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ル・プティ・シュヴァリエ Le Petit Chevalier 4 Vein

 教会は住宅街に紛れて、アンリに言われなければうっかり通り過ぎてしまいそうな、小さく簡素な建物だった。開放されている礼拝堂に足を踏み入れると、木製の長椅子に腰かけた母子連れがいた。最後列の長椅子に腰かけ、どこにクダはあるの、母子連れに気づかれないように囁き声でアンリに尋ねた。
 「クダはそれが設置された空間内部を満たしています」
 そうアンリは答えたが、いまいち意味がわからない。
 「カードを十秒ほど掲げてみてください。すぐに波動を拾います」
 
 財布に入れていた認証カードを取り出し、腕を伸ばし高く掲げる。最初に女の子が不思議そうな顔で、次に母親が少し怪訝な顔でこちらを眺めた。視線を気にしないように努める。十秒経過すると、肉体に急激な圧迫が訪れた。視界が小刻みに震える。
 
 まばたきや、かすかな視線の動きが残像を産み落とし、それはしゃぼん玉のように増殖しながら、膨らんでパンと弾けたかと思うと、七色の硝煙がとめどなく湧き出てくる。礼拝堂はめくるめく色彩に埋め尽くされ、母子も見えなくなり、最早ここがどこかもわからなくなった。幻覚を視ているようだ。気を失いそうな重力が内臓を軋ませる。アア、アアと、うなされるように声が漏れた。
 
 濃霧が晴れるように徐々に姿を現したのは、灯りが消えた建物の内部だった。がらんどうの室内には、薄いコンクリート片や割れたガラス片が散乱し、唯一の調度品であるロココ調のソファーは裂けていた。壁にはスプレーで落書きされた判読不能な文字列。どこかの廃墟に飛んだのだ。自然光がしめやかに差し込む空間は、先刻の教会の未来の姿のような気もした。
 
 「アンリ、ここは?」
 「茨城県石岡市のクダです」
 なるほど、思ったよりも早く着けそうだ。
それにしてもクダを通り抜けるたびにこんな重圧を体験するのか。気が滅入るな。真砂さんは、東北にたどり着くまで何回クダを通ったんだ。
 
 ガラスのない窓枠から外を覗き込むとここが二階だとわかった。辺りは鬱蒼とした樹々に覆われ、ほかに建造物は見えない。
 「アンリ、質問、ここは森の中なの?」
 「いえ、この一帯は私有地です」
 所有者が亡くなって、相続登記されないまま打ち捨てられた廃墟は、地元で有名な心霊スポットに成り果てているらしい。
 「アンリ、何でそんなこと詳しいんだよ」
 アンリは若干笑みを浮かべているように錯覚する無表情のまま黙っていた。
 
 そう言われてみれば、遠くに赤茶けた門らしきものが見える。
ふいに葉音がざわめき始めた。
 生暖かく強い風が廃墟内に吹き込んできたかと思うと、急激にスコールを呼び寄せた。かまびすしい雨音に心奪われるのに抵抗して、少し腰を屈めて空を見上げる。それは異常な光景だった。数分前の雲一つない青空は裏切られ、紫煙をまだら状に際立たせながら、幾億の恒星が爆発的に敷きつめられていた。まるで星雲から地上へ光を孕んだ雨粒が乱れ撃ちされ、世界を光の海に浸していくような。
 
 今朝東京で見た光景はさらに進行している。
世界は、清く美しく朽ちていく。
 このままなすすべなく世界という膜は閉じられるのではないかと思った。
遠くの門から雨を厭いながら誰か入ってきた。駆け足でこの建物の方へ向かってくる。たぶん女だ。
 「アンリ、あれは?」
 「敵です」
 「もうちょっと敵が近くに来る前に教えてもらえたら助かるよ」
 だが俺は負けることはないとたかをくくっていた。
 「彼女は強いです。苦戦する可能性があります」
 雨宿り先を探すように駆けてくる。ショートカットに花柄のワンピース姿。
 「光を反射するものから結晶の力を増幅させる能力です。それでは健闘を祈ります」
 「キミが闘うんだから、他人ごとみたいに言わないでね」
 まあ闘うのは俺でもあるけど。
 フィギュールに意識を集中させ、戦闘態勢に入る。反射、そう思った直後、降りしきる無数の雨粒から一斉に太い針のような結晶が発射され、室内は蜂の巣にされた。
 
