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下山進の作品

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ノンフィクション作家の下山進さんの作品『原子炉・加速器で癌を治す』『がん新薬誕生』をこちらにまとめました。
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記事一覧

原子炉・加速器で癌を治す 第1回 絶望的な患者

取材・執筆:下山進  その67歳の女性の患者は、万策がつきていた。耳の下が腫れたように膨れ上がり、巨大なコブ状になって、そのコブの中心部からは、粘液がぬぐってもぬぐってもわき出てきた。ガーゼでおさえているが一日に何枚も替えなくてはならない。この粘液をとろうと夫が、毎日懸命にぬぐっていたが、すぐにムチンといわれる粘性の物質を癌細胞が分泌する。  1998年7月16日に大阪大学歯学部附属病院を初診の際の診断は、耳下腺癌だった。すぐに標準治療の第一選択である外科手術を行った。

原子炉・加速器で癌を治す 第2回 癌が消えた!

取材・執筆:下山進  京大原子炉実験所は中に入ると町工場のようだ。むきだしで様々な機械が殺風景にならんでいる。  大阪の梅田からJRと徒歩で一時間半、大阪府熊取にある京大原子炉実験所の準備委員会ができたのは、1956年。すでに始まった冷戦のなかで、原子力の平和利用がしきりと唱えられていた時期でもあった。初代の準備委員長は、陽子や中性子を互いに結合させる媒介となる中間子の存在を1935年に予言し、ノーベル賞を受賞(1949年)した湯川秀樹。5000キロワットの軽水炉が稼働し

原子炉・加速器で癌を治す 第3回 加速器を開発せよ

取材・執筆:下山進  2002年4月に京大原子炉実験所の教授として迎え入れられた丸橋晃は、医学物理が専門だった。筑波大学の助教授から着任した時の希望は、陽子線治療施設の建設だった。しかし、小野公二に、2001年12月に照射をうけた67歳の女性患者の写真を見せられる。 「こりゃすごいわ。これほおっておいたらいかんのじゃないの」  以来、丸橋もBNCTにのめりこむことになる。  頭頸部癌のこの女性の成功は大きく、それまで年間5例程度しか、BNCTをつかった臨床研究は行われ

原子炉・加速器で癌を治す 第4回 治験

取材・執筆:下山進  アルゼンチンでBNCTを国家的プロジェクトとして進めようとしていたアマンダ・“ マンディ”・シュイントは、2000年代の国際学会での日米の研究者の対決を今でも思い出す。  2000年代を通じてアメリカの研究者は日本のやりかたに常に批判的だった。  彼らの批判のポイントのひとつは、日本の臨床研究は、背景がそろっていないので、評価のしようがないということだった。  ある日本人の研究者が学会で発表した際に、アメリカの研究者はこう批判した。 「その臨床

原子炉・加速器で癌を治す 第5回 承認

取材・執筆:下山進  福島にある南東北BNCT研究センターには全国から、頭頸部癌の患者が集められた。切除不能の再発頭頸部癌か、切除不能の進行性の頭頸部癌の患者のみがこの治験に参加できる。  21人の患者が集められ、ステラファーマのホウ素剤と南東北BNCT研究センターにある住友重機の加速器でBNCTを受けるフェーズ2の治験だ。  これは比較対象群のないいわゆる「シングルアーム」の治験だ。だから「切除不能の再発頭頸部癌か、切除不能の進行性の頭頸部癌の患者」という厳しい条件が

原子炉・加速器で癌を治す 最終回 三人の旅人

取材・執筆:下山進  高槻は、京都と大阪の中間に位置する。大阪医科薬科大学(2021年4月大阪医科大学から名称変更)は、阪急高槻駅のすぐ前にある。JRの高槻駅からも10分ほどだ。このキャンパスの一角に関西BNCT共同医療センターはある。2021年9月14日、オープンスペースの会議室で、工学部の学生に対してBNCTを説明する会がもよおされていた。 「この患者のかたは料理人で、嗅覚が失われるからと、手術を拒否。BNCTの適応をうけた」  BNCTを求めてくる人は、治療の効果

がん新薬誕生 第1回 万に一つの可能性にかける

取材・執筆:下山進  化学式のなかに、美しさがあるのだ。  これまでに存在していなかった分子式の物質を化合する。それが合成化学者の仕事だ。  1990年に千葉大学大学院薬学研究科からエーザイに入社した鶴岡明彦(つるおか・あきひこ)は、現在グローバルで年間1923億円、エーザイの全売上の4分の1を占めるがんの薬「レンビマ」の化学式を見るたびに美しいと思う。  ヒットする薬の化学式は抗アルツハイマー病薬のアリセプトにしても、レンビマにしても、シンプルで美しい。  鶴岡の

がん新薬誕生 第2回 薬をつくることを諦めないでください

取材・執筆:下山進  合成化学者の仕事は、テーマが決まると、まず論文を読むことから始まる。血管新生阻害剤の場合は、理論を提唱したフォークマンの1971年の論文から始まり、健常細胞に血管をつくらせるファクターXのうちのひとつを最初に特定したナポレオーネ・フェラーラとウイリアム・ヘンゼルの論文。さらに、この理論にもとづいて創薬にとりくむ他社が、特許を取得した化合物についての書類一式を、知的財産部からとりよせる。  一年から一年半、エーザイの筑波研究所にある図書室に通って、日が

がん新薬誕生 第3回 化合物選択

取材・執筆:下山進  プロジェクト名をHOPEと名づけた2000年4月の段階で、すでに化合物は絞られつつあった。  船橋泰博はプロジェクトリーダーであったが、最終的な化合物選択は、合成のチーム長であった鶴岡明彦にまかせることになる。  というのは、翌年の9月に船橋はコロンビア大学の産婦人科に留学することになっていたのだ。船橋は、ここで、新しい作用機序の薬をつくるつもりだったが、船橋のもとで働いている研究所の所員が、どうしても労働過重になってしまうことから、船橋を筑波の研究所

がん新薬誕生 第4回 甲状腺がん治験第三相

取材・執筆:下山進  甲状腺はヨウ素をとりこみ甲状腺ホルモンとして分泌する器官だ。だからそこが「がん」におかされたときには、ヨウ素131を飲む治療が行われる。ヨウ素131は、半減期が7日で、その際に微弱な放射線を出す。この放射線を使ってがんを叩くというわけだ。だから、この治療をうける患者は、アイソトープ室という鉛の壁で覆われた放射能を外に出さない病室で、3、4日過ごす必要がある。  パリ南大学の難治性甲状腺がん関連センターの医者マルティン・シュルンベルジェにとっても、第一

がん新薬誕生 最終回 世界のどこかで誰かが

取材・執筆:下山進  免疫細胞ががんを攻撃することは知られていた。だから、以前の免疫療法というのは、免疫自体の力を強めようとした。  たとえば患者の骨髄からリンパ球をとってきて、免疫細胞を刺激して活性化させ、それをもとに戻す。そうすると熱がでる。つまり免疫が働いている。しかし、こうした方法では大規模治験をしても、結果はでなかった。  ノーベル賞を受賞することになる京都大学の本庶佑の研究が画期的だったのは、がん細胞が免疫細胞を回避しているメカニズムを探ったことにあった。が