なにをするにも
なにをするにも、「自分には価値がない」が付いて回った。生きていてこんなにしんどいことはない。住むところにも、食べ物にも困っているわけではない。なのに、なんでこんなにしんどい。
朝起きるのもつらい。なにも楽しくない。インスタはざわざわするのわかってみちゃうし。
幡野広志さんの本を読んだ。感動した。幡野さんの芯にあるものに触れてもっとこの人の作品に触れたいと思った。親と子の関係、医療者と患者の関係。一見別問題に見えるけれども、親も医療者も人間で、でも子や患者からはすげー、大人に見えて、だけど実際はこどもじみてるところもあるから厄介なんだ。
だから、俺が思うに、意外と今見てる大人に見える人って、普通に失敗するし、みっともない人間だったりするから、たとえ親や名のある医療者だろうとその人を「切る」という選択肢を持っていいんだ。ということ。
そして「安楽死」の話題。自分に「選択権がある」ということが、
救いになるのだ、幡野さんの場合それが安楽死。国内では認められていないから、合法で行えるスイスでの登録を済ませたという。
自分で選択していないものは、周りにない。家族も治療も。
がん患者の集まりに行くと、「お前はまだ若いんだから頑張れ」みたいなことを言われ、不幸マウンティングが始まるらしい。悪意ではなく、想像力のなさ。よくやってしまう。
患者の最大の敵は、病ではない。「人間関係」だ、と幡野さんが書いていてハッとした。
「息子さんのためにも」とか勝手に美談にされてしまうのが心の負担になる。それが善意だから厄介なのだ。こうした善意による暴力には「切る」ことで距離を置いていい、と思えた。
俺も親に苦しんだ。大学だけでなく就職先にさえ口を出してくる親に。
でも切らなかった、親の言うことに逆らうことはせず謝った。承認を欲しているのは俺だった。親からの承認を自分に対する承認だった。すり替えていた。口出しされたとき安心した。自分の責任で進まなくていい。
でも、人の期待を満たすために生きなくていい。そりゃ、親はいろいろ言う。あなたが心配だから、のこんていは自分が安心したいからだ
自分中心にものを考えてしまうのが、人間というものだ。
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