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冬が光るとき

冬が光るとき、世界に降ったあらゆる白が反射して、目を開けていられない。冬が光るとき、閃光のようにこの目を貫くあらゆる白に、水に琥珀を溶かしたような色をした光が満ちているのを見る。冬が光るとき、世界の眩しさに細めた私の目に淡く、暖かさが差し込んでくるのを感じる。冬が光るとき、それは洗礼のようで、あらゆる淀みの浄化のようで、冷たく冴えて、ぴんと張った糸のような空気はまるで澄んだ地下水の中を浸っているかのようで、そして、祝福のよう。曇天の雨雪とともにある故郷の冬であるからこそ、その冬が光るとき、それはまるで祝福のよう。遠くに雪を戴いた山々が輝くとき、遠くに海が青く広がるとき、身勝手な冬が身勝手に、突然に、あまねくものを祝福する。全てを洗い流したぴかぴかの空、頰に触れる陽光の暖かさ、あらゆる白の閃光。

猫が落ちる雪をじっと見ている。
四ヶ月前に生まれたばかりの猫にはこれが初めての雪で、降っては止みを繰り返す、粉雪、牡丹雪、を、じっと、窓のそばに座って見上げている。その後ろ姿に私はカメラを向ける。
隣に行って、その背中を撫でて、一緒に空を見上げてやりたい。指をさして、これが雪よと、今このときが冬なのよと、そっと、教えてあげたいと思う。あなたが生まれて初めて見るこの景色は、雪よ、世界いっぱいに広がる白よ、それはとても冷たくて、ときに差し込む光は暖かくて、琥珀の色をしているのよと。あなたのきょうだいの瞳と同じ色をした光がここに降ってくるのよと。
これが冬、あなたは、この冬の国に生まれてきたのよと。
子どもを持たない私は猫の後ろ姿にそうやって、夢を見る。彼に冬を教えられる私のことを夢に見る。

あなたはまだ知らないでしょう、曇天の薄暗さを。
あなたはまだ知らないでしょう、夜半に響く遠雷の音を。
あなたはまだ知らないでしょう、体を包み込むような、水のような冷たさを、寒さを。
それが冬というものなのよ。


日も昇らない、真っ暗な部屋で目を覚まし、制服に着替え、雪が降りしきるホームにひとり、始発電車を待っていたこと。大雪の中、向こうからゆっくりと見えてくる電車の灯。車内に入ればまとわりつくような暖房の空気にすぐに眠くなったこと。朝練に行くのであろう大きなカバンを持った名も知らぬ学生たちと、毎朝の電車の時間をともにしたこと。真っ暗なままだった空のこと。
首にマフラーを巻いて、手袋もはめずに傘を差していた、ひらいた傘には雪が積もって、それがとても重かったこと。転ばないように慎重に、足元ばかりを見て俯いて歩いていた曇天の朝のこと、靴を濡らす水気の多い雪のこと。禁止されていたけれど履き続けた黒のレッグウォーマー、タイツが隠したつま先の霜焼け。
私の冬は夜明け前。目に焼き付いた冬はどれもが夜明け前。
冬は群青。


今となっては故郷の冬は無害で、私はじっと生家に閉じこもっていればよく、外でどんなに雨が降ろうと雪が積ろうと、私はどこまでも安全だった。温かい電気カーペットの上やソファに寝そべってうたた寝を繰り返し、気だるくも安寧な年の瀬を過ごした。両親は私を雪かきにも掃除にもかり出さず、私はただ、暖かい部屋でじっと眠っていた。つけっぱなしのテレビの内容が右から左に流れていく。髪を揺らすほどのエアコンの風。母は寒い玄関で正月のための花を生け、父は黙々と神棚を掃除した。私ばかりが何もせず、まるで天岩戸に閉じこもった天照のように、窓の外に広がる曇天をただぼんやりと眺めながら年の瀬の一日一日を眠り、食いつぶした。
一年分の苦しみに苛まれ続けた私にできることは、ただ、生きて、この年を終わらせることだけだった。それしかできないと諦めていた。だから、何もしなかった。早くこの年が終わって欲しい、それだけを祈って迎えた大晦日は大雪で、夜の間に音もなく降った雪が朝を薄灰色に染めた。

私は生きている。
日付が変わった。どうにか、私は一年を終わらせた。

もう大丈夫、大丈夫であって欲しいと荷物をまとめ、玄関を出たその冬は光っていた。あらゆる白が閃光となり、一斉に私の目に飛び込んできて私は思わず目を閉じる。恐る恐る目を開けると、空は開け、透き通った青色が広がり、琥珀が溶かし込まれた色の空気に雪が燦然と輝いていた。昨日まで曇天が覆っていた世界は突然開かれた。開かれて、全てのものは綺麗に洗い流されて、それは気まぐれな冬、身勝手な冬。
それでも祝福の光。
私がこの町で生まれたことを、この町でしか生まれなかったことを、今や疑うことはない。私はこの曇天の町に、冬が閉ざすこの町に生まれたからこそ私であり、この曇天の町、群青の冬の町が10代の私を作り、育て、そして送り出したのだということを、どうして疑うことができるだろうか。
冬は曇天、冬は群青、けれどその冬は光る。その圧倒的な光に、私は神の姿を見ずにはいられない。


冬が光るとき、私は町をあとにする。冬が光るとき、冬は私の背中を押す。ほんのすこしの力。山々は輝き、海は青く、あまねく白が突然に世界を祝福する。行ってらっしゃいと冬が光る。言葉の代わりに冬は光る。冬は光り、あの猫の瞳に降り注ぐだろう。眩しい白を教えるだろう。琥珀の光を教えるだろう。
冬が光るとき、それは生きろと伝えているのだろう。ここにも生命があると、冬は光の限りに輝いて。
光の限りに輝いて。


読んでくださってありがとうございます。いただいたお気持ちは生きるための材料に充てて大事に使います。