見出し画像

「今ここを生きる」とはどういうことか?「人生をかけて成し遂げたいことは何か?」と問われて私が困った理由

少し前のこと、

「人生をかけて成し遂げたいことは何か?」というお題で語り合うという機会があった。


同じテーブルの私以外の3人が、さほど考え込むこともなく、ご自身の「人生をかけて成し遂げたいこと」を話してくれたのだけど、
私は途方に暮れるような気持ちで、順番が回ってきて困ってしまった。


コロナ禍に入る前は、確かに描いていたものがあった。
人が笑って幸せに生きるために生涯貢献できたらいいなと思っていた。

でもこのコロナ禍で、当たり前に続くと思っていた日々が分断されて、先の見通しが全く立たない状況を体感してしまうと、「叶えたい夢」とか「将来的には」とか「今後のために」とかそんな発想はなくなって、
私たちが生きているのは「今ここ」の時間であり、「今ここ」にしか確実なものはないんだと強く思うようになった。


このコロナ禍という厄災が、何故、私たちに与えられてしまったのか?
その答えも持たない。


私はコロナ禍でそれまでの仕事がなくなり、職を変わることになったし、それにともなってライフスタイルも、生活圏も、日々触れる情報や関心を持たなければいけないことも変わった。
本当は大切にしたかった時間も沢山失った。

今は落ち着いたけど、その途中の段階ではかなり苦しくて、
一時期は、精神的に病みかけていたのか病んでいたのか、かなり弱っていた時期もある。


3年前とは、すっかり人生が変わってしまった。



そんな中で、
私にできたことは「今ここ」を生きることのみだった。


今に何の意味があるのか、
この先何に役立つのかなんてわからない。
一歩先は闇で、未来が確実に来るかどうかもわからない中で、
ただ、「今ここ」の苦しみも悲しみも受け入れて、
喜びに胸を震わせ、安堵し、また突き落とされ、
そうやって「今ここ」を淡々と、重ねてきた3年間だった。


人生を振り返る時、この3年を、私はどう評価するだろう。
それはそれは不本意だったし、
やりたいことなんてできなかったし、
大切にしていたものを奪われた。

ではこの3年は、私の人生において無駄だったのか?
有意義ではなかったか?


否。


この先を私がどう生きることになったとしても、
この3年間も私が生きた人生の、大切な大切な一分一秒だ。


苦しんでいようと、
幸せでいようと、
その一分一秒の重みは変わらない。

その一分一秒を生きるということが、人生の意味なんだろう。


「人生をかけて成し遂げたいことは何か?」との問いに、
「成し遂げたいことなんてない。なくなった。今ここを生きることを重ねていくだけで」ということをぼんやりと答えた私に、

同じテーブルの人がプランドハップンスタンスセオリーを挙げて
「みみさんは(この先の何につながっているかわからないけど)今そのつぶつぶ中なんじゃないですか?」
と言ってくれた。

プランドハップンスタンスとは、1999年にスタンフォード大学のクランボルツ教授によって提唱された「キャリアというものは偶然の要素によって左右されるものが多く、偶然に対してポジティブなスタンスでいる方がキャリアアップにつながる」という考え方


実際に、私が「今ここ」を必死に、積極的に生きていれば、
それはきっと未来のキャリアにつながるのだろう。

ただ、私の今の気持ちとそれは、ちょっとフィットしていない。


きっとこの先の何かにつながるだろうと「今ここ」にポジティブなスタンスでいるのではなくて、
私は「今ここ」のつぶつぶは、つぶつぶのままでいいのである。

それがあとになって、大きなものに集約されていかなくても、何かにつながっていかなくても、ただ「今ここ」のつぶつぶを、味わいたいだけ。

決して後戻りできない、いずれ失われていく「今ここ」を、
焼き付けるように味わいたいだけ。

「未来のために」ではない。
「今ここ」を、ただ大切にしたいだけ。



新聞紙を42回折ると、その厚みは月に到達するという。

「それならば月を目指してせっせと折ろう!!」というわけでもない。
「たかが新聞紙って侮れないでしょ、ほらその一回一回の積み重ねが大事なのよ」という心持ちでもない。


ただ、目の前にある新聞を折りたい。
それが何につながっていくかなんて考えず、折りたいから折るだけでいい。


目の前にある新聞を、折りたくなったから1回折る。
もう一度、折りたくなったからもう1回折る。
気が済んでしまえば、別の「目の前」のものに注力する。

結果、3回折られただけの新聞が、あちこちに散らかっていてもかまわない。


何か成し遂げたいことがあるということは、幸せなことだ。
その夢を見られることも、そこに向かって必死に取り組めることも、とても幸せなことだ。


でも成し遂げたいことのために生きるのが人生ではない。
生きているというそれ自体に価値がある。


たいそうなものは何も残らなくても、ただ新聞を折り、床をみがき、花を愛で、ごはんを噛みしめる…それだけの日々にも生きる意味はあって、

むしろ、そんな日々の営み、今、自分の目の前にあることに、誠実に向き合い続けることこそが人生なんじゃないのか。


月に到達するような偉業を成し遂げられなくても、
誰かの賞賛に値しなくても、
大きな夢を追いかけなくても、

今、目の前の「新聞を折りたい」という気持ちにちゃんと応えて、新聞を折ることができたなら、ただそれだけで、それは素晴らしい人生じゃないのか。



私は「今ここ」にある私の気持ちを丁寧に誠実に拾い上げて、それを大切に生きたいのである。

今、目の前にある出来事、「今ここ」の自分の気持ちに向き合うだけ。
それが未来にどうなるとか、そんなことはどうでもいい。
それを重ねた先に何かを手に入れたいのでもなく、何の形を残せなくても構わない。


ただ、私は「私」を生きたいのだ。
強いていうなら、私は「私を生きる」ということを人生をかけて成し遂げたいのだ。



私は私を生きたい。今この瞬間を大切にして。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?