 死角に逃れる暇はなかった。アンリは咄嗟に両腕でガードしたが、全身に結晶の弾丸を浴びて吹き飛ばされ、背後の壁に激突した。重い衝撃が俺の身体にも走る。攻撃は容赦なく続く。コンクリートのガラガラと破砕する音が雨音と交じり合い、喧騒ノイズを増幅させる。アンリは態勢を低くし、身を捩じらせながら、壊れて開け放たれたままの扉の外へ逃れた。俺の服はあちこち破れ、両腕から血が流れている。不思議と痛みを感じない。廊下の薄闇で数秒頭が真っ白になり、全身が固まったが、すぐに正気を取り戻す。骨も内臓もイッてない。ダメージは受けたが、決定的な損傷はない。
 
 にわか雨が止むまで室内の暗がりに隠れていればいい。となりの部屋を覗くと、窓には遮光カーテンが閉められている。だが次の瞬間、連射された結晶がガラスをブチ破りカーテンをこま切れにした。咄嗟に顔をひっこめる。
長い廊下は突き当りで左に曲がっていて、振り返るとそれは右に曲がっている。回廊かもしれない。意匠から判断するとここは古い洋館か。
一階のドアが軋みながら開く音がした。
 
 雨降りなら無敵なんだろ? なぜわざわざ室内に入ってくる?
 廊下の突き当りの角を左に曲がり、柱に隠れながら中央の階段から姿を現すのを待った。
 俺は右手に力を溜めた。しょせん単純なアルゴリズムで動くゴーストだ。射程内に入った瞬間、特大のストロベリー水晶をブッ放してやる。
 「誰かいますか」
 階段のほうから女の声が聞こえてきた。
 「助けてください」と女の声が廊下に響き渡る。
 小声でアンリに尋ねる。
 「敵で間違いなんだよな?」
 「間違いありません」
 へえ、ゴーストは無口なヤツらばかりだと思ってた。少しお話してみるか。
 「どうしました?」俺は顔を見せずに叫ぶ。
 一瞬静まり返ってから「外で襲われて助けを求めてきたんです、携帯も奪われてしまって」
 女の足音が近づいてくる。俺はいつでも逃れられるように手前の部屋のドアまで後退し、左手で右手を支えて、姿を現した瞬間発射できるように構えた。だが、突き当り直前で女の足音は止まる。
 「あなたのフィギュールは」
 そう女は抑えた口調で話し始める。
 「あなたを騙してる」
 「なるほど、そうなんですね。お困りでしたら警察を呼びましょうか」
 背後の、おそらく遠くの窓、そこから斜めの角度ですきまを縫うように、雨粒をとびきり鋭いニードル水晶化した弾丸がアンリの後頭部を狙って放たれた。
 「痛ッ」
 アンリは背後からの攻撃に俺の意識とは無関係に反応し、致命傷を避けた。弾丸は耳にかすり傷を負わせただけだった。
 本体はあそこか。
 振り向いて細いすきまから弾丸を連射する。
 殺った。少し得意げにそうつぶやいた。廊下を曲がると、女は床に倒れ消えかかっていた。
 
 俺はフウとため息を吐く。
 休む暇もないね。さすがに疲れてきたな。
 「ここから五キロほど歩いたところに次のクダがあります。クダを抜けて到着した街で一晩休みましょう」
 アンリはすぐさまこちらを察して言った。
 明日の夕方までには真砂リサのいる街に着けます、と。

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