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【サタニック人生相談】 Q:「死にたい」と思ってしまった場合、 どう対処すべきだと思いますか?

書籍『高橋ヨシキのサタニック人生相談』(高橋ヨシキ/著)より、「自殺」についての質問と回答を公開します。

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Q:ヨシキさんは自殺についてどのようにお考えですか? また「死んでしまいたい」「消えてしまいたい」などと思ってしまった場合、どのように対処すべきだと思いますか? サタニズムにおける「自殺」に対する考え方もお聞きしたいです。(質問者:「バイオハザード楽しみ」さん)

A:自殺は、できるだけやめた方がいいと思います。

 自殺については、できるだけやめた方がいいと思います。ただ、それも場合によりけりです。長期的に見て、明らかに改善の余地がない苦しみが今後ずっと続くことが確実な場合は、自殺や安楽死という手段も選択肢として考える必要があるでしょう。その苦しみが肉体的なものであればなおさらです。が、その場合でも、自殺/安楽死はあくまでも最後の手段であって、痛みや苦しみを緩和する方法が他にあるのであれば、まずはそちらから試すのが筋だと思います(肉体的苦痛が、たとえば医療用大麻で緩和できるものだった場合は、すぐにでも大麻が解禁されている国や州へ移動するべきです)。とにかく苦痛やストレスは百害あって一利なしなので、そういう不要な苦しみを低減できる可能性があるときは(オカルトやインチキ以外)なんでも試すべきです。

 精神的な苦痛の場合は問題が複雑です。精神的に苦しい、ということには多くのバリエーションが考えられるからです。たとえば学校でいじめられて辛い・苦しい、というような事例と、借金がかさんでどうにも身動きがとれず苦しい場合、対人関係がもたらす苦痛、あるいは精神病に苦しんでいるケースでは、それぞれ問題の本質も、(もしそれが可能だとして)解決の方法も違うからです。

 一方で、精神的に苦しんでいる人には、いくつかの共通点もあるのではないかと思います。たとえば、ぼくもそうなんですが、パニクったり精神的に追い詰められているとき、人間は必ず視野狭窄に陥って、長い目でものを見ることが難しくなります。

 それから、これは精神的に行き詰まっているかそうでないかを問わず、プライドというやっかいな問題もあります。なぜここでプライドの話が出てくるかというと、精神的に追い詰められている人が、にっちもさっちも行かない状況であるにもかかわらず、助けを求める声をあげられないでいる理由の一つにプライドの問題があると思うからです。「死ぬくらいだったら相談してくれれば、あるいは助けを求めてくれれば」と我々は言ったり思ったりしがちですが、それができないから死んでしまう人は想像するよりずっと多いといわれています。プライドなんてトイレに流してしまえばいいのに、と思っても、そう簡単にはいかないのがプライドのやっかいなところです。こうして、多くの人が自殺してしまいます。もちろん事態の解決を阻むのはプライドだけではないでしょう。視野狭窄も問題の解決を難しくするし、このような種々の要因が合わさって襲いかかってきた場合、普通の人間(超がつくほど無神経な奴以外という意味です)には、そういう「負の複合体」に対抗する術がほとんど残されていないとも思います。

 「死んでしまいたい」とか「消えてしまいたい」というのは、とても普遍的な感覚です。というか、そういう感覚に一度たりとも襲われたことがない人の方がぼくはむしろ信用できない。でも最初にも書いたとおり、自殺はできるだけやめた方がいいです。なぜなら、いかに自殺願望のある人がそう考えるのが難しいとはいえ、長期的に見た場合、多くの事態には好転する可能性がいくばくかは残されているからです。もちろん、より悪くなる可能性だってないわけではありませんが、悪くなる可能性だけに賭けていると身動きがとれなくなるので、あまりそっち側を注視しないようにした方がいいと思います。

 いま「注視」と言いましたが、何かに思い悩んでいるときには、それを注視「し続けない」ことも大事なのではないかと思います。何事でも注視し続けていると、知らず知らずのうちに堂々めぐりになっていたり、またその注視している対象だけが全世界であるかのような錯覚にとらわれがちだからです(だから宗教は自分たちの教えばかりを注視するよう信者を誘導します。そうすることで、その宗教が説いていることだけがすべてなのだ、という錯覚を信者に植え付けることができるからです)。ですから、こう言うと聞こえは悪いかもしれませんが、「よそ見」する習慣を意識して身につけることが、「死んでしまいたい」「消えてしまいたい」という思念(とその発生)を防ぐには良い方法かもしれません。いつも同じようなことを書いているようで気が引けますが、新しい場所に旅行するとか、いや、もう旅行と言わず、散歩でもいいのですが、とにかく外を歩いてみたり、普段触れているのとちょっと違う種類の映画や本や音楽に触れてみる、ということが大事だと思います。と、書いているとまたまた『モンティ・パイソン/人生狂騒曲』(1983年)ラストの超投げやりな「人生の意味」の説明のようですが、あれは実はとても本当のことを言っているとぼくは思っています。以前にも引用しましたが、『人生狂騒曲』ラストの台詞はこのようなものです。

「大したことじゃないけれど、他人にはできるだけナイスにしましょう。脂肪の摂り過ぎに注意。たまには良い本を読みましょう。ちょっとは散歩すること。そんでもって、相手の国籍や宗教がなんであれ、みんなと仲良く平和に暮らせるよう努めるように」

 なお、サタニズムは個人の自由を最大限尊重しますが、同時に現世の享楽をおおいに奨励していますから、その享楽の機会を自ら放棄してしまうこと(自殺)については、基本的には反対の立場だといっていいと思います。が、どうしても、というなら個人の選択が優先されるケースも当然あるでしょう。サタニズムの場合は宗教のように「あれをするな」「これをするな」と原理的に強制するのではなく、自分で考え、決断することを尊重するからです。

【回答を終えて】世間一般的には、苦しかったり辛かったりすることがあっても「逃げ出さず、しっかりと向き合わなくてはダメだ!」という考え方がメジャーなようです。しかし、「死にたい」とまで思い詰めるほど嫌なことがあったり、耐えがたい思いをしているのだとしたら、サッサと逃げてしまう方が断然いいと思います。学生だったら転校するか休学してしまえばいいし、会社や家庭であったとしても、「これ以上無理だ!」だと思ったら逃げてしまうべきです。その結果、誰にどう思われようがファックオフです。「逃げる」ということには「誰かに助けを求める」ということも当然含まれます。世の中にはいろんな活動をしているボランティアや、さまざまな状況に対応してくれるNPOも多く存在します(なお、宗教団体のところに行ってはいけませんよ)。「ここで逃げたら全部おしまいだ~!」と思い詰める前に、ひと晩でも1週間でもかくまってくれるところに逃げ込んでしまいましょう。

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illustration by Utomaru


編集部追記リンク:いのち支える相談窓口一覧(都道府県・政令指定都市別の相談窓口一覧)


本文出典:『高橋ヨシキのサタニック人生相談』高橋ヨシキ/著

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