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腹囲が気になる福井の旅 織田信長に楯突く男、越前朝倉氏の遺跡 19.11.26 12:37

永平寺からは人尾根越えた足羽川がその尾根を大きく蛇行して迂回する場所が一乗谷と呼ばれている。その一乗谷から細く杭を打ち込んだような深い谷あいの先に一乗谷朝倉館はある。いや、織田信長に滅ぼされるまではあった。いや、織田信長に攻められて逃げ出すまではあっただ。

但馬国養父群朝倉で始まった朝倉氏はやがて越前に移り越前の守護斯波氏に従える。この時、斯波氏の序列では甲斐氏、織田氏に次ぐ三席だったとか。驚くべきことに織田氏と朝倉氏の先祖は斯波氏の下で同僚であった。
斯波氏はやがて、尾張と駿河の守護に任命され、織田氏は尾張の守護代へと移っていく。
斯波氏の弱体化が顕著になると、織田氏、朝倉氏ともに独立し応仁の乱のいざこざの中、朝倉氏は甲斐氏を圧倒して越前を統一。やがて守護に任命されるようになる。織田氏にしろ朝倉氏にしろ、動乱の中、残るべくして残ってきた感じすらする。
そんな朝倉氏は一乗谷城を中心に越前国を支配したが、そんな一乗谷の朝倉氏の館跡と城下町が国の史跡として残されている。


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永平寺から国道158号線で尾根を超え足羽川が大きく蛇行する一乗谷から鯖江美山線で足羽川の支流一乗谷川に沿って谷あいへと分け入る。コンビニも商店もない谷あいの道を走ったところに突然現れるのが一乗谷城、一乗谷朝倉氏遺構が現れる。

なぜこんな不便なところにそれが第一印象。戦国時代の走りは発展よりも保身だったんだろうな。

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鯖江眉山線、一乗寺谷川を間に挟んで、左岸が一乗寺谷城朝倉遺跡、右岸側が復原町並。朝倉氏時代の遺構が再現されている。
無料の駐車場にレンタカーを停めて、まずは復原町並から見て歩く。

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復原町並は大人一人220円。資料館との共通券もあるが今回はパス。
200メートルを超える街並みが再現されているのだが、これハリボテ。
壁こそ再現されているが、中の屋敷や建物は遺構のみ。
なーんか古い街並みって感じがしていいのだが、建物がないとやっぱり薄っぺらい。門の間から邸内を覗くとガッカリだったり。

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何件か小屋が再現されて入るが所詮小屋。
武家の屋敷がそのまんま再現とはなっていない。

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まぁ、表の壁を再現してインスタ映えはするでしょみたいな発想は悪くはないが薄っぺらさからくる残念感はどうしても否めない。
しかし、武家屋敷がこれだけ並ぶのはわかったが、一般の民家はどこにあったのだろう?武士だけでは生活が成り立たないだろう。農家や商業の民の存在が一切見えない。鍛冶屋がなければ武器にも困るだろう。本当にここにこんな街があったのか?それすらいかがわしい。


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楔を打ったような狭い谷あいの集落。
車道を渡って小川を超えると朝倉氏の館跡。
立派な門こそ復元されているが中に入るとやっぱりこちらも礎石が並ぶばかり。

復元っぷりは残念な感じだけれども、越前は戦国時代、京都に近いわりに比較的安定安全な土地だったので、京都から公家が多数避難の地として訪れていた。その中には後の将軍足利義昭もおり、思いの外都へのパイプは太いものだった。
当然公家や公方が避難してくれば、朝倉屋敷の一部があてがわれたはずで、この礎石の上に建物が立っていて、のちの将軍も避難していたと思うとこんな山の中の谷あいに開いた文化の華を馬鹿にできない。

都への上洛を迫る足利義昭ではあったが、そもそも朝倉氏にそんな色気はない。そもそも都を抑える実力が疑わしいことをよく知っている。
結果、足利義昭は岐阜の織田信長を頼って都に凱旋。最後の将軍の地位を確保したが。

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足利義昭の要請を反故にし続けた朝倉氏は織田信長の上洛の要請にも従わず、反逆者として討伐の対象になってしまう。敦賀の金ヶ崎まで攻め込んできた信長を、浅井氏と挟み撃ちにする予定が、信長の情報収集力は半端なく脱兎のごとく京都に逃げ帰られてしまう。浅井氏の裏切りがあぶり出されただけに成ってしまった。
その後朝倉氏は信長が本願寺と戦っているスキに浅井氏とともに挙兵をして信長の背後大津の宇佐山城を襲い、そのまま京都に迫るかと思ったところに信長が信じられないスピードで戻ってきて逆に延暦寺に閉じ込められることに。
将軍家や天皇の仲裁により両者和解をしたが、しかし、調子に乗れたのはここまで。
信長包囲網の最大の実力者武田信玄が東海道で病に倒れて甲斐に帰ってしまうとパワーバランスが一気に崩れる。
なんとなく煮え切らない朝倉義景から家臣が離れ、信長の朝倉征伐に耐えられなくなる。頼みの浅井氏との連帯もままならなくなると家臣の裏切りが止まらず、後は没落へ一直線。
一乗谷を放棄して平泉寺の山間部に逃げたところで万事休すの自刃となった。

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越前朝倉氏、背後の加賀は一向一揆で大モメだったが、他国を攻めるほどではなく、隣国若狭国も実質支配下にあったので、戦国の世の中呑気に暮らしていたことが滅亡への最大の原因なのかも
そもそも朝倉義景は六角氏からの養子だったようで、家臣の心はここにあらずだったのかもしれない。
家臣は道路向こうの狭い空間に押し込めて、朝倉家は家臣の街以上の広大な敷地の屋敷に住んできたのでは、ほんとうの家臣の心なんてわからないだろう。

滅びるべくして滅んだ朝倉氏だが、匿った延暦寺は信長により焼き討ちにあい、金ケ崎で挟み撃ちを狙った浅井氏も滅亡の憂き目。朝倉氏、仲間を不幸にして回るところは半端ない。いるよねぇ。いつの時代もいつの世の中にも。





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