キラボシ共和国の持つ宗教性について


キラボシ共和国、名前がまず可愛いですよね。やってる事はえげつないけど、それを「キラボシ」というワードでカバーすることで印象操作に成功しています。
唐突ですが、宗教的な施設ってどれも豪華ですよね。お寺も神社も教会も。全て大きくて荘厳であり、他の家々とは一線を画している。
人は大きい建物に自然と「意味」を見出すものだと思ってます。大きい=特別。特別性が増す。
宗教はそれを利用しているのではないかと思う今日この頃です。いきなり「神様はいる!」と言っても、きっと誰も信じないでしょう。しかし、それに大きく荘厳な建物が付随すればどうなるでしょうか。「こんなに大きい建物を建てさせる存在がいる」となるのでは?と思います。基本的に「宗教」というのは、それを信ずる上位存在(信者)/それを信じない下等生物(非信者)に分けられるものです。でも救われる願いなら、多くの人に知って欲しいと思うのが信者の姿。そこで出てくるのが「大きな建物」。圧倒的で、美しく、威厳を感じさせる存在。神様を信じない無知な人々を圧倒する建物。キラボシキャッスルは、きっとそのために建てられたのでしょう。「無知」な人々の救済のために。だからキラボシ共和国に多くの人が集まり、「天見エルナ」を信仰したのでしょう。大きな建物を一晩にして作ってしまう「天見エルナ」という存在。偶像。それは人を絡め取り、キラボシ共和国へ引きずり込むには十分すぎる理由です。あれは「共和国」というよりかは、「宗教国家」でしょう。国民全員が一体となって「天見エルナ」を信仰する国家。税も労働の苦しみもない、まさに「パライソ」。遠藤周作の「沈黙」に出てくる日本人と同じ構図です。今ある税や労働など、具体的な苦しみから逃れるためにキラボシ共和国へ移住した人々。彼らを突き動かしたのは、「キラボシキャッスル」という上位的な建物でしょう。
私は彼らが間違ってるとは思いません。むしろ合理的であると言えると考えます。人は何かに縋らないと生きていけないものなので。大丈夫だよ、苦しみなんてないよ、極楽浄土が現世に来たよ、と言われればそちらに流れるのが人という生き物でしょう。甘い快楽に浸り、将来の心配もなく酔って堕ちていく。それが人の本心であり、願望そのものでしょう。「人間」にとって「宇宙人」が作り出した世界は、とても甘美なものだったのです。堕ちて堕ちて、人生の根底に存在する苦しみや辛さから逃れるのは決して悪いことでは無いのです。むしろそれは本能的なものです。堕ちた先に何があるのか、それは誰にも分からないし、人それぞれでしょう。ただ1つ言えるのは、キラボシキャッスルは人々を扇動し、多幸感をもたらす宗教施設としての役割があるということだけです。
扇動され堕ちた人々の行方は、誰も知らない。

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