。

「お義父様もお祖父様も、この話を聞いたらきっと喜んでくれますよ」
「ああ、ああ。だよな、そうに決まってる。こんなに頑張ったんだから」
「何てったって、警察の天辺ですからね。責任重大ですよ、隆市さん」
「頑張るよ。もっと頑張って、警察の天辺の天辺まで上り詰めてやるさ」
「その意気ですよ。お義兄様は倉山家の希望の星です」
「おう……恭仁」
「何ですか?」
「話、聞いてくれてありがとう。お前、将来いい母ちゃんになるよ」
「あはは。じゃ、身体に気を付けて」

恭仁は苦笑いで電話を置き、何か違和感を覚え、眉根を寄せて訝しんだ。

「……そこは『いい父ちゃんになるよ』って言うべきだろうに」

恭仁は腑に落ちない顔で骨の繋がりかけた左手を摩ると、首や肩をぐるりと回しながら台所へ戻り、鼻歌混じりに食器を食洗器へ投じると、スイッチを入れて洗う様子を眺めた。明るい話に気が緩み、欠伸交じりに伸びをする。

1ヶ月後。利義と香織は既定路線を逸脱せず走り抜け、離婚が成立した。


―――――(28)―――――


心が、血を流している。心に空いた銃創から、血が溢れて止まらない。
彼女はいつでもそこに居る。涙を流し、憎しみの眼差しで見つめている。
膚の触れあう感触、甘い香水の匂い、迸る硝煙と銃弾の衝撃。
助けを求めるように呼ばわり、問いかけ、苦痛に呻く声。
痛みが流れ込んでくる。刻みつけられた痛みが、忘れることを許さない。
あの夜に起こったことを、恭仁は一生忘れることが出来ないだろう。
彼が微睡み、夢の淵に降りる時。海老原朱璃は、いつでも彼の傍に居る。

バスや電車や飛行機の席で。
休み時間に俯せた学校の机の上で。
温かな湯に浸かって息をつく浴槽で。
1日の用事を終えて潜り込む自室の寝台で。
射撃部の遠征で行った合宿所の2段ベッドで。
修学旅行で泊まった温泉旅館の雑魚寝部屋の片隅で。
祖父の1周忌で泊まった、東京のビジネスホテルの部屋で。
時間も場所も問わず、恭仁が目を閉じて夢に落ちた時、彼女は姿を見せた。

彼女は一糸まとわぬ姿で、拳銃と首輪の手綱を握り、暗く低い声で囁く。
命を求めている。死を求めている。愛を、求めている。
夢に見る海老原朱璃は、恭仁の記憶と願望が混ざり合った亡霊だ。
恭仁を背後から抱き締めている亡霊と、恭仁自身との境界線は曖昧だ。

亡霊の声は胸を締め付け、残り香は甘く、触れる肌は温かく柔らかかった。

暴力、性交、自殺。神聖なる三位一体を奉り海老原朱璃の呪いは成就した。
海老原朱璃の怨讐は恭仁の魂に混ざり合い、不可分の存在となっていた。
恭仁は傷つけられた。彼の心に刻みつけられた。心を釘づけにされた。
心に繋げられたリードは今でも、あの梅雨の暗い部屋に続いている。
彼女への恨みではなく、愚かな憐れみと同情と共感だけがあった。
倉山恭仁は悪魔の声に導かれ、地獄への道を歩み始めていた。
海老原朱璃の狂気は、倉山恭仁の心に根を張っている。

高校3年、学生ビームピストル射撃、夏の決勝。射座に雁首を揃える射手の列に混じり、恭仁は淡々と銃を構えて撃ち、高得点を当て続ける。背後から絶えず鳴り響く拍手の音が射手たちにプレッシャーをかけ、1発撃つごとにその緊張感に堪え切れない者から、点数を下げて脱落、射座を退いていく。

