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凍(Winter)

 図書館の中で雪が降っている。それは病に侵された本たちが端のほうから輪郭を失ってぱらぱらと瓦解していくその音である。さらさら、ぱらぱら、しんしん。それは本当に雪のように降ってくる。凍えた本棚からは今日も何万という欠片の雪が、紙片が落ちる。
 冬凍病だと人は言った。とうとう。それは人でも物でも本でも関係なく罹患する。それは冬枯れの進行に似ている。だんだんと手足から水分が失われていって枯れていく。文字どおり、枯れていく。枯れた足はやがて歩くことすらままならなくなり、倒れ、静かに息絶えていく。それは冬枯れに似ている。身体の中までもが枯れて、乾いていくのである。ゆっくり、ゆっくり、人は冬になっていく。冬そのものに、なっていく。
 私は、この病のことをただ「凍え」と呼んだ。
 図書館の中にただひとつ備え付けられた暖炉が今日も赤い炎を上げている。ぱちぱちと時折、鳴る。私がそこにくべているのはこうして「凍え」にかかって枯れ果ててしまった本たちの欠片である。水分が抜けて、冷たさというものを差し引いた雪のような様相を呈しているそれらはよく燃える。私は今日も、火をくべる。そうして暖を取っている。今では、どの本が枯れて、どの本がまだ息をしているのか、ろくに見もせず暖炉に入れるようになってしまった。アダム・スミス、キルケゴール、ハンナ・アーレント、ドストエフスキー、スタンダール、ハイネ、枯れていってしまった先ではすべてが平等に火となり私の今日の命となる。そこに何が書かれていたかは、彼らが何を書いたかは、私にはもう、助けてやることができない。

 暖炉のそばに、マナセが横たわっている。横たわっている、というのももう使えない言葉かもしれない。なぜなら彼女はもう「凍え」にかかりきり、息をしていない。枯れてしまったのだ。私をひとり、残して。
 マナセは自分が「凍え」に侵される中、この病のワクチンをただひとり分だけ、開発した。そして私が眠っている間にそれを私に打ち込んだ。目が覚めると私の髪と肌は透き通るほどに真白になっていて、だけどそれは、先回りした冬が私の身体に入り込んでもうこれ以上冬が中に入って来ないようにする仕組みなのだとマナセは言った。私はマナセと取っ組み合いの喧嘩をした。私が寝ているすきにこんなことをするなんて。私をひとり置いてお前は行くのか。行ってしまうのか。ワクチンだってひとり分なら何の意味もない。私ひとりが残されるなんて。なんて。なんて。マナセは言った。それでもこの冬はいつかきっと終わる。それまで生きてほしい。どうしても、生きてほしい。あなたが好きだ。誰より好きだ。このワクチンはあなたのためだけに開発したのだ。あなたのためだったんだ。あなたが生きて、生き延びて、いつか私のことを思い出す日があってくれたらそれでいい。あなたが好きだ。誰より好きだ。私の身体を燃やせばいい。きっと本よりよく燃えてくれるはずだよ。そうしてあなたを暖めることができるならわたしは死ぬのも怖くない。あなたを暖めてあげたい。だから約束して、私をきっとこの暖炉にくべて。きっとよ。約束よ。私は死んでもあなたの体温になれるならこんなに幸せなことはない。サロ。サロ。わたしの大好きなサロ。愛してるよ、サロ。
 「凍え」が進んだ彼女はじきに動かなくなり、私は気休めだと知りながらも彼女を暖炉のそばに寝かせた。それでも彼女は息をしなくなった。死んでしまった。もうずいぶん前に。いつ、あの本たちのように細胞の瓦解が始まるか知れない。そうなる前に、私が、私が彼女の身体を暖炉にくべてやらないとならないのだ。それがマナセとの約束だった。一方的にかわされた、マナセの身勝手な約束ですら私は守る義務を負ってしまった。私は泣いた。ただ泣いた。取っ組み合いになって泣いた。マナセはもう涙を出すほどの水分も身体に残ってはいなかった。それが余計に、私の身体から水を溢れさせた。私の身体は、こんなにまだ水があるのに、それはもう私だけのものだなんて。
 私の涙を飲んでも、マナセは生き返らない。

 この図書館に、私はたったひとり。
 私は暖炉のそばに置いたマナセの身体にしゃがみ込んだ。枯れてしまったマナセ。もう息をしていないマナセ。腕に手をかけるとそれは私が思っていたよりずっと簡単にぱきんと折れた。枝を折ったようだった。私はマナセの右腕を抱え、暖炉にくべた。いきなり大きなものが投げ込まれた暖炉は一瞬びっくりしたかのように炎の鳴りをひそめ、それからわあっと高く燃え上がった。枯れ果てたマナセの腕は、立派な薪となっていた。私はその炎をただ見つめていた。私の身体は真白でも温まっていく。私の中の冬は、私の中だけで生き続けて外からの冬を拒絶する。だからきちんと、暖かい。
 マナセはしだいにばらばらになっていった。私はひとつひとつ腕を折り、足を折り、胴体を割った。そうして暖炉にくべた。暖炉はわあっと燃え上がった。私は暖まった。もう何も感じることはない。暖かさ以外のもう何も、私は感じることはない。マナセの言葉がよぎる。わたしは死んでもあなたの体温になれるならこんなに幸せなことはない。私はこうしてマナセと同化していくのである。マナセはぼろぼろになった枯れた身体から姿を変えて、私の体温となっていく。わあっと燃え上がる暖炉を見つめている。マナセの指が暖炉の中でぱきんと折れて、ぼろぼろと崩れ落ちていくのが見えた。
 ああ、マナセ。

 マナセは首だけになった。最後のマナセだ。私は彼女を拾い上げ、もう触れているのも難しいほどにぼろぼろになった彼女の首と対面する。ああ、マナセ。わたしのマナセ。これを暖炉にくべれば私とマナセの同化は完成する。私はマナセと一体になる。ああ、マナセ。わたしのマナセ。あなたを燃やしたあとは、私はまた本を燃やして生き続けようと思う。今ではもう、私の中の冬が涙を凍りつかせてしまって外に出ることはないけれど、本当はきちんと、泣いているつもりだ。嬉しいのか、悲しいのか、わからないけれど、今、私は、泣いているつもりだ。いろんな感情が、私の中の冬を掻き乱している。
 マナセ。私は彼女の名前を呼ぶ。マナセ。この冬はいつか終わると約束してくれたマナセ。この冬が明けたら、雪が解けたら、私の中の冬も死んで、あなたと同じ場所にいけるだろう。それがどこかも、今はわからないけれど。
 私は顔を近づける。そっと、マナセにキスをする。

 ああ、マナセ。わたしのマナセ。今、私はマナセにキスをした。生きているうちはさせてくれなかった、できなかったキスを、今私はマナセにした。ああ、マナセ。わたしのマナセ。今、私はあなたにキスをした。
 マナセの首は暖炉に置かれた。目を閉じたままのマナセの首はやがて髪の毛からふわりと燃え上がり、首の輪郭に火が周り、一気に、崩れて炎となった。
 この図書館に、私はたったひとり。
 マナセの首は、燃え続けている。

凍(winter) / 20160228

BGM
winter,again / GLAY

#小説 #短編 #四季たち



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