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「さびしさはめぐる」

最近は仕事がたくさんあり、会社を出る頃には帰路の飲食店は軒並み電気を消してシャッターを下ろし、マンションとコンビニの明かりだけが煌々と、それから、これからどこにも寄り道をしないであろう人たちがぼんやりと、赤信号の横断歩道の前に立つ。私はその人々に溶けるように、するすると隙間を見つけて誰かの斜め後ろ、他の誰かには斜め前に立つ。交差点にいた車が止まり、音もなく青色に変わる信号を合図に、疲れた体をふらふらと操縦して歩き出す。誰も寄り道をしないこの夜に、私もまた、まっすぐに自分のマンションへと帰る。

玄関を開ければ朝と何も変わらない私だけの部屋がしんと出迎える。誰も訪れることのない私だけの部屋。靴を脱いでミニキッチンの横を通り過ぎて、私だけの部屋にカバンを落とす。

「ただいま」

私の声は物に溢れた部屋に吸い込まれて、この部屋は返事をしない。部屋着に着替えてすとんと座り込む一人用のソファ。
テレビもつけず、音楽もかけず、ただ卓上時計の秒針だけが、かちかちと音を立てる。静寂の雪が降り積もるスクリーンセーバーあるいはスノウドーム。何も言うことがない。私は私の一日の終わりを看取る。
私が看取った音のない一日が部屋のそこかしこに積み上げられて、その重みでここはゆっくり沈んでいく。沈んでいく速度を、沈んでいくことそのものを、沈む部屋にいてもの言わぬ私を、たった一人でいる私を、誰かが孤独と名付けるならそうなのだろう。疲れて帰ってきた私に、荷物になるような言葉など一つもないのだから。



孤独というのは、常に、一人でいることを自分で選び取るものです。「寂しい」と思うことはありますが、それは感情です。孤独(ソリチュード)と寂しさ(ロンリネス)は全く別物です。
(イーユン・リー)



独りが好きだということと、寂しさを抱えて生きることは矛盾しない。私は独りが好きで、そして、寂しい。
独りでいるのが好きで、一日を誰とも会わなくても、誰とも話さなくても平気。
だけど私は多分、いつも、ずっと、寂しい。
本当にずっと寂しかったのだろうか、と考えてみる。私はかつて、ここまで自分の寂しさに自覚的であったことがあっただろうか。私はいつからここにある、この寂しさに、気づいたのだろうか。
そうして考えて、明かりの落ちた街の光景が瞼をよぎる。それから、いつかは燦然と輝いていた街の光景を思い出す。煌めく真夜中の繁華街、雑居ビルの隙間を突き抜けていく笑い声、綿の上を歩くような足取り、熱い頬、酩酊の多幸感。
そうだった、私は、数え切れない夜たちに、私の寂しさを掬い上げてもらっていたのだ。


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私の寂しさは光っていた。夜の街の明かり一つ一つに私の寂しさはあった。仕事を終えて、同僚の皆で会社を飛び出した私の髪を揺らす風に、私の寂しさはあった。川に沿って吹く風に私の寂しさは鳴っていた。ビルの群れから続々と吐き出されてきた人たちに埋もれて私個人が消え去っていく感覚に、私の寂しさはあった。
私の寂しさはお酒になり、美味しい料理になり、掠れた歌声になる。
私は私の寂しさを、けらけらと笑いながら食べて、飲んで、自分の栄養にしていたんだ。
全ては循環して、寂しさは寂しさと名前を与えられないままに私の中をめぐっていた。それが寂しさであると気づいたところで、明日の私への栄養となるならそれでよかった、それが機能していた日々があったんだ。今ではすぐにその感覚を思い出せなくなってしまった、消えてしまってからまだ1年と少ししか経っていない、かつてあった日々。



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それがなくなった今、私は、ずっと寂しい。
黙り込んだ寂しさと向き合っても、私の口からは何も出てこない。ひとつとひとりが向かい合って、黙り込んでいるその部屋は沈んでいく。海に浮かぶ方舟みたいで、行き先もわからないままゆらゆらと揺れているばかりの、それでも少しずつ沈んでいくのを、ひとつとひとりが窓に目をやる。
沈んでいくねと、目に見えることだけをつぶやいて。そうだねと、返ってくる言葉を私は待たない。


寂しさはめぐる。一度は街の中に煌めいて、一度は風となって私の髪を揺らした寂しさは、結局私の五感を通して私のもとに戻ってくる。
人に手渡して、楽になったはず、体からいなくなったはずの寂しさも、その人をこの目に映すことで、声を聴くことで、体に触れることで、私のもとに戻ってくる。
そうして寂しさはめぐる。




今の、外出自粛や緊急事態宣言下の時短営業、帰路につく頃にはコンビニの明かりが一番明るく見えるような、仕事がたくさんある日々にあっては、寂しさがこの体をめぐる速度だけが音もなく上がっていく。街にも出られない、人にも会えない私の寂しさはただ、私の中で純度ばかりを上げて、何の色もなく透明になって、私に薄い膜を張る。
寂しさに包まれた手、寂しさの膜がかかった目、それを通して触れるものと見えるもの。
私は私の体が寂しさの膜に包まれていることを今になって知る。あまりにも寂しい、と言えば陳腐で、そんなに切実で悲しみがこもった感情じゃないと私は笑うだろう。今まで気づかなかっただけ、そして、決して一時的なものではないこともまた理解している。私はこの膜に守られて生きてきたんだ。



いつか、喜びも悲しみも怒りも、人の体から何もかもいなくなったとき、それでも最後まで残るのは寂しさなのかも知れないと思う。
ああ結局は独りだったと、ひとりで生まれてひとりで死んでいくのだと、誰の人生とも交代できなかったし、誰にもこの人生を代わってもらえなかったと、結局は私ひとりの人生だったと、いつかの夜に目を閉じるとき。



今このときの寂しさの形は、ずっと覚えていられるかも知れない。
感染症ワクチンがすべての人に行き渡って、終息宣言が出されて、毎日のマスクも要らなくなり、どこへ行っても洗礼のように迎えてくるアルコール消毒液もなくなり、寄り道をする人が増えて、夜がまた長くなっても。
見える景色がすべて、寂しさの薄い膜越しのものだったことを。
寂しさが私の中で、血や水のように、すごい速さでかけめぐっていた感覚のことを。



私は、ひとりでいることを選びとって、ここにいると思う。ひとりの時間がなくては狂ってしまうだろうと思う。それは社会人になったとき、私が自分で決めたことだった。どんなに同期同士の、同僚同士の付き合いが大事だと言われても、私は私の時間を守る。私は私の休日を、仕事以外の会社の行事に捧げるなんて死んでも断る。
そうして社会人になってからの6年間を生きてきた。私は孤独と寂しさに生かされてきた。守られて生きてきた。私に何よりも優しかったのは、私の孤独であって寂しさだった。きっとこれからも、ずっと、そう。私が明日を生きていくための。



「あなたは、ふとしたときに少し寂しそうな目を見せる」
そう言ったあなたへ、ありがとう。だけどそれでいいんだ、私は十分に生きていて、十分に守られているから。



綿矢りさは『蹴りたい背中』で「さびしさは鳴る」と書いた。私なら「さびしさはめぐる」と書くだろう。苦しいけれど、それは決して悪いものではないと書くだろう。
都会の街の明かりが落ちて、星が見えるようになった。私の寂しさは大気圏を超えた。力強く輝くシリウスの光に、私は私の寂しさを見る。夜空を見上げて、明日も私はひとりで帰路につくだろう。


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