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【ミニマリスト志向】自分にピッタリはまるものに出会える喜びとそこにこだわる危険性

先日、ふと納得した。
私は「浅く広く」よりも、「狭く深く」付き合いたいのだと。
それはモノでも人間関係でも一緒。

昔から人付き合いは少ない方で、沢山の人と触れ合うよりも、「この人!」という人と深く長く関わっていたい。

モノもそう。
沢山のモノを持つよりも、「これ!」というモノをじっくり愛でたい。


断捨離を始めた頃は、多すぎるモノにうんざりして、とにかく手放して楽になりたかった。
当時の私にとっては断捨離は少なからず「煩わしいものから解放されるための作業」であり、モノが減っていくのと同時にマイナスな感情も減って、快適さが増した。

でも今、まだモノを厳選しようとしているのは、「煩わしいものを減らしたい」のではなくて、自分にピッタリはまるモノを見つけ出したいという欲求。


昨年、黒のタイトスカートを購入した。
購入した時はなにげなくというか、手持ち服とのバランスと相性を考えて、コーデのバリエーションを増やすくらいのつもりで買ったのだけど、これがめちゃめちゃ使い勝手がいい。
どのトップスとも難なく合わせられるし、40代という年齢にも、骨格ウェーブの体にも合うアイテムなので、とにかく使いやすく、かつ似合うものだから着ていてめっぽう気分がいい。
このタイトスカートがあれば、他のスカートはもういらないんじゃないか?
という気さえしている。


また、ここ数年ずっと愛用している靴がある。
とにかく履きやすく長時間歩いても足が痛くならないし、これまた手持ち服との相性がよく、オールマイティー。
こちらも実際にはこの一足だけというわけにはいかないけど、毎日それを履きたいくらい。


今の好み、ライフスタイル、年齢にピッタリあっていて、パズルのピースがはまったような気持ち良さがある。

年齢とともに好みやライフスタイルが変わって、微妙にフィットしなくなってきたらまた見直しが必要だけど、
しばらくはこのスカートと靴をひたすらに愛でたい。

おかげで断捨離は進む。
あんまりにもピッタリはまると、他を排除しやすくなるから。

しかもこういう、寸分の狂いもなく今の自分にピッタリはまるものに出会えると高揚感がある。
たぶんドーパミンが出ていて、中毒性がある。
服だけじゃなく、家中のモノを今の自分に「ピッタリ」にしたい。
だから今も「ピッタリ」を探し求めて、モノと向き合っている。


モノの場合は狭く深く、理想を追求して「ピッタリ」を追い求めてもいいんだけど、
モノと同じ感覚で人にそれを求めると危険だなと最近ちょっと思っている。


狭く深くの人付き合いは逃げ場がない。
そもそも人なんて自分にピッタリはまるわけじゃない。
あんまりにも価値観の違う人とはどうやっても相容れないのは仕方のないものとして、ちょっとのズレとか違和感とか心地の悪さは許容していくしかないんだろう。

一ミリのズレも許せないって、ラブファントムかよ。
人間関係破綻するよね。


何かと過剰な現代では、いろんなことをミニマルにしたほうがいいことにはおおむね同意。
モノも暮らしも人付き合いも、厳選することで生まれる快適さはあるだろう。
日常生活における純度が増して、ときめきの多い日々になることも実感を持って同意する。


でもピッタリフィットすることが自分の中で当たり前になりすぎて、許容できる幅が狭くなるのは考えもの。


バランス感覚は本当に大事だな。



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