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mimicへの期待と危機意識 いかにして著作権意識は断絶したか

AIによるイラスト生成サービス「mimic」がベータ版で送られた意見を元に大幅なシステムの刷新を行った。内容は主にクリエイターの権利保護と不正利用対策を目的としたものだ。

結果として「サービスの内容が縮小した」「面白さが損なわれた」という批判もある。それを否定するのは難しい。自由度が失われればその分損なわれるものもある。

ただ、現状で言えばmimicが「AIの生成物」に関して権利問題で最先端にいて、そのmimicがこうして権利者に寄り添う形を取ったのは非常に喜ばしいことだ。

元々mimicは「イラストレーターが自らのイラストで作画資料を生成する」というアプローチでサービスを展開しようとしていたから、この結果は当然とも言える。

しかし、この規模縮小に関して「そもそも著作権法で権利者は保護されているから、その警戒は杞憂だ。クリエイターはAIサービスの未来を潰した」という言論が一部でまかり通っている。

著作権法は名目として存在しているが、実態として行政が著作物と著作権者を取り巻く環境に対応できていない。これについては以前も記事にした。

現状「抑止力としての著作権法」には期待できず、クリエイターの多くは自衛の姿勢を取っている。今回、mimicはその姿勢に寄り添う形を取った。

問題は「ネット的自由」と「著作者の権利保護」は真っ向から対立する概念だということだ。

AIによるイラスト生成について生じた様々な意見の中には、「絵が描けない人でも自由に絵を作れる」というものがあった。現状ではまだその域に達しているか怪しいが、将来的にはそういうものも生まれてくるだろう。

インターネット黎明期以来、インターネットは特有のアングラ感を自らの属性としてきた。そしてそこには無秩序という意味での自由が伴っていた。

FLASH黄金時代 無秩序への憧れ

今となっては現実に重なるレイヤーのひとつとなりつつあるインターネット。しかし、そこにはまだその名残を惜しむ人々がいる。おそらくは「自分が体験したことのない自由で混沌とした時代のインターネット」への憧れを抱いた人々が。

かつて著作権違反など気にせずに「自分が面白いと思うもの」を世に送り出す人々、そして彼らの作品を文化として称揚した人々の時代があった。2000年前後のFLASH黄金時代だ。

黄金時代と言われているが、著作権法関連の整備に携わっていた人々にとっては暗黒時代だっただろう。権利者の許諾を取らずに生まれた二次創作物に対して削除を命じると権利者が攻撃を受けた時代だ。

もちろん、この時代に生まれた文化もある。恋のマイアヒやムネオハウスは今でも語り継がれているし、ドラえもん絡みのミームや都市伝説はこのころが発祥だったりもする。

というより、どんな文明でもアングラから生じた文化や宗教が大衆に遅れて認知され、定着するのはよくあることだ。ブードゥー人形は原宿系のキーホルダーになったし、キリスト教だってローマに流入したころはユダヤ系分派でしかなかった。

2000年代に黎明期の技術であるFLASHを駆使し、黄金時代を築き上げた世代は大体1980年代~1990年代前半くらいに生まれているはずだ。1996年生まれの私でもギリギリ終焉を目撃したくらいだった。そうなると当事者たちは一番若い層でも30代に突入している可能性が高い。

今、twitterを使って最新鋭のAI技術とそれを用いたサービスについて言及しつつ、権利保護ではなくネットの無秩序と自由の側に立とうという層がそれほど老けているとは思い難い。

「法への信頼」は時代の変化を目撃するにつれて揺らいでいく。新人ドライバーとベテランドライバーで任意保険に対する意識が大きく異なるのと同じようなものだ。

世代でくくるのであれば、彼らはもっと若く、ニコニコ動画や3DSの「うごメモ」のようなガラパゴスの中で独自の文化と権利観を構築してきた層なのではないか。

ニコニコ動画の運営側はなかったことにしたがっているかもしれないが、ニコニコ動画はかつて違法アップロードと無断転載の温床だった。アニメ本編が丸々公開されていたりした。

