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桜の咲く前に思い出すこと(心に残った教科書作品)


 最近、ミーミーさんの記事の中で、国語の教科書に掲載されている作品を題材にしているものがあって、自分も書いてみようと思っていたら、ちょむらんさんの記事に出会ってしまいました。

 これは、もう書くしかないね。
 ということで、桜が咲き始めるこの時期になると必ず思い出す作品について ”note” してみようと思います。


 その作品というのが

『言葉の力』

 光村図書の中学校国語の教科書に掲載されていた、詩人である故・大岡信さんのエッセイなのです。

 そのエッセイは、大岡信さんが、「美しい言葉」や「正しい言葉」について考察するものなのですが、ある人の言葉を美しいと感じたとしても、別の人が同じ言葉を使っても、美しいと感じるとは限らないということから始まります。

 大岡さんは、その理由として、言葉の本質が、その言葉を発する人間にあるものとして、あるエピソードを紹介するのです。

 それが、染色家の志村ふくみさんとのやりとりで、桜色に染まった糸で織った着物を見て感激した大岡さんが、その色をどうやって取り出したのか尋ねると、桜の樹の皮を煮詰めて取り出したのだということを聞いて、ひどく驚いたといったエピソードでした。

 え、花びらからじゃないの?

 大岡さんは、”体が一瞬ゆらぐような不思議な感じにおそわれた” と表現しているのですが(この部分、テストに出ます。)、私も同じようにすごく驚いたのを憶えています。

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 桜は、短い開花期間の艶やかな色彩を、ずっと幹の中に蓄えているんですよね。そう考えると、なんかスゴイですよね。

 大岡信さんは、言葉を花びらに例えながら、このエピソードを通じて言葉というものを考える必要があるのではないか。と、締めくくっています。

 短いエッセイですが、けっこう強烈に憶えてるんですよね。

 多分、光村の教科書だった人は、けっこうな人数の方が憶えてるんじゃないかと思います。

 今回、あらためて、この大岡信さんのエッセイを読みなおしてみて、短いけど深いなぁと感銘を受けました。
 言葉って、その人を背負ってるものだからこそ伝わるものなんですよね。

.....と、この記事を書きながら、自分の言葉って、どうなんだろうかと、思わず考えてしまいました。


 間もなく桜が咲き始める季節になりましたが、今は身をひそめてる木々の中には、たくさんの桜色が蓄えられているんだってことに思いを馳せながら、花が咲く前の桜たちを眺めたいと思うのです。


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 実は、紹介されていた染色家の志村ふくみさんも ”人間国宝” だったりして、スゴい方なんです。
 その志村さんのエッセイも面白いので、興味を持たれた方はぜひ!


 

 また、教科書作品のことを思い出させてくれたミーミーさんとちょむらんさんには感謝です。

 ちなみにその時のミーミーさんの記事はこちらです。

 こちらの作品も思い出深いですよね。