恭仁は淡々と当て続ける。両肩には亡霊の重みが圧し掛かり、滑らかな手で彼の頬を撫ぜ、拳銃の銃口を顎や首筋に突きつけ、耳元で囁き続ける。彼の肩や耳に口づけし、歯型を残し、首を絞め上げ、呪詛の言葉を呟き続ける。

残り2人。点数は追い抜き追い越され追いつきを繰り返し、同着。どよめく射場にシュートオフが言い渡され、興奮が沸き上がる。ただコンマ1点でも相手より低い点を撃てば、即座に決着だ。恭仁は再びピストルを構えた。

照準線が揺れ動く。恭仁は照準線の向こうに自分の姿を幻視した。背後から海老原に抱き締められ、拳銃を突きつけられている自分の姿。恭仁は標的に狙いを定め、引き金を引こうとして銃を下ろした。並び立った相手の選手がパシュンと電子音を放ち、先に撃った。恭仁は深呼吸して銃を構え直す。

何故、彼女が死に、自分は死に損なったのか。今でも理解できない。恭仁は自分の額に狙いを定め、右手の力を抜いて引き金を絞る。点数盤に映された10コンマ0点の赤色光を余所に、手応えは乏しかった。射座に残った両者がピストルの銃口を下ろし、採点官が歩み寄って互いの点数を読み上げる。

恭仁、10コンマ0点。他校の選手は、10コンマ5点。コンマ5点差の紙一重で恭仁は敗退し、彼は高校で最後の射撃競技会を、全国決勝の銀メダルという華々しくも惜しい結果で終える。彼の射手手帳に記されたピストルの段位は先輩の地頭園がかつて目指し、県内の学生で初である4段の高みに達した。

時は夏休み真っ只中。竜ヶ島第一高校へと戻った恭仁を、部員たちが万雷の拍手で出迎える。伊集院も表面上は不承不承な顔で、彼を祝福した。彼女はビームライフル射撃の地区大会で惜しくも敗退し、全国大会を逃していた。

「倉山クン。惜しかったね、銀メダル」
「結果は結果だから、真摯に受け止めるよ。全国に行けたから一安心かな」

恭仁が柔和な笑みで答えると、伊集院はムスッとした顔を緩めた。傍らから後輩の福崎が鼻息を荒くして歩み寄り、両手をバタバタと大げさに振った。

「謙遜ですよ、凄いですよ、全国で準優勝ですよ! 私も全国行きたい!」
「福崎さんの腕があれば、来年には全国も夢じゃないよ。頑張ろう」
「あうぅー、先輩が居なくなっちゃうなんて寂しいですよぉー!」
「これからは福崎さんが先輩として、頑張って後輩を引っ張ってかなきゃ」

恭仁は福崎の後ろに立つ1年生たちを見遣り、彼女の肩を叩いて励ました。

恭仁や伊集院たち3年生が部活動に区切りをつけ、いよいよ引退の時となり後輩たちと最後の余韻に浸っていた頃、部室の引き戸が引き開けられる。

「あのー、こんにちは。こちらが射撃部の部室でよろしいでしょうか?」

聞き覚えのある低く覇気の無い声に、恭仁は真顔に戻って振り向いた。

「はいはーい。もしかして新聞社の方ですか?」

伊集院が部員の輪の中から歩み出て応対する向こう側で、夏物のブラウスとスラックスを着たボブカットの女性が、恭仁の姿を認めて片手を挙げた。

「竜ヶ島新報の海老原です。3年生の射撃部員の倉山恭仁クン、県の学生で初めての、ビーム……ピストル? 4段取得とのことで、取材に参りました」

海老原弓月がそう言って、新聞社の首掛けカードホルダーを示すと、居並ぶ部員たちが今日一番の盛り上がりを見せた。恭仁は唖然として周囲を見回しおろおろと狼狽した。彼だけが何も知らされていない、サプライズだった。

「はい、じゃあ撮りますよー」

随伴するカメラマンがファインダーを覗く中、恭仁を始めとする射撃部員が集まってシャッターが切られる。それからカメラマンは、恭仁のピストルを構える姿を映したり、他の部員がライフルを構える姿を撮ったりしていく。