厳密に言えば今もそうだ。権利者の許諾を得ずアップロードされたゲイポルノを切り貼りして面白がっている。それを「文化」として楽しんでいる層が著作権についてクリエイターサイド、「権利の保護」に立つとは思い難い。

アシストツール時代 創造への憧れ

もちろん、世代論を結論にするほど私も年老いてはいない。

もうひとつ忘れてはならないこととして、「すごいことをしている人への憧れ」という感情がある。

絵を描けるというのはとてもすごいことだ。長期にわたる自主的な鍛錬によって初めて定着する技能だ。生まれた時からイラストレーターだった人間はいない。

「この人が描くこんな絵柄で自分もこういう絵が描きたい! でも技術を身につけるために年単位で練習してもここまでは到達しない……」

そこに「AIというアシストツール」が現れた、そう認識している層は少なくないと私は考えている。そして、ここで「AIを使って自分のイメージしたイラストを生成したい!」にNOと言うのはかなり難しい。

イラストに関して言えば、「レース描くの大変だからブラシを使いたい」「ここのトーンは自動認識で範囲指定したほうが早そうだ」というアシストは現状ですでに使われている。規模と程度の問題になる。

当初、mimicに対して好意的かつ非クリエイターの層に見られた意見として、「絵を描かない自分でも好きな絵柄で絵が作れる」というものがいくらか観測できた。

もちろんクリエイターとしてはたまったものではないだろう。それはmimicを悪用して他人の著作物を不正利用する行いだ。

たとえばコミッションサイトなどで「twitterアイコンを2000円で描きます!」というサービスをやっているクリエイターに対して「あなたの絵柄が好きなのでmimicでイラストを生成して使ってます!」と言う人が現れたら、最低でもそのクリエイターは2000円分の機会を損失したことになる。

権利を主張して取り下げさせることも可能だろうが、そのトラブルに割くコスト分やはり損をしている。

しかし、イラストは高い買い物だ。背景込みでしっかりした依頼を出すと、どれだけ安くても万単位の予算を用意する必要がある。一般市民は価格を提示されれば腰を抜かす。

制作時間と技術の蓄積を考えれば当たり前どころか破格なのだが、そもそも「SNSで無料で見れるもの」という認識がある以上、その出費が心理的に受け入れがたいのも理解できる。

さらに言えば、作品のためではなく自分が楽しむためにイラストを依頼するというのは、芸術作品の制作依頼であるから、市民の大半が経験したことのない「富豪の遊び」に類するものだ。ピンとこないのも仕方がない。

相場がわからないし、頼み方もはっきりしていないし、実際に頼めば提示された予算はとても高いし。そんななかで「自分の好きな絵柄でAIが生成してくれる!」となれば飛びつくだろう。

創造的ななにかを生み出すための時間や金銭的コストを回避する手段として、「アシストツールとしてのAI」に期待している層はかなり多い。

車の自動運転技術に期待して免許を取らない、自動翻訳機能の改善に期待して語学を学ばない……そういった姿勢は私自身にも心当たりがある。それがクリエイティビティに向いた人をどうして責められようか。

あるべき対話があるために

権利の保護だけを考えれば文化が衰退するし、自由だけを考えればクリエイターはかえってなにもできなくなる。クリエイターは尊重されるべきだが、大衆が無視されるべきではない。

結局のところ、これも人類史上頻出の「対話と検討を続けるしかないトラブル」なのだが、そこに異常な速度の技術革新が付随しているせいで話がどうしてもややこしくなる。

しかも広すぎる世界が一体化したせいで対話するにも「誰と誰が?」という問題が生じている。我々人類はこういうときに間接民主制を生み出したわけだが、現代の政治で「クリエイターの代表者としての政治家」は機能するのだろうか……?

睡沢夏生 (Natsuki Nemusawa)
ライター・小説家。歴史、文学、宗教、哲学、教育などの「ごちゃっと包括した人類の文化的営み」が専門。
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