文学について

文学は心地が良い。
「あちら側」に行っても自我を保ち、尚且つ適切に言語化できる選ばれた人間から抽出されたエッセンス。
「あちら側」とは?
この世にはきっと正気の沙汰の「こちら側」、狂気の沙汰の「あちら側」がある、と思ってる。こちら側には人生の豊かさが示されているけど、居心地が悪い。誰かが上からギュッと押さえつけて、私の全てを決めて欲しいと願ってしまう、レールが欲しい。何が正しいのか分からないから、常に正しさを示して欲しいと願う。でもそれは適切でないから「多様性」や「選択肢」の中を漂うだけだ。
文学は、レールを敷いてくれる。生きることに腐心して、「あちら側」へ突き抜けた人から導き出される言葉は好きだ。私は特に日本の近代文学が好き。みんな絶望的な心持ちである。自殺者も多いし。激動の時代を生き抜こうとし、それが出来た者。そして出来なかった者の言葉。素敵でないはずがない。生き抜けた者と生き抜けなかった者の間に優劣はない。たまたま生き抜けた、生き抜けなかっただけの話だから。
文学に触れると、「ああ、分かるなあ」となる。でもきっとそれは馬鹿の山の山頂にいるだけ。だから私は突き抜けたいと願う。「あちら側」へ行きたいと思う。揺蕩う言葉は私の心の核を突いてくる気がする。1番触れて欲しくないところに、そして同時に1番触れて欲しかったところに触れて、生きるためのヒントをくれる。
卑怯だ。ヒントをくれたあなたはもうこの世にいないくせに。ずるいなあ、と思う。そして同時に感謝する。ありがとう、レールを敷いてくれて。生きることへの肯定をしてくれて。
文学者は全員孤独だ。孤独だから他人とではなく自分と対話する。そして深みに入ってあちら側へと行ってしまう。そして感受性が豊かだから、この世の真理に触れてしまう。それを言語化して、私たち凡人へと流布してくれる。本当の意味で人と分かり合えないと分かっていても、きっと言葉を紡がなくては生きてはいけなかったのだろう。
文学の世界は自由だ。人をカミソリで殺してもいいし、麻酔無しで手術をしてもいい。女性と心中してもいいし、嘘つきの少女の破滅を描いてもいい。だから好き。現実では悪とされること、ありえないことをやっても許される表現の世界。
文学は自由奔放なのに、しっかり私の内に根を張ってくれる。決して綺麗なだけでは済まされない汚い面もあるし、そこに人生を突き動かす言葉が眠っていることもある。
文学って本当に不思議で堪らない。だから大好きです。

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