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写真探究 1-20

1.目に見えるものを、写真機で撮影する。
これによって見えるもの、肉眼との差異。
そのことの面白さ。
これが先ず写真作品というもの。
目が見えない状態も同様に考えること。

2. 光と影。
ではなく、すべて光。
影は写らないのではなく、影は光量が少ないということ。
そのグラデーション。

3. 光のグラデーション。
何故コントラストというのか、コントラストは一つのパラメータにおさまる。
グラデーションは、多くのパラメータの総合である。
その中でコントラストは二分割、三分割、四分割と画面の強度を分割するものかもしれない。

3-1 コントラストを見る。
とは、ある場面の強弱を眺める場所にいる。
本人も光の下であれ、影の中であれ別のコントラスト(強弱)の中にいる。

3-2 フレームの中にコントラストが描かれている限り、撮影地点の主観性は逃れられないことになる。

4. ニーチェの同情への拒否から見えるもの。
ものの見方、捉え方のうち、誰かへの同情があったらそれは、自らの放棄であり、真似事になりかねない。
そして、同情への拒否を当然として、それへの解釈をもち、自らは立場を譲らずに仕事を進めるべきである。
その背後にはいつも影のように彼ら彼女らが潜む。
影、そこにはやはり若干の光が含まれ、グラデーションとなり、自らはハイライトのように消えつつもそびえている。

4-1 それでもなお、作為なき写真は事実だけを写す。

5. そして写真は光ある場所をフレーミングし、抜き取る。
グラデーションの定着。
これは現実(瞳)からであり、そして機械的となり、私小説とならざるを得ない。
物語とするなかれ(それは作為であり、不誠実極まりないフェイク写真の連なりである)。
そして、その語り手はグラデーションの中に生きる。

6. そして、グラデーションの語り手は、他人からの指示を得ない限り、生涯私ごとのグラデーションの中で語る(またその逆でグラデーションの中に私ごと、関心の発見をし)。
その作品となった写真たちを並べ、時間を経て並べられたもの(写真)をコラージュと呼ばずして何といえるだろうか。
以上 2024.3.22

7. 真の黒、ダークが測れないように、真の白、ハイライトも同様に測れないように、写真機は表面の光の反射をとらえたものである。

8. コントラストとグラデーション。
コントラストは離反しながらも同一であり、仮面をかぶり距離的な区切りはないようである。
グラデーションは時間のように、始まりから終わりへの移行。
またその逆でもある。

9. コントラストがあってはじめてものが現れる。

10. 瞳はコントラストを捉え、コントラストで強調されるものは自然の仮面であり、その自然の本質にも近づき、人への影響を与える。
まったく私的に。

11. 私小説とはつまり経験であり、それは自然の中にあったもの。

12. 経験は嘘ではない。
それを偽るのが嘘である。
よって経験=自然は主観が立ち会うのであり、それを記録したものはみな私小説的である。

13. 経験をコントラストで強調することは嘘ではなく説明であり、自然の仮面を表すもので、そもそもはコントラスト(強く、弱くもある)の中に埋没した世界に人の意識は反映されるし、それを説明するのも写真であり、誰の意見の肩を持つのでない限り、私的なものである。 

14. 自然は自然の中で生きている。
自然の変容、コントラストとグラデーションが主観に経験を与え、人を良くも悪くも豊かにする。
外からの影響。外の思考。
その記録、再現としての写真。

15. 自然の変容を昼と夜、季節変わりなくいつでも現実を写す。
その可能性の中に心情、インスピレーションはある。自然は一つの変わらない基準である。

16. 心情は観てると同時に何かを感じ、感じたものは言葉として心に留まるのではなく、変化する瞬間の差異の持続の中で現れては消える。
それが形になるのは写真においてである。
切り取る瞬間は感覚が主体に対して影響が大きい場合である。

17. 写真とは表面であり、そうなると裏もまた表面であることになる。
以上3.23

18. 写真は願いを託したとしても、現実しか写さない。しかしそこには願いとは別の多くのものが表れている。

19. 思いもしないものの定着。
それこそ意図を逃れて表れた鏡であり、その無価値のようなものこそ銀河と引けを取ることのない美であり、誰のものでもなく、私たちの表象以前の砂粒の如き、現実である。

20. 砂粒の如き現実。
ここに人為が加わることにより、願いや欲望が加わる。
それらに、本来無関係な態度を示すのが写真である。

作家活動としての写真撮影や個展、展示の為のプリント費用等に充てさせて頂きます。サポート支援の程よろしくお願いいたします。