ル・プティ・シュヴァリエ Le Petit Chevalier 10 ルクス Lux
俺と真砂さんは榊の邸宅の中庭に倒れ込んでいた。
気を失っていたわけではないが、二人とも急激な疲労に襲われ、身体に力が入らなかった。
見上げるとアリがこちらを見つめていて、お疲れ様です、と気遣った。
「榊の結界は解けました」
そう言って、アリは希うように両手を掲げ瞼を閉じた。
そのまま一つの音程、少女の声とは思えないほど低い音程を、延々と持続させながら歌い始めた。かすかな狂いさえない機械のような安定した揺らぎで、長く長く、遠くまで声を投げた。やがて声は、階段を一段飛ばしで登るように高い音程へとシフトしていき、ついにはモスキート音よりもか細い声が天空へ向かって紡がれていく。
その声は少しも不快ではないどころか、緊張した身体を柔らかくほぐし、力を漲らせ、私たちは立ち上がれるようになった。
誰も知らない彼岸へ神秘的な子守歌を歌い続けるアリの全身は、ほのかに発光していた。こんな音を聞くのは生まれて初めてだ。それなのにどんな記憶よりも懐かしい。
私は崇拝に近い感情でアリを眺めていた。
気がつくと頬に涙が伝っていた。
ミト君も泣いている。
黒地の服を着たアリは悪魔を召喚する魔女のようにも、神に身を捧げる聖女のようにも見えた。
「あっ」
ミト君が空を見上げる。
歪に美しく枯れ落ちそうだった空は、懐かしい淡い青空へその姿を巻き戻そうとしていた。
アリは目を開けて空を一瞥すると、手際よく右腕のアームカバーを外す。
左掌を上に向けて差し出すようにピンと腕を伸ばし、右手の指先を口元に当てる。
中庭のゼラニウムが一斉に震える。
クダを通り抜けるときと同じ圧迫が訪れる。
このタイミングしかない。ミト君を言いくるめて認証カードを掲げさせる。何て言えばいい? 強引に、二人で目を閉じるように、それで一緒にカードを掲げるように言う、それで私だけは掲げない。できるだろうか?
「ミト君」
「何ですか?」
頭が潰れそうな激しい圧迫に耐えながら、絞り出すように言った。
「異世界へ行こう」
そう口にしたとき、予想していなかった感情に包まれた。
私はうわのそらのようになった。
この悲しくて退屈な世界を逃れてどこか遠くへ。
心躍る冒険の旅へ。
二人なら行ける、どこまでも、いつまでも……。
私は何を考えているのか。あっちの世界に行きたいとでも?
ちがう。
目を閉じると暗闇の奥に光が見えた。
小さな扉だ、扉が開いている。
光はどこから差しているんだろう。
あっちの世界からでもないし、こっちの世界からでもない。
じゃあ、扉の向こうはどこなの?
私は、何気なしに、小さな扉の向こうを見てみたくなった。
私は頬の渇きかけた涙を拭いながらそっと目を開けた。
「いま何て言ったんですか?」
「んん、何でもない」
§
三匹の輪郭鳥は優雅に青空を飛ぶ。
真夏の日光を浴びて、広大な海を見下ろしながら。
アンリによれば明日にはフィギュールに制限がかかり、一切の利用ができなくなるそうだ。アメリともお別れだ。
§
メザニンが塞がれ、上位世界へつながるクダも縮小され、ひとまず世界の終わりは回避された。それでも消えた人びとや結晶化した街は、元通りにはならない。
経済もインフラも壊滅的な被害を受けながら、政府は原因究明すらままならず右往左往している。日本社会は悲壮な非日常感に覆われていた。私たち二人を除いて。
東京へ戻ってから一ヶ月が経過した。
この日、最寄り駅の改札でミト君と偶然再会した。
真砂さん、おひさしぶりです、そう声をかけられ振り向くと、少し髪が伸びて大人っぽくなった彼がいた。成人している男性に大人っぽくなったというのもおかしな話だ。でも彼は生まれ変わったように見えた。
「ひさしぶりだね」
「仕事、見つかりました?」
「んん、来月から営業再開するみたい」
「そっか、ひとまず安心ですね」
「まあね」
「俺は逆に仕事増えちゃって」
「よかったじゃん、仕事しないとやってられないよ」
「そうですね」
慌ただしい昼下がり。空のスクリーンは孤独な青一色だった。
私はミト君と並んで街を歩く。
「胸にぽっかり穴が開いたみたいです」
ミト君は空を見上げた。
「そうだね」
そう答えたとき、風が吹いて、自分の髪の毛で顔が隠れた。
指先で髪の毛を払う。
「アメリって呼んで、シーンて、何も返ってこないの」
「はは、俺も同じです。ねえアンリって」
これからフィギュールなしでやっていけるかな。
この世界では胸の穴を自分で埋めて生きていかなきゃいけない。
一度認証されたフィギュールは永遠に人間の核に残る、八ッ橋はそう言っていた。いまも私の身体の奥にはアメリがいる。そう考えるだけでも少し救われるような気がした。この空の向こうに、いつかきっと完全で、安らいだ日がやってくる。そのときにまた会おうね、アメリ。
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