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学歴詐称疑惑の政治家の存在を許してきた現実が意味するもの【新聞テレビジャーナリズムと有権者】

この国のメディアでまともなのは、文春と赤旗だけだという説があります。

これらは、左右の代表的なメディアとも言えますが、その中間に位置するはずの「右でも左でもない」メディア、とりわけ新聞とテレビはその存在意義が揺らぐほどの危機的な状況にあると私は思っています。

今回、文春のメディア(月刊文藝春秋、文春オンラインなど)が小池百合子東京都知事の学歴詐称に関する記事を報じています。

小池百合子氏のカイロ大学卒業(かつては首席卒業とも報じられていた)に関して、長きにわたり問題がくすぶっていました。
私は、情報を総合すれば、蓋然性から「クロ」だとみていましたが、今回の報道でよりその「濃度」が上がったように思います。

実社会において、私は学歴はそこまでの意味を持つとは思っていません。学歴と仕事での有能さとの因果関係は、そこまで高いと思っていないからです。

なので、学歴は、あるに越したことはないものの、それだけでは通用しないと思っています。

しかし、学歴がそこまで意味を持たないことと、学歴を詐称することは、全く違う次元の問題だと思っています。

ましてや公金で仕事をする政治家であるならば、なおのことです。

学歴で政治家を選ぶ人は稀だとは思いますが、学歴を詐称する人を選ぶことは、有権者として褒められたことではないことは言うまでもないことでしょう。

ただ、選挙に勝ちたいがあまり、その学歴に手を加えてしまう人間はいても不思議ではありません。そのような人間を政治家として泳ぎ回らせることは、社会にとって大きな損失だと思っています。

学歴を詐称する人、とりわけ政治家で手を染める人は、根源的に人として誠実であることを期待できないからです。

政治は、社会で起こるあらゆる事象を扱います。だからこそ、私たち有権者が選挙で選ぶのだと私は思っています。すでに初手の段階で有権者を欺く人間に誠実な仕事を期待することは難しいと思います。

もちろん、政治家の仕事が誠実さだけで仕事はできないことは言うまでありません。しかし、誠実でない人が仕事ができるとも思えません。政治には理より情を汲む局面が多々あると思うからです。

だからこそ、政治家には、誠実さを含む人間としての素養が求められる。なので、学歴詐称は、政治家にとって「割の合わないこと」と知らしめる必要があり、人を欺く素養のある人間を可能な限り「排除しなけれければならない」。

そのためには、ジャーナリズムの健全性に期待せざるを得ない現実があります。

今回、文春がスクープしたことには、ジャーナリズムとしての意地を感じます。
文春が小池百合子氏の学歴詐称問題を報じたのは、少なくとも5年前。

この件について、追跡する姿勢が衰えなかったことが、今回の告発者の信頼を得たのでしょう。

では、その間、新聞やテレビは何をしていたのか。

前回の都知事選挙で圧勝したことで、都政取材に支障があるという判断なのでしょうか。

このような姿勢が、読者・視聴者の信頼を失っていく。その損失は大きいことは、当事者がよく理解しているのかもしれませんが、このような展開になると、新聞・テレビジャーナリズムが受けるダメージは極めて大きいのではと思います。

また、小池百合子氏の有権者へのアピール戦略のうまさ、巧みさは、全国のどのカテゴリーの選挙でも通用したでしょうから、この問題は私たち有権者の問題でもある。

ご自身の失言がなければ、もしかしたら国家元首まで登り詰めたかもしれないと思うと、いち有権者としてこの問題は深刻に受け止める必要があると思っています。


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