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ドキッとしたので覚え書き

栗原康さんの著書「死してなお踊れ 一遍上人伝」を急いで読んでいる。単純に凄く面白く、次は?んで次は!?というように急いで読みたい気持ちにさせてくれる本だという事もあるのだが、どうもこの物語の一遍上人が脳内でとある友人に変換されてしまうので、ちょうどその友人に明日会う約束もある事だし、この本を読みきって明日渡したいな、なんて思い急いで読んでいるのである。

で、クライマックスに近づきつつある章で、ドキリっ、どころかちょっとサブイボというかビックリしてしまい、しばし放心状態に陥ってしまった。で、さきがたようやく戻ってこれた。危うく西方浄土に渡りかけてしまった、とは大袈裟であるが、まあもう渡ってしまうに越した事はないのだけど、明日はその友人と京都にてサウナからのヨガ、というゴールデンフルコースをともに味わう予定なので浄土へ渡るのはそれからでも遅くはあるまい。と思い戻ってこれた次第。

で、何がそうビックリさせたかというと、最晩年の一遍上人の詩

をみて、えっ!?てなり

と、いう具合に(暗くて細かくて読めないかもごめん)、この詩を著者の栗原さんが情熱的に独特なハイテンションな文体で解説してくれているのを読んで、ちょうど2日前にサウナにてキマリすぎて、じゃなかった、ガッツリ整いまくってしまい、その時風呂屋の中庭で蝉の声を聞いていていて降りてきた思考とその心境が、まるでこの詩の根っことその解説にある一遍上人の感じたであろう心象の一部とシンクロニシティーんしていたのでもうホントオにビックリしたのである。踊念仏の事や浄土思想とその時代背景、一遍上人に対する知識や、この作品を読んでいないと何の事かさっぱりわからないだろうけど(だから覚え書き、と銘打っているのだけど)、簡単にいうと一遍上人は死期が近づく最晩年のある日に蝉の鳴き声を聴き、その時に捨てて捨てて踊り踊り踊り狂って一心に念仏を唱え叫び続けてきたその意味を悟ったのである。で、僕はというと、サウナ行中にとてつもない数の蝉の鳴き声を素っ裸で聴いていて、うるせぇな、なんて時には思ってしまうあの夏の風物詩、蝉の乱れ鳴きを、なんだかそれが彼らの全生命の放出、というか、四方八方無尽蔵に世界を揺らす魂の振動、というか、とにかく生き切って死んでやるっ!という命をかけた宣言のようなもの、として感じてしまい、そしてそれらの表出である鳴き声全てが全身の感覚器に突き刺さり、またその生命の慟哭があらゆる神経や脈管を通って稲妻の様に脳へと衝撃を打ちつけた。と思ったらシャワーを一心不乱に頭から被って誤魔化さないといけないほどにもう涙がナイヤガラで、軽い呼吸困難になるぐらい嗚咽してしまっていた。圧倒的な生命の熱気にあてられて。と同時にこれからの自分の生命の往きどころが見えた様な気もしてテンションも10度、20度、30度っ!(マック赤坂参照)と急上昇してしまったのである。結果としてはアラフォー無職が平日の昼間っから風呂屋で号泣、という大失態を演じてしまったのであるが。…あぁ、文字通り笑えない。

僕の気づきや沸き起こる感情なんかは、ただたんに現象に対する一時的な生理反応であり、ただの思い込みレベルである(今はね)。それを一遍上人の詩の意図や思想と比較するのもおこがましく、それは近所を流れる用水路と太平洋のど真ん中の深海ほどに深度の違いがあるのは当然かつしっかりと自覚しているつもりだ。それでも歴史に名を残す様な仏教界の偉人(奇人でもある)と、同じような現象(蝉の声を聴いた時)に出くわした時に、一瞬でも何となくニアリーな感覚になった事はちょっと肯定的に受け止めてみたい。と思っている。生きる事に自信が持てなくなり、もう這い上がる気も起きないほどの暗い絶望の深淵でしがみつき、ただただ浅い呼吸だけ繰り返しじっと耐えていた様な状況から、絶好調とまではいかないけれど、今では確実に回復の手応えを感じとれるまでになっている。それどころか、こうしてちょっとした自然の中の事象と対峙した時、自分を含めた様々な生命の運動を心と身体の芯から感じる事ができる時も増えている。そして以前も言った様に、生きて生きて生きてそうして世界を味いつくしてやろう、と。そう思えるようになりつつあるのは紛れも無い喜びなのである。

僕は酷く感傷的な人間だ。映画のトレイラーだけで号泣できるし、最近はゲジゲジや蚊ですら殺すのを躊躇う。人の顔色や表情ひとつで大事な1日の大半を無駄にしてしまうこともできる。HSPの簡易診断なんかやるととんでもない高得点を叩き出してしまってひどく落ち込む。感傷的どころかもう生まれてずっと情緒は軽く不安定ぎみなんだろう。薄々気づいてたけど、もうホントにたまらなくそれが嫌で嫌でしょうがない、と思い生きてきた。竹を割ったような性格で物事に動じず、上にも下にも頼られるラグビー部の主将、みたいなキャラに心の底から憧れてきた。今でも。でももうここまで生きてきて変われないのだったら、それを受け入れなければどうしようもない。蝉は地上に出てから1週間かそこらで全生命を放出したおす。何かに憧れたり哀しみに打ちひしがれてるヒマなどきっとないはずだ。ご近所両隣に気を使って小さい声でビクビクしながら端っこで鳴いていても、猛り狂った様に命を放ち続けるザ体育会系の蝉と変わらずほぼ同じような期間生き、そして同じような時期に死んでしまうのだ。つまり命は全力で燃やすしかないのだ。死ぬまで生きなければいけないなら、もう命を燃やしたおすしかないのだ。あぁヤバイ!気づいたらもう明け方だ!

結局、感傷的で思い込みのこじつけのような、感情が赴くままメモっただけ。そしてなにも纏められぬまま時間ばかり消費した気もしないでもないがまぁそれは良いとしよう。走り書きの覚え書きなのでこれはこれで十分だ。最近は梅雨が過ぎて何とか外に出る気力も湧いて来ており、自律神経の方も若干整いつつある。実はこれからもう迷わず進む道も思い描いている。てか、もう自分の気持ちの向く方向を信じて生きていくしかない状況なのだ。あぁ、もういい加減に寝てこまそう…

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