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デジタル化は、たぶん人をダメにする(6)【人生を変えてしまいかねない中高生のデジタルリテラシー格差】

デジタル化によって、人はダメになっていくのではないか。
私はそのような危機感を持つようになっています。

その危機感は何よりも自分自身の劣化を実感するから切実でもあります。少なくとも、デジタル化によって自身が進化しているとは思えません。

そんな観点から、記事を書いています。前回はこちら。

勤務塾は、開放型(パーティションでスペースを区分けしている)の自習室を設けています。そのため、私は授業をしつつ、自習室で勉強している中高生(大半は高校生)の様子を見ることができます。

自習室に来ること自体は、いいことなのですが、そこで目撃することになるのが、

スマホとの向かい方の違いです。

まず、上手にスマホと向き合っている生徒は机の上にスマホを置いていません。それはおそらく意図的でしょう。そのため、必要に応じて取り出し、使ったとはバッグにしまっています。

もしかしたら、無意識なのかもしれませんが、この行動には大きな意味があると思っています。

なぜなら、結果の出ない生徒の行動と比較するとそれがよくわかるからです。学習の成果が芳しくない彼らの多くは、すぐ手の届くところにスマホを置いているからです。

動線上の最良のポジションにスマホを置く。これが意味することは、彼らはスマホの奴隷。ハッキリいえば、依存症ではないかということです。

下の記事を見てもスマホが内包する害悪は大変大きな問題です。今更感があるだけに、根源的で大きな根深い問題だと思っています。

過激な表現となって、あれですが、私はスマホは、覚せい剤に似ていると思っています。

覚せい剤は、かつては、大ぴらに売られていました。

覚せい剤の歴史をみると、その「功」の部分がまずはクローズアップされ、その後、徐々に「罪」が理解されるという経緯をたどっています。

この認識の動きが私はスマホとよく似ていると思うのです。

今の高校生(受験生)における学習マネジメントに、当然のこととしてデジタルリテラシーは入るだろうと思っています。

なぜなら、大人であっても求められることだからです。

発達段階における中高生においては、なおのことです。

また、逆説的ですが、スマホの本当の怖さは、害ばかりではないことです。

検索機能や学習をサポートするアプリもあり、「使い方」次第では大変有意義なツールです。

しかし、スマホは、快楽を誘導するツールでもある。

人間は簡単にこの快楽に距離を置くことはできない。
その意味でも覚せい剤の中毒性に似ているとも思うのです。

数年前には、スマホ禁止や厳格な管理を方針とするご家庭はありましたが、私立高校を中心にタブレット端末の貸与が現実化すると、このような方針では生徒が学校生活で孤立することもあり、現実的な対応としては、皆無となったと思います。

ならば「現実的な解」として、スマホの使い方をコントロールする術が求められるということではと思います。

一生懸命勉強をしている最中に、LINEの通知がきて、そのあと、ずっとやり取りをしている高校生を見ると、このような使い方に問題意識がないと人生が狂うのではと思っています。

スマホは便利な道具であるからこそ、使い方に細心の注意が必要であり、そこは、天国への入り口であると同時に地獄への入り口もあるのだということを意識の俎上に置かないといけないと思っています。

中高生におけるデジタルリテラシーは確実に格差を生み出していると思っています。

しかしながら、このような問題が発生しているものの、まだ定量的な分析がなされないこともあり、スマホを活用した教育の「功」ばかりがクローズアップされていることは、どうなんだろうと思っています。

まずは大人がその功罪を正しく理解することが大事だと思います。

そうでないなら、中高生にスマホを是非を語ることさえできないと思うからです。

大人がスマホ中毒なっていれば、なんの説得力もないと思うので、気を付けたいと思っています。



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