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デジタル化は、たぶん人をダメにする(8)【字を書くという身体的動作は、知性の原点だと思うという話】

デジタル化によって、人はダメになっていくのではないか。
私はそのような危機感を持つようになっています。

その危機感は何よりも自分自身の劣化を実感するから切実でもあります。少なくとも、デジタル化によって自身が進化しているとは思えません。

そんな観点から、記事を書いています。前回はこちら。

今回は、神戸女学院大学名誉教授の内田樹先生のこちらの文章から。

このタイトルから、日本の貧困についてのお話だと思った方もあるかと思いますが、全く違います。

『鼻』の作者名を問うテストに「ニコライ・ゴーゴリ」と答えを書いた生徒がいた。ゴーゴリもその名の短編を書いているが、教科書で読んだのは芥川龍之介である。どうしてわざわざゴーゴリと書いたのか生徒に訊ねたら「漢字を書くのが面倒だったから」と答えたそうである。

上記記事より

これはすごい話です。ゴーゴリを知っている(たぶん)高校生。
一般的な知名度では、トルストイとかドストエフスキーとか、ツルゲーネフとかよりも「知られていない文豪」に知見のある若者が、芥川龍之介と漢字で書くのが面倒だという理由で書かないというのですから。

一定の知的水準があるはずの大学生であっても、↓のような状況にあるのだとか。

学籍番号までは読めるが、名前が読むのが困難で、コメントの文字に至ってはまったく解読不能のものが少なくないという。何を書いたのか学生自身に訊いてみたら、自分でも読めないと答えたそうである。

上記記事より

これは何なんだと内田先生も頭を抱えておられますが、直感的にこれもデジタル化の影響なんだろうと思っています。

ただ、そのようになる若者の気持ちはよくわかるところもあります。

私自身、字を書くという作業は鬱陶しいと思う方がむしろ自然だと思うからです。

板書で、運動方程式や運動量保存とか平衡定数や希薄溶液といった漢字の羅列であったり、複雑な漢字を書いたりするのは、ちょっとうんざりするところがあるのは日常茶飯事だからです。

北九州市の松本清張記念館には、清張先生の手書き原稿が展示してありますが、文字の原型をとどめていない「清張流速記文字」
のような生原稿は全く読めませんでした(^^)
大量の文章を身体を駆使して書くというのは、昔から大変なのです。

だからといって、コンピューターの時代なんだから、キーボードでカチャカチャ打てばいいというのは、違うと思います。

文字なんか書けなくても、キーボード叩けば済む。葱だって刻んだものを売っているし、靴下の穴なんかけちくさく繕わずに買い替えればいい。そうかも知れない。でも、身体の構造が崩れて、細密動作ができないという子どもたちを制度的に創り出しているかもしれないという危機感を大人たちは持った方がいい。

上記記事より

内田先生がおっしゃるように、大人が身体を使って字を書くという価値を捨ててしまうと、人間の持つ知性の土台が崩れるのではと思っています。

人間の知性は、クリックひとつで手に入ったり、検索して、ハイ!インプットという類のものではないのではと思うからです。

私が、手書き教材にこだわるのも、その身体性を重視しているからでもあります。

大げさに言えば、書くことは、知性の原点だと思っています。

デジタル機器を使ってインプットやアウトプットをすることそのものを否定することは今の時代、難しいことですが、だからといって、紙とペンを使って書くということを否定することは多大なリスクを抱え込むのではと思っています。



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