「何者」かになろうとした子供たち─霧隠ラントとエルゼメキアにおいて─

妖怪学園は、子供たちが主体となって描かれる物語です。しかし、そんな子供の中にもヒエラルキーが存在します。Y学園の頂点に立つは霧隠ラント、対になるキラボシ共和国で頂点に立つはエルゼメキア。この2人は真っ向から対立します。しかし、彼らには支配者であるのには裏腹に、「まだ幼い子供である」という共通点があります。
霧隠ラントもエルゼメキアも、自動的にトップに立った訳ではありません。生徒会に入り、そして会長にならなければ生徒会長にはなれません。そして、エルゼメキアもまた、建国しなければ国の支配者たりえませんでした。何故この2人を挙げたのかというと、彼らには他にも共通点が、最も重要な共通点があるからです。

それは、「何者」かになろうとしたことです。
分かりやすく言うと、権力者になって自分は「特別」でいようとしている、ということです。悪いことではありません。しかし、逆に問うてしまうのです。もし、霧隠ラントが生徒会長でなかったら?エルゼメキアが建国しなかったら?
彼らは一般生徒、1人の宇宙人として生をまっとうしたことでしょう。しかし、両者共に権力者として爪痕を残す道を選んだ。これは2人とも「何者」かになろうとした足掻きとも見て取れます。
足掻くのも無理はありません。エルゼメキアは仲間や故郷、全てを失いました。そして霧隠ラントは、エルゼメキアの手によって家庭が破壊されました。彼らは普通に生活することが出来なかったのです。
彼らは「消えない」(消されない)道を選びました。そう、友人や家族と同じように消えてしまうことのない、絶対的な存在として君臨すること。
彼らが恐れたのは、自身が透明になってしまうこではないでしょうか。エルゼメキアの故郷ももはや無くなり、その存在を覚えているのは極小数しかいません。そして、その星の運命を書いた本も無数の書物の中に埋もれてしまいました。これが透明になるということ。他者から存在したことすら忘れられる恐ろしさです。
透明になることのもうひとつの方法、それは「型にはめられる」ことです。いわば均一化、アイデンティティの消失。Y学園は自由な校風ですが、やはり生徒会と一般生徒は区別されていることが分かります。特に2話の冒頭、「覚えておくがいい、この学園は実質この霧隠ラントによって掌握されていることをな!」というセリフは顕著です。生徒会に絶対的に従わなければならない、という点でいくら自由な校風であってもある程度は平均化されなければ立ち行きません。あの学園は、霧隠ラントにとって透明な存在に囲まれているようなものだったのではないでしょうか。(そこに突入してきた、透明でない自我を持った存在が寺刃ジンペイ)

透明な存在になるのは恐ろしく、悲しいことです。だから霧隠ラントもエルゼメキアも、それから逃げようとした。霧隠ラントの家族のことも数週間もすれば人々から忘れられ、エルゼメキアの星も完全に歴史に埋もれました。彼らは自身だけは透明にならないよう、足掻いたのではないでしょうか。「何者」かになろうとすることで、恐ろしい波から逃げようとした。その点でこの2人は通じ合うところがあります。
47話終盤、エルゼメキアは霧隠ラントの手によって死亡しました。しかし、エルゼメキアは透明では無いのです。最後の力を振り絞り、霧隠ラントに力を与え、現世へと送り返した。エルゼメキアは今も、霧隠ラントの中に生きているのです。誰かの中に生きていること、それは肉体が消えても透明にならずにいられる唯一無二の方法なのではないでしょうか。

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