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新春企画!一般入試がなくなる世界を考えてみた(2)【12月でなくても走る「師」たち】


一般入試が終わった社会を割とまじめに妄想しています。前回はこちら。

今回は、こんなことを考えてみました。今回も新聞記事風にまとめています。

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午後5時半すぎ。終業対応を終えたAさん(30代女性)は、走って駅に向かう。生徒からの飛び入りの質問が入り、学校を出るのが遅くなった。駅までの間、何度も時計を見る。次の電車を逃すと「遅刻」が頭に過る。

Aさんは、大学、大学院修士課程で化学を学んだ。企業での研究職も考えた時期もあったが、化学の道に進むきっかけになった高校時代の恩師にあこがれて高校の教員になった。同じ女性として、子育てと仕事を両立している姿がかっこよく見えた。何より、化学の魅力を伝えるために教員は絶好の仕事だと思ったからだ。

そんなAさんの向かう先は、「高校教員向けの物理教室」。
高校時代、Aさんは、化学と生物を選択したため、物理はチンプンカンプン。そんな彼女が物理と向き合わないといけないのは、5年後に大学入試での一般入試が廃止される影響だ。

国は、高校教員のカテゴリーを文系(国語、社会など)、理系(数学、理科など)、英語(4技能と英語小論文)に分ける方針を決めた。保健体育は体育指導の外部委託が認められた3年前に教員資格から外されている。

一般入試が廃止されることは、この教員改革の一環でもある。
今後は単なる知識を教えるだけの教員は不要。蛸壺化しがちな教科教条主義を脱するために、教員の幅広い指導力を育成することが改革の柱だ。

今後、理系教員となるためには、最低3科目を教える義務を負う。生物はなんとか独学できそうだと思ったAさんだが、教員でいるためにはあと1科目が必要となる。Aさんは、数学か物理か情報を選ぶ選択を迫られた。数学は代数系、解析系、その他に3分割されており、そのうち2つが教員認定の資格になる。

ちなみに、現行の数学教員は、情報を教えられる教員は3科目認定となるが、教えられない教員は1科目認定となる。情報の教員不足を解消するための苦肉の策と言われている。数学教員からの不満の声がくすぶる。

このような科目横断的な教員資格認定となった背景には、少子化による効率的な教育環境の整備もある。教員不足は依然として続いており、一人の教員が複数の科目を教えることで問題を解決したいという国の思惑も見え隠れする。現行の教員にとっては、厳しい改革となる。

だが、ある文部官僚は、省内では、そもそも1教科教えるだけで、教員の身分が守られていたのは、あまりに甘い制度だった。これからの時代はこのくらいで当たり前だという雰囲気が支配的で、一般入試廃止によって改革の正当性が理解されやすくなったという。

帰宅後、Aさんは、来春の資格試験の合格のために物理の勉強に勤しむ。翌日の授業の準備もある。一般入試が廃止されるので、受験の準備はいらなくなるが、総合型選抜入試(新制度では資格認定試験)の対応はなくなることはない。

化学の楽しさを伝えるために高校教員になったAさんにとって、専門外の物理を学ぶことは何の意味があるのか自問自答する部分もある。

交際3年になる恋人との時間が取れないのも悩みの種だ。一般入試が廃止される5年後を目途に教員を辞める選択もあるのかなとも考えることもある。

Aさんがセミナーでの物理の復習を終えて、就寝したのは、午前1時半。翌朝は6時半には家を出た。そんな毎日が来春まで続く。

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一般入試の廃止は、教科教育の社会的価値の低下になるのではと予想しています。テクノロジー、とりわけ人工知能の発達は、単なる「知識」はこれまでのような価値を持たないと考える人が増えていくだろうと思います。

これが新自由主義的な価値との「合流」で、学校の先生が「優遇されて過ぎている」という考えにつながっていくのではないか。

そんな考えをベースとして書いています。

何事にも通底していると思いますが、これからの「労働環境」は決して良くなる方には、現実は動かないでしょう。それは、資本主義が労働者の待遇をよくすることで得られるメリットが何もないから・・・。

そこは、イデオロギーを超えた現実としてよく理解しておく必要があると感じています。


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