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【HIP-HOP誕生50周年】ヒップホップはどのように生まれたか?


「ヒップホップって、何?」

この問いに答えられる人、いますか? 1973年8月11日に誕生したとされるヒップホップは今年で50年。ニューヨークで生まれ、「DJ」、「B-Boying(いわゆるブレイクダンス)」、「MC」、そして「グラフィティ・アート」という4大要素からなるストリート・カルチャー、というのが一般的な定義ですが、それだけでもないような気がします。

7月下旬に発売された2枚組LP(輸入盤)『RAISED BY RAP: 50 YEARS OF HIP HOP』のライナーノーツの中に、その秘密を解くカギは隠されていました。今回は特別にその一部を抜粋してお届けいたします。筆者はグランドマスター・フラッシュらヒップホップ黎明期のレジェンドと交流の深い音楽歴史学者のジェイ・クァン(Jay Quan)。翻訳はヒップホップを中心とした音楽ジャーナリスト、渡辺志保さんです。

1973年8月11日、NY・ブロンクスの街角で何が起こっていたのか?文章からヒップホップが誕生した瞬間のエネルギーを感じ取ってみてください。

好評発売中『RAISED BY RAP: 50 YEARS OF HIP HOP』

1. おさえておきたい!ヒップホップの4大要素

ヒップホップが歩んできた進化の道を辿ると、より複雑な部分やグレーなエリアもある。”進化”という言葉は適切だ。なぜなら、ヒップホップのサブカルチャーを構成する要素=「DJ」、「B-Boying」、「MC」、そして「グラフィティ・アート」は、ヒップホップが現実のものとなるずっと前から存在していたからだ。”ヒップホップ”という言葉は1935年、アメリカのジャーナリストであるウォルター・ウィンチェルが作り出した。元々、ヒップホップの中心となっていたのはDJ(もしくはディスク・ジョッキー)であり、DJは音楽シーンにおいても常に不可欠の存在となった。今も、DJたちは音楽を絶えず鳴らし続けるために、複数のターンテーブルやCD、音楽ファイルを操りながら、曲をブレンドもしくはミックスする練習に励んでいる。

ブリタニカ百科事典は、”グラフィティ”を”公共スペースにおける個人またはグループによるマーキング。であり、大抵の場合は違法のヴィジュアル・コミュニケーションである”、と定義している。語源となっている”グラフ(Graf)”の起源は、16世紀にスペインの岩の上に書かれたものだとも言われている。

アフリカン・アメリカン・カルチャーにおいて、MC(ラップ)は常にポピュラーな表現方法であり、それは話すことと同意義であった。公民権運動活動家のH・ラップ・ブラウン、ボクシング選手のモハメド・アリに始まり、ジェームス・ブラウンやアイザック・ヘイズといったソウル・シンガーたち、そして、ジョッコ、ハンク・スパン、フランキー・クロッカーといった”ジャイヴ・トーキング“(仲間内だけで通じるスラングを多用し、早口でリズムに乗った話し方)を得意とするラジオDJたちは皆、韻を踏みながら会話し、それがやがて”ラップ”と呼ばれるようになった。

ブレイクダンスの動きは、ザ・ミルズ・ブラザーズやザ・ニコラス・ブラザーズらによる1930~50年代のミュージカル作品、また、ブラジルの格闘技であるカポエイラにも見られるものでもある。

2. ブロンクスって、どんなところ?

1977年、ニューヨーク市北部のブロンクス区は、文字通り炎が燃えていた。当時の大統領、ジミー・カーターはブロンクスのシャーロット・ストリート地区を訪問し――のちにその状況を”厳しい”と語った――、ある記者は、同じエリアを”戦時中に爆撃を受けた後のようだった”と述べた。 ロナルド・レーガンが 1980 年に選挙運動を行った際にも同じ地区を視察し、彼らと同様に瓦礫まみれの荒廃した街を目撃している。こうしたシャーロットのようなストリートこそが、ヒップホップ・カルチャーを生み出したのだ。必要性こそが発明の根源だとすると、ヒップホップはまさにその象徴であった。

音楽は常に、貧しい人々や虐げられた人々における現実逃避のツールであり、ヒップホップ・カルチャーの中心に位置するものである。ヒップホップの要素が発展していった場所は、親しみを込めて”ジャム”と呼ばれる地域のパーティーだった。DJは、バラバラの部品を組み合わせてステレオ・システムを完成させ、パーティーは、時には本格的に、時にはカジュアルに開催されたが、いつだって近所の人々を喜ばせることを目的としていた。

