ル・プティ・シュヴァリエ Le Petit Chevalier 9 Sin
遠く、斜めに光が差し込む樹々のあいだを、ゆっくりと歩いてくる男が見えた。真夏の樹海に不似合いな、黒いロングコートを着た背の高い男。肩まである、黒い長髪が揺れている。
右手に白装束の女の首をぶらさげていた。
榊だ。
猫のような眼をしている。
なぜだかわからないが、私たちは榊を即座に攻撃しようとしなかった。
私たちの目の前までやってきた榊は不敵な笑みを浮かべて言った。
「ありがとう、助かったよ。ずっと敵のスキができるまで待ってたんだ」
あきらかにほかのフィギュール使いとは雰囲気が異質だった。
静かに相手を丸飲みしそうだ。
万が一でも榊が話せる人間なら、そう思い提案した。
「私たちはあなたと戦いたくてここに来たわけじゃないの。知ってると思うけど、世界がメザニンに落下してる。あなたが結界を解かない限り、あなたも私たちもみんな飲み込まれる。結界を解いてもらえませんか?」
「無理だね」
「私たちの仲間にメザニンを塞ぐ術者がいるの。それでも?」
「キミ、何か勘違いしていない? 僕は殺しが大好き、戦争が大好き、混乱が大好き。あるのはこの瞬間だけ、生きるか死ぬかの快楽に身を投じたいだけ。世界が終わるとかどうとか、そんな未来の話に興味はないの」
「真砂さん、あと十五分を切りました」
ミト君が珍しく声を荒げた。
「お前、ゴーストだろ? すでに死んでるって自覚しろよ」
「キミみたいな雑魚に興味ないよ。それに僕、上の世界ではちゃんと生きてるから」
「お前のせいで世界が終わるようなもんだ。迷惑野郎め」
「ふーん、穴だらけの世界で生きるくらいならいっそ世界を穴そのものにしたいね。僕はキミらより正直なの。僕が迷惑野郎ならキミは欺瞞野郎なわけ」
「真砂さん、榊と交渉なんて無理ですよ」
ふだんは冷静なミト君があきらかに感情的になっている。
「待って、ミト君」
榊がフィギュールを発現させた。黒く輝く結晶の身体の。しなやかなに腕を伸ばしミト君へ向けて翳す。
私たちも瞬時にフィギュールを発現させる。
ミト君の右足で鈍い音を立てて何かが破裂する。
「ああっ」とミト君は短い悲鳴を上げ倒れ込む。
榊の放った波動はミト君の足を突き抜けて遠くの木までなぎ倒す。
白装束の女の首を私の顔の前に放り投げると同時に榊のフィギュールは波動を放つ。私は右に飛んでかわした一瞬、空中で二つのことを考えた、榊は私に拮抗するほど強い、しかし舐めているだけとはいえミト君の顔ではなく足に攻撃する甘さ、ということだ、勝てると確信して大木を蹴り身体を捻りながら大剣で榊に切りつける。だが榊は消えた。
どこだ? 一瞬で気配が完全に消失した。
かわした波動が背後で樹々や岩々を破壊する音だけが亜空間の静寂に響く。
左腕に激痛が走る。筋繊維はズタズタになった。
死角からの波動。左腕。やはり榊は甘い。
左腕は死んだように力が入らない。
榊はフィギュールではなく人間を直接狙う。
そのほうがダメージも大きい。ジワジワ苦痛を与えたいのだろう。
今度は頭だ。賭けてもいい。だがかわす暇がない。
背後から榊のフィギュールが真砂リサの脳味噌に向けて波動を放とうとした瞬間、来栖ミトが座り込んでから右手に溜めていた力を至近距離から発射した。身体を逸らしてかわそうとする榊のフィギュールの胸を真横に抉るようにストロベリー水晶が傷を負わせた。その瞬間、真砂リサは榊の首を刎ねた。
榊の首は地面をゴロゴロ転がって、苔のまとわりついた低い枝にひっかかった。その顔は満面の笑みを浮かべ、消えるまでのあいだこちらを見つめていた。
私とミト君はホッとして顔を見合わせる。
二人とも、しばらく呆然として黙っていた。
変化を期待しながら空を見上げる。
榊が消えても亜空間は消えない。
「フィギュールと一体化した榊が消えれば能力も消えるんじゃないの」
ミト君がアンリに訊いた。
「通常はそうです。しかし、稀に能力だけが残ることもあります。榊のような空間型の能力の場合です」
「このまま出られないなんてことはないよね」
「……リミットの三十分にアリがふたたび開いてくれることを祈りましょう」
「い、祈るの? 絶対ではないのか……」
もう一度、ミト君と顔を見合わせた。
「さっきはありがとう」
「いえ、俺の力では敵わなかったです。左手は……大丈夫ですか?」
「大丈夫ではないかも」
私は口元に笑顔を作る。
「ミト君の足は?」
私はしゃがんで青黒く腫れたミト君の足に触れた。
私はこれからミト君を裏切るのだ、そう考えると罪悪感が芽生え、気遣ってやろうという気持ちになった。
「使い物にならないかな。でも大丈夫です」
ミト君のどこか諦めた顔。
「でも」
そう言ってミト君は私の右腕を引き寄せた。力強く握りながら。
「え、どうしたの?」
ミト君は上体を起こして強引に私にキスをした。
すぐに離したので受け容れることも拒否することもしなかった。
私は呆然としていた。
「真砂さんは強かった。俺はフィギュールを授かってから神になったような気分だった。でも結局、等身大の俺は変わっていないんだと思った。相変わらず、つまらないことで一喜一憂しているだけだ、虚しい人生を送っているだけだ」
「そんなの、わからないよ」
「俺はこのまま、死んだら死んだでいいかなって」
そう言ってミト君は微笑む。
スマートフォンの時計を見る。もうすぐ三十分だ。
お互い黙って時計を眺めていた。三十分ちょうど、例の圧迫が訪れた。
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