見出し画像

我々を駆動するのは結局のところ、ポエムである

〈イチローズモルトについて語れれば、それなりに満たされるであろう自意識レベル〉で40代を珍走する私の限りある日常。こんなんで生の実感を掴めるのか、俺は。雑誌やら適当に検索窓に放り込んで引っ張ったWEB記事を読んで都会のオトナとしてなんとなく知識やアイテムや振る舞いを身に着けて自己確認をしたいために、東京に出てきたのか、俺は。今すぐサラリーマンを辞めて、立川流の落語家に弟子入りするしか道はないのではないか。

子供に伊勢丹の子供服売り場で服を買うパターナリズムは、愛犬に服を着せるオーナーのと同じように滑稽に見える(本当のブルジョアジーは天然でやっていると思うけど、特に中産階級のそれ)。それより、仮面ライダーとかプリキュアとか、そんなの着たいし、履きたいよな。子供の頃、これがいいだのあれがいいだのと、大人は全然分かってない!と私の中の尾崎豊は咆哮していたが、大人になって親になってみると、自意識を満たす道具として子供を利用していないか、ということを注意深く考えるようになった。子育てをしていて思うのは、子供はいつでも圧倒的に正しい、ということ。したいときにしたいことをし、後先や辻褄など考えないということ。彼らは、初めて出会う様々はイベントに目を輝かせ、常に瞬間の為に全力で生きている。そうだ、君は君のやりたいようにやればいい。私はその為に働いている。君をうんこミュージアムに連れて行き、うんこの形をした飴ちゃんを買うという、大人が見ると無価値な消費行動の為に、今日も私は顧客に頭を下げ、理不尽な内部調整を乗り越えるべく奮闘しているぞ。娘よ、耳を澄ませ。私のアナルから忌野清志郎の「パパの歌」、あるいは細川たかしの「正調おそ松節」が小さな音ながら流れているはずだ。

断言するが、我々を駆動するのは<ポエム>である。コスパやタイパなどというさもしい概念は、何も人生を掛けて取り組むことがない人達のために用意された贋物であって、そこには哲学も文学はおろか人の血など流れてはいない。本当は笑われ、後ろ指を指される人生こそ「最高」である。「そうは言ってもお金や時間って大切じゃないですか?」と真面目な顔して正論めいた反駁が安易に考えられるが、実に退屈極まりなく、全く話にならない。このくだらない日常を鮮やかに甦らせ、私の中に鳴り響く不確かな言葉の連なり、それこそが、私をここではない世界へ連れ出す。その潮流が感じられるのか、それが感じられぬ現在地を絶えず更新しようとする態度だけが己を基礎付ける。私はこのような非生産的な信仰を信じることにしている。

「ナンシー関の名言・予言」を通勤電車で読み、えなりかずきの章で大いに唸る。令和になっても衰えていない、当時のこの切れ味。その後、えなりについて気になった私は、現在のえなりの状況をインターネットで調べ、えなりかずき公式blog「えなリズム」へ辿り着き、居合わせた隣の乗客に見られないように、こっそりじっくりと電車内で拝読する。なんの価値にも転換されない時間の極北と言っても過言ではないが、私はこの時間を抱きしめたいと思う。一応言っておくが、抱きしめたいと言ってもミスチルじゃないぞ、ビートルズだぞ。アイワナホールドユアハンドだぞ。ついでに言っておくけど、長渕剛はホールドユアラストチャンスだぞ。YOチェックしておけ。このように私の半分はテレビブロスで出来ているし、僕はここでしかいれない。

娘と2人でカラオケへ。彼女が「どんな色が好き」や「クラリネットをこわしちゃった」を歌い上げる中、私は北島三郎の「まつり」や和田アキ子「真夏の夜の23時」で応戦。2人でタンバリン叩きながら大いに盛り上がる。また行こうね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?