「倉山クンはインタビューをしたいので、ちょっと別室に宜しいですか」

弓月はそう言ってカメラマンの肩を叩き頷き合うと、カメラマンと別行動で恭仁を部室の外に連れ出し、隣にある準備室へと2人だけで歩み入った。

「では、そこにかけてください」

取材を受ける心の準備が出来ていない恭仁は、どこか落ち着かない気持ちで周囲に視線を彷徨わせ、椅子に腰かけて弓月の落ち着いた顔と向かい合う。

「海老原さん、お元気そうでよかった。またお会いできて嬉しいですよ」
「ふーん、どうして?」
「前にお会いした時は、心配になるぐらい思い詰めた顔をしてらしたので」

弓月はボールペンの頭を顎に当て、前髪を揺らして苦笑をこぼす。

「そうだね。あの時は本当に思い詰めてた。あれから1年経って心の整理がようやくついた……とは、とても言えないけど。少しは落ち着いたかな」
「まだ記者を続けてらっしゃって、何だか凄くほっとしました」
「もう、私じゃなくて倉山クンの取材なんだから。この話はこれで終わり」

弓月ははにかんだ微笑みを浮かべ強引に話題を打ち切ると、メモ帳を開いて取材を始めた。入部した経緯、3年間の実績、スランプを超えた飛躍……。

「高段位を取得すると、エアピストルを所持する推薦が貰えるんだよね?」
「確かにそうですが、僕のお世話になった地頭園先輩は、3段だけど協会の推薦が出なかったんです。何せ持てるのが、日本全国で500人限定なので」
「でも、キミは4段を持っている」

弓月がメモ帳に走り書きしつつ上目遣いで問うと、恭仁は居住まいを正してぎこちなく頷いた。その様子に、海老原はおかしそうに微笑をこぼす。

「緊張してる? 前に会った時はもっと大人びてたから、変な感じだよ」
「サプライズで取材されるんですから、それは緊張だってしますよ!」

恭仁は首を傾げて弓月の背後に視線を送る。準備室のドアが半開きとなって部員が様子を覗き見ていた。恭仁と視線が交わり、慌てて顔を引っ込める。

「倉山クンは部活を引退して、受験を迎えるわけだけど。大学に進学しても射撃は続けるんだよね? 今後の目標があれば、聞かせてくれるかな?」

恭仁の緊張で紅潮していた顔が、弓月の言葉に色を失って真顔に戻る。

「高校を卒業しても射撃は続けますが、僕は大学に行く予定はありません」

弓月はボールペンの頭で頬を打ち、驚いて恭仁に向き直る。8月の蒸し暑い風が吹く準備室に、室温が数度下がったような冷たい静けさが満ちる。

「これはまだ、他の部員やクラスメートには秘密なんですけど、僕は警察に就職しようと思っています。射撃は警察でも続けられますし、事情があって大学への進学はしない予定です。元々、警察官になるのが目標でしたから」
「で、でも。お金とかの心配なら、奨学金を借りれば大学に行けるし」

弓月の顔に湛えていた余裕が剥げ落ちて、彼女は狼狽えた様子で声を低めてボソボソと早口で語るも、恭仁は一切を達観、あるいは拒絶して頭を振る。

「確かに先生にもそう言われましたが、正直言って、興味ないんです」
「興味ないって……キミ自身の大事な進路だよ。キミの人生そのものだよ」
「僕の人生って何なんでしょう。何が大事なのか僕には分かりません」
「そんな、だって倉山クン、どうして……今になって」

加速度的に精彩を失う恭仁の双眸に、弓月は激しく動揺して勇気づけようと必死に言葉を探すも、気の利いた台詞は浮かばず、視線が彷徨うばかり。

「僕、本当は弱虫なんです。見た目は繕っていても、鍍金を剥がせば内側はボロボロなんです。ほんのひと押しで崩れ去る、砂の城なんですよ。大学で4年間の学生生活なんて、耐えられない。僕は自分の精神を保ち続けられる自信がありませんよ。自由なんか要らないんです。ギリギリの心をどうにか保つためには、余計なことが考えられない環境に身を置いていたいんです」

恭仁は努めて微笑んで弓月に語ると、両手の人差し指でバツ印を作った。

「……こんな話、記事には使えませんよね。御免なさい。今のオフレコで」

弓月は俯いてメモ帳を握りしめ、声を押し殺してボロボロと涙を落とした。

「海老原さん、泣かないでください」
「どうして、もっと早く……そんなになる前に……誰かに相談とか……」
「辛いのはみんな同じですから。みんな自分を生きるのに精一杯ですから」
「キミ、まだ子供じゃない。そんな割り切っちゃうなんて、早過ぎるよ」
「僕は外側でいることに慣れてますから。自分の外側でいることに」

弓月が奥歯を噛み締めて顔を上げ、恭仁に何か言おうと口を開きかけた。

「……ずっと、夢に見るんです。海老原朱璃さんが、丁度今の貴方のような納得のいかない顔をして、僕を睨んでるんです。僕の耳元で、色んなことを囁くんです。どうにかしてあげたいけど、夢の中だと分かってるから……」

恭仁がそこまで口にしたところで、弓月の感情が決壊した。形振り構わずに腕を伸ばし、身を乗り出して恭仁を抱き締めると、声を殺して滂沱した。

「大丈夫、大丈夫だよ、大丈夫だから……大丈夫だからね……」

あやすように身体を揺さぶられ、恭仁は微睡むような温かさに双眸を窄めて弓月に身を委ねる。彼女からは朱璃と違う心地よい香りがした。沈黙の中で痛みと温もりを分かち合い、弓月が暫くして身を離すと、気恥ずかしそうに顔を逸らして涙を拭う。引き戸が音を立てて開き、カメラマンが入室した。

「おーい海老原、こっちはもう……ってウワッ、お前泣いてんのか!?」
「すいません、僕も昔を振り返って色々と話してたら、感極まっちゃって」

恭仁が咄嗟に涙を拭う素振りを見せると、カメラマンが笑って腕組みした。

「それでお前も貰い泣きしちゃったってワケ。いい大人が恥ずかしいねぇ」
「はい、すいません……」

弓月はハンカチで両目を拭うと、気丈さを繕った顔で恭仁に向き直る。

「これから、キミの人生に色々なことが起こると思うけど、負けないで」
「ありがとうございます。どうにか頑張ってみます」
「え、何? 照れ隠しでいい感じに〆ちゃう? 大人ってずるいよな!」
「大人ってずるいですから」
「良く知ってます」

恭仁の淋しい微笑みに、海老原は再び心が揺らぎかけ、何とか押し留めた。

「今日は色々ありがとうございました。皆が待ってますし、行きましょう」

恭仁と弓月たちは部室に戻り、最後は大団円で今度こそ射撃部を後にした。

学校からの帰り道。陽炎に揺らぐ通学路を隣って歩く、恭仁と伊集院の間に会話は無い。恭仁はふと足を止めて天を仰ぎ、白熱の陽気を遮るように掌を翳した。足は自然と通学路を逸れ、木立が影を落とす公園へと誘われる。

恭仁と伊集院は木陰のベンチに腰を下ろし、群れ成す土鳩を静かに眺めた。

「……あの記者の人、知り合いだったの?」

ふと口を開いた伊集院の声は、今まで聞いたことが無い不穏さで暗く冷たく研ぎ澄まされていた。恭仁が振り向くと、伊集院は苦虫を噛み潰したような顔で歯軋りし、怖気をまとう刺すような鋭い眼差しで恭仁を見つめていた。

「う、うん。そう。色々あってさ」

恭仁が咄嗟にバッグを胸に抱き、誤魔化すように曖昧な笑みを浮かべる。

「色々あって。恭仁クン、いつも私にそう言うよね。色々って、つまり私に詳しいことは言う気が無いってことだよね。私、信用されてないんだな」
「待って、伊集院さん。別にそういうわけじゃ――」
「そうじゃんッ!」

伊集院は腹の底から声を絞り出し、にじり寄って恭仁と距離を詰める。

「恭仁クン、大学行かないんだ。警察に就職するんだ。何で? この3年で色んな事が会ったけど、私たち2人で頑張って乗り切ってきたじゃん」

恭仁は伊集院の詰問に驚き、目を見開いた。聞いていたのか。

「た、確かに伊集院さんにはお世話になったよ。感謝してもしきれないほど良くしてくれたよ。本当にありがとう。でもこれだけは、色々ある――」
「また色々って言った! 何で隠すの!? 何で私に相談できないの!?」

伊集院の剣幕にたじろいだ恭仁が腰を後退らせ、伊集院が更ににじり寄る。

「一高に入って、トップクラスで頑張って、高卒で警察!? ふざけるのも大概にしなよ。意味わかんないよ。勿体ないにもほどがあるじゃん!」
「確かに僕もそう思うよ。でもこれ以上、お義父様に迷惑はかけられない」

更に後退ろうとする恭仁の肩を、伊集院がガシリと掴んで引き留めた。

「恭仁クン、親への迷惑なんて気にしてる場合? 私たちが子供でいられる今この時しか、親を頼れないんだよ。大学で勉強頑張れば、警察以外だって恭仁クンのなりたいもの、見つかるかもしれないよ。寧ろ私は、恭仁クンにそうあって欲しい。もっと自分の人生に責任もって生きなよ。親に遠慮して自分の人生の選択肢を自分から狭めるなんて……そんなの間違ってる!」

伊集院は恭仁の肩を揺すり、言い逃れを許さぬ剣幕でピシャリと断言した。

「ありがとう。でも色々あるんだ。もう決めたことなんだよ、伊集院さん」

恭仁は伊集院の双眸を正面から見返し、温厚だがキッパリと答えた。恭仁が胸元に抱き寄せるバッグを、伊集院が苛立たしく払い除け地に打ち捨てる。

「まただ。また色々って言った。どうして誤魔化すの? 都合の良い時だけ友達面して、格好悪い部分は隠し立てするの? 何であの女には包み隠さず悩みを打ち明けて抱き合ったのに、私にも同じようにしてくれないの!?」

伊集院の涙に濡れる顔が嫉妬に歪み、恭仁に対する憎悪へと変わる。

「結局あんた被害者ぶってるだけじゃん。自分の人生を頑張れない怠け癖を親に責任転嫁して、いい子いい子してくれる人には、犬みたいに尻尾降って懐いちゃって。格好悪い。気持ち悪い。最悪。負け犬。あんた最低だよ!」

伊集院は頭から食らいつきそうな勢いで捲し立て、恭仁の首を絞めた。

「い、伊集院さん、やめ……」

恭仁は伊集院の両手首を掴んで推し戻そうと力を籠め、彼女から逃れようと腰を浮かせて後退る。伊集院は拒むように、両手に力を込めて押し続けた。

「何でこんなヤツと3年間も同じ部活でいたんだろう。バカみたい。私って男見る目無いんだな。ショックだな。私の3年間の青春……返してよ!」

熱気と酸素不足で呻く恭仁の視界が狭まり、意識が遠退く。ベンチの座板は背後で途切れ、恭仁は体勢を崩し、背中から崩れ落ちて噎せ返る。伊集院が回り込み、恭仁を跨いで立ち蔑むように見下ろすと、スカートを翻して足を振り上げ靴底を曝して、仰向けた恭仁の顔面を踏みつけ、地団太を踏んだ。

「怒ってよ。何で怒らないの? 恭仁クンにとって私って何なの!?」

伊集院は憤懣やる方ない表情で恭仁を見下ろして喚き散らし、恭仁が苦痛で声を上げられず無様に見上げる様を見ると、蔑むような面持ちで踵を返して足早に去っていく。噎せ返って立ち上がる恭仁の背後には、海老原の亡霊が両腕を回して圧し掛かり、救いを求める言葉を彼の耳元で囁いていた。

「……黙れよ」

恭仁が家に戻ると、エリック・クラプトンの「ミス・ユー」が居間の空気を震わせていた。利義が既に帰宅しているらしい。恭仁は玄関の靴を揃えると居間に歩み入る。利義は物憂げな顔でソファに沈み込み、チューリップ型のブランデーグラスを揺らしていた。卓上にはテセロン・ロイヤルブレンドの丸いデキャンタが置かれ、利義はシャツの襟をはだけて酒を呷っている。

利義とテーブルを挟んで対面するソファに恭仁が腰を下ろすと、脳の奥底を揺らすような、甘く陶然とした芳香が漂ってくる。利義は赤ら顔で、随分と酒が進んでいるようだった。恭仁は学生鞄を傍らに置き、利義と向き合う。

「利義さん。お義父様。大事な話があります」

口火を切った恭仁に、利義は答えない。視線は向けず、グラスを置いた。

「僕は、高校を卒業したら警察に行こうと思っております」

利義は押し黙っていた。恭仁は目を閉じて息をつき、彼に頭を下げる。

「これ以上、貴方にご面倒はかけさせません。今までお世話になりました」

利義は何も言わない。恭仁が頭を上げると、彼は目を合わせずにテーブルのグラスを掴み、半分ほど残っていた酒をゆっくりと呷り、溜め息をこぼす。

「どうか余り飲み過ぎないでください。お体に気を付けて」

恭仁は対面する利義の、翳りの裡に覗く全てを諦め切った顔に、そうとだけ言葉をかけて腰を起こした。背後で嗚咽を噛み殺す音が聞こえた気がした。


―――――(29)―――――


恭仁には目標があった。倉山家の6世祖たる倉山道之助明義は、青春時代に夢破れて上京し、邏卒の職を得たという。恭仁もまた先祖の足跡に進むべき道を求めた。野心は高く、高卒の警察官といえど、目指すは東京の警視庁。

9月、採用試験の第1次試験。恭仁は上京して万事を恙無く終えると、同日に慌ただしく竜ヶ島へと引き返し、警視庁を受験した翌日、県警の採用試験も受験する。言うまでもなく滑り止めだ。もっとも高卒資格の警察は狭き門で滑り止めが役に立つかどうかは分からない。恭仁は元より警視庁の一本槍で初志貫徹する覚悟であったが、義父の利義と叔父の善吉、祖父の鉄義からも大事を取るように諭され、已む無く二重の受験で安全策を取ることとした。

そして10月初旬、結果発表。1次試験は危なげなく、県警と警視庁の双方で合格を得る。しかしこれは序の口に過ぎず、本番の第2次試験が後に待つ。

高校では同級生が1月の大学入試を控えて勉強を追い込む中で、恭仁は己の信ずる道を独り突き進んでいた。トップクラスから高卒の警察官など学校の恥だと宣った同級生たちも、恭仁が警視庁を志願し、あまつさえ1次試験を通過した結果を目の当たりにして、彼を公然と嘲うことはしなくなった。

10月中旬、東京にて警視庁の2次試験。面接を受けた恭仁は、母方の一族と父親が警官という自分の血筋を説き、強きを挫き弱きを助ける、正義の心が自分にも受け継がれているのだと熱弁した。小さい頃から武道の英才教育を受けており、心だけでなく身体でも貢献できると面接官に自薦した。面接が終われば身体検査に体力検査、危ういことなく全てを終え、竜ヶ島に戻る。

恭仁には確信があった。高校生ビームピストル射撃で全国大会準優勝、更に県内初の、学生でビームピストル射撃4段取得。本来ならばエアピストルの推薦が下りてもおかしくない、若きピストルのエリート。更に付け加えれば10歳の頃から今まで納めてきた古流剣術、示現流を初段まで習得した実績。

仮令、勉学で他者より抜きん出ること能わずとも。剣術と射撃という他者の容易に真似できない武術を習得した自信と自負心が、恭仁の心の筋金となり満願成就への道筋を確信させた。恭仁はこの時のために生まれて来たのだ。

11月中旬。祖父、二階堂奨が逝去して2年目の東京。恭仁は3回忌の道すがら立ち寄った桜田門を決意の表情で見上げ、再び来ることを誓って踵を返す。

11月下旬、県警の2次試験。面接官は恭仁の名前と顔を見て、表情を曇らせ恭仁に色々と質問した。倉山家の古巣たる竜ヶ島では、義父と海老原朱璃にまつわる事件は、県警内部でも周知の事実だ。恭仁は無表情で屈辱に耐えて自分の半生を説明し、血縁の十字架を背負った僕にどれほど正義が成せるか分からないが、警察官になりたいこの気持ちだけは本物だと真摯に説いた。

警察官になりたい気持ちは本物だ。果たしてそうだろうか。恭仁の今までの人生は、警察官になるために他社の思惑で舗装された道筋に沿って、自分の意思など持たずに歩み続けてきただけだ。それを自分の意思だと言えるか?

12月初旬、県警の合格発表。結果は、不合格。自宅に届いた通知の紙を見た恭仁は愕然とし、無意味と知りつつ県警本部に足を運び、受験番号の掲示に目を凝らして、確かに落ちたのだと実感して動揺した。警視庁の合格発表はまだこれからだが、県警に行けない人間が、警視庁に行けるだろうか?

恭仁が落ちた所以は、彼の力不足か。身内に犯罪者が居ると、警察は採用を拒むという。実父の凶行か、はたまた義父の不義理か。しかし義兄の隆市は警察庁のキャリアに受かったではないか。それはそうだ。義父は何かの罪に問われたわけでもなく、警察を免職になったわけでもない。ならばやはり。

恭仁は翌朝起きて、鏡に手を突き己の姿を見つめた。この上、警視庁にまで不合格を突きつけられたら、どうなる。警察官になれなければ、どうなる。

「僕は、警察官になれなければ……」

待っているのは、普通の人生だ。普通の人生とは何だ? 普通の人間として育てられず促成栽培で育った歪な商品作物が、量産品の規格からも弾かれた社会の不良在庫が、今更何食わぬ顔をして、普通の人間たちの輪に混じって生きていけるだろうか? 恭仁は恐れ、トイレで止め処なく嘔吐した。

僕は誰だ。倉山それとも二階堂か。違う。もっと別の、もっと異質の何か。

その日、恭仁は高校生活で初めて学校を遅刻した。朝飯が喉を通らず、腹に押し込んでも全て吐き出してしまう。動こうとしない足を無理に奮い立たせ学校に向かうも、恭仁の顔面蒼白な様子を見て同級生たちはそれと察した。

翌日、恭仁は学校を無断欠席した。翌日も、その翌日も、更にその翌日も。

自分が警察官になれないという可能性を、今まで考えたことも無かった。

鳴り続ける電話は全て無視した。無上に怖かった。自分の身に否応なく迫る警視庁の合格発表、審判の日を恐れて、独り寝台にこもり震え上がった。

5日目には電話線を抜いた。薄闇に包まれた部屋、昼夜も分からず、最後にご飯を食べたのがいつだったかも思い出せず、酷く眠いのに眠っても直ぐに目が覚める。利義は家に戻ったかも知れず、戻らなかったかも知れない。

恭仁は寝台の上で膝を抱えて、朦朧とした意識の中で壁を見つめていた。

雨音が聞こえた。甘い香水の匂いがした。温かい肌が触れる感触があった。

暗闇の中、彼女の気配があった。彼女は恭仁を睨み、恭仁も彼女を睨んだ。

「……どうして、僕を殺してくれなかったんだ」

音も無く部屋の扉が開き、暗闇に明かりが射し込んだ。恭仁は首を動かして光の射す方を見た。見覚えのあるシルエットがこちらに歩み寄り、闇の中で伊集院の姿を描き出す。幻覚だ。こんな所に彼女が現れるはずがない。

「御免、勝手に入ってきちゃった。恭仁クン、電話に出ないから――」
「僕、やっぱりキミのことが好きだったのかな。だから幻を見たのかな」
「ちょっと、何言ってるの。大丈夫?」

幻の伊集院が寝台に歩み寄り、恭仁の横に腰かける。

「伊集院さん。警察、落ちちゃった。僕はこれからどうすればいいのかな」
「落ちたのは県警だけでしょう。警視庁の合格発表はまだでしょう?」
「僕は警察官になるために、今まで厳しく育てられてきた。なのに警察から要らないって突き放されたら、僕の今までの人生、苦しみ損じゃないか」
「そんなに思い詰めなくても大丈夫だよ。警察だけが人生じゃないでしょ」
「人生やり直したいよ。普通の親に生まれて、普通の人間になりたかった」
「恭仁クン大丈夫? 私の話、ちゃんと聞こえてる?」
「伊集院さんには僕がどんな人間に見えるかな?」

恭仁が問うと、幻の伊集院は言葉を失った。

「実のお父様は人殺しで、育てのお義父様は愛人が自殺しても平然としてる冷血漢だ。でも2人とも警察官なんだよ。育ての父親は今でもそうだ。実の母親は病死して、育ての母親は暴言暴力でしか意思疎通できない気違いだ」

恭仁は伊集院から視線を外すと、立膝に顔を埋めた。

「不幸だなんて言うつもりは無いよ。みんな与えられた条件がちょっとずつ違うだけさ。ただ、頑張るのが時々辛くなるだけだよ。思い通りにいかない条件でみんな頑張ってる。でも僕は弱いから、みんなみたいになれないよ」

恭仁は思い出したように顔を上げ、幻に視線を戻して微笑みかける。

「……それでも、伊集院さんは僕のことを、好きって言ってくれるかな?」

幻は手を伸ばしかけた。恭仁に触れようとして指先を止め、躊躇った。

「いいよ。キミは素敵な女の子だもん。僕より似合う素敵な人がいるよ」

恭仁は安堵したように息をつき、寝台に横たわって幻に背を向けた。

「大事と思えば思うほど、触れるのが怖いんだ。壊れ物にわざと傷をつけて自分の物だと言い張るような真似、僕はとてもできない。僕は誰かを自分の物にするのが怖いよ。誰かを一生背負う勇気なんて、最初から無いんだ」

闇を向く恭仁の眼前のすぐそこには、海老原朱璃の亡霊が横たわっていた。

「それで一生独りになり続けるというなら、僕は一生独りだって構わない」

寝台の軋む音。背中に温かい物が触れた気がした。恭仁は底なし沼のような微睡みに呑まれ、意識を手放す。その日は悪夢を見ず、とてもよく眠れた。

翌日、早朝に目を覚ました恭仁は、数キロほど走ってからシャワーを浴びて汗を流すと、冷蔵庫の残りで大量の朝飯を作ってかっ食らい、ソファで眠る利義に毛布を掛けると、何事も無く登校した。最早、恐怖は無かった。

数日後、自宅に警視庁から合格通知が届く。蓋を開けると、結果は合格。

一度捨てられ、また拾われた。理由など恭仁は知る由も無い。数日前に見た幻の話を、恭仁は伊集院と語っていない。彼女は嬉しいようで淋しいような表情をして、恭仁と目を合わせることなく、彼の合格を静かに聞き届けた。


【アウトサイド・モノクローム/5話 おわり】
【次回へ続く】

From: slaughtercult
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