ブロンクスの1520 Sedgwick Avenueがアメリカの議会決議によって正式に「ヒップホップ誕生の地」として認められる

出典:https://hiphopdna.jp/news/15803

3. 誕生(DJクール・ハーク)

DJクール・ハークというステージネームで知られるクライヴ・キャンベルは、1967年にジャマイカのキングストンからアメリカに移民としてやってきた。彼の目的はハッキリしており、それは、人々を楽しませたい、ということだった。新学期を前に、彼は自分の姉妹のためにパーティーを開いた。1973年8月11日、場所はブロンクスのセジウィック通り1520番地にあるレクリエーション・ルーム。ハークは、2台のターンテーブルを駆使して、ジェームス・ブラウン”Give It Up or Turn it a Loose”のような、ファンクやソウルの楽曲の中に含まれるパーカッションの音が目立つ部分(ブレイク)を分離させて繋ぎ合わせていった。

のちに伝えられるところによると、そのパーティーで、ハークはブレイク部分(”ブレイクビーツ”ともいう)で踊るダンサーたちのことを、”Break Boy”を略して”Bボーイ”と名づけたという。また、ハークは前述したジャイヴ・トークを繰り広げるDJたちのようにビートに乗せて喋り、のちに、MCやDJを雇って同様のパフォーマンスをすることになる。当時はビートに合わせた語り口ではなかったものの、この喋りこそがラップの原型となった。かくして、ブロンクスのあの 8 月の夜は、ヒップホップ・カルチャー誕生の日として宣言されることになったのだ。

1970年代のブロンクスを舞台に、夢を追う若者たちの青春とヒップホップの誕生を描いたNetflixオリジナルドラマ『ゲットダウン』もおススメ!

出典:https://www.netflix.com/title/80025601

4. ブレイクビーツ(ピート・DJ・ジョーンズ)

グランドマスター・フラッシュやアフリカ・バンバータといった他のDJもまた、クール・ハークが発明したブレイクビーツのテクニックに感化されていった。詩が好きだった2人は、クール・ハークがビートの上で喋る様子にもインスパイアされた。1970年代にブロンクスへ引っ越してきたピート・DJ・ジョーンズも、ハークのようにレコードのサウンドを分離してDJをしていたものの、パーカッションの音はそのまま残していた。それは喋ることが目的ではなく、「3時間続くパーティーでDJする場合、曲そのものを延長しなければならなかったんだ」と、2001年にインタビューで答えている。「レコードにおいて最も重要なのは、”ブレイクダウン”。みんなが”ブレイクビーツ”と呼ぶ部分だ。みんなが踊るのはこの部分だから、そのパートだけをずっとプレイし続けた」。ピート・ジョーンズは、キュー・システムを内蔵したミキサーを使用していた。よって、片方のレコードが観客を踊らせている間、彼のヘッドフォンの中ではもう片方の曲をプレヴューしながらDJすることができたのだ。

5. 完成(グランドマスター・フラッシュ)

グランドマスター・フラッシュは、クール・ハークが生み出したレコードのビート部分だけを掛けるという点に惹かれていた。彼はピート・DJ・ジョーンズのようにキュー・システムを備えたミキサーを持っておらず、実際に使用している機材は、廃品置き場から拾い集めてきたパーツや処分品のサウンド・システムを組み合わせたものだった。まるで科学者のような頭脳を持つフラッシュは、ピート・DJ・ジョーンズが使っていたクラブマン製のキュー内蔵型ミキサーを観察し、自分のミキサーにワイヤーを施して特製のキュー・システムを取り付けた。そして、グランドマスター・フラッシュは独自の”クイック・ミックス”や”クロック”と呼ばれるセオリーを構築していった。これらのアイデアは、ヒップホップに数学や科学を応用したものであり、結果、ラップをアートフォームとして永遠に変化させていくことになる。

◆Grandmaster Flash & The Furious Five - The Message

(文:Jay Quan/翻訳:渡辺志保)
※この文章の無断転載を禁止します。


ヒップホップ誕生物語は、いかがでしたでしょうか? それでは、80年代のクラシックから最新ヒットまで、50曲でヒップホップの歴史を体感するプレイリスト『HIP HOP 50』をお楽